0-1 世界渡り
春を知らせてくれる風が、昇降口に立った俺を出迎えてくれた。
春の日差しというのは、暑過ぎず寒過ぎない適度な温度で心地がいい。
冬は気温が低すぎて、また夏は逆に高すぎてこの日差しが良くは感じられないのだ。
周囲に畑や木々しか無いが故の清涼感だろう。ビル街や工業団地ではこうはいかない筈だ。
都心から少し離れただけで、これほどに空気が違う。
「……っと、そうだった」
風をしばし堪能していた俺は、慌てて靴を履き替えた。立ち尽くしていた昇降口を抜け、段差に腰掛けて踏んでいたブーツの踵を直す。
今日は平日で、もちろん学校がある。早帰りではないので、昼近くの今頃は授業をしている時間だ。今頃は教室で教師達が授業でもしていることだろう。
そんな時に校舎を出る俺は当然サボり。
鞄を持った状態で見つかれば、当然声をかけられるだろう。
全くこれっぽっちも正当な理由を持たない俺は困る訳で、
「早く行くか……」
という結論で、中身が空の学校指定鞄二つを肩に背負い直す。重みが右肩に食い込むが、別に痛みはない。
走る分にも問題ないが、変に速く動けば窓際の生徒や先生に気づかれる可能性も無くは無い。校舎の一階でだって、授業をしているのだから。
焦燥を抱きながらゆっくりと。この誰かに見つかるかも、というスリルを味わいながら歩くのもいいだろう。軽く足音を立てても気にされないのは、教室を横切った時点で分かっているのだから。
とはいえ、サボるのなら早く学校の外に出たい。逸る気持ちを冷静に抑え、俺は昇降口を後にした。
「…………」
うちの高校は、何の変哲もない県立高校だ。やや大きめのグラウンドがあり、そこそこの体育館があり、校舎の間に雑草の生えた中庭がある。中庭といっても、校舎間のスペースの殆どは駐輪場で占めているので、少し手狭にも思えるが。
「……ぉ」
中庭には申し分程度に置かれたベンチと、それを日差しから守るように植えられた木がある。角度によっては、木の幹で校舎の窓からの視線を逃れることができるのだ。
つまり、授業を受けずに寝ていられる絶好の場所である。木の側って、夏場は意外と涼しかったりするからな。
その、昼寝に丁度良さそうな場所に、俺の目的がいた。
日差しや視線からも隠れるように、木の幹を背にして深く寝入る少女。
「………」
静かに眠る姿は、まるで御伽噺に出てくる眠り姫だ。
目を閉じていても分かる容姿端麗な顔。シミ一つ無い白い肌に、烏羽色のセミロング。深く寝入っているようで、脱力した肩が呼吸に合わせて揺れていた。
人間が最も無防備になる時間を、彼女はここで惜しげも無く晒していた。余りに無防備な姿に思わず嘆息する。
豊崎愛美。サボり癖有りの俺の幼馴染だ。二つある鞄の片方は、彼女の物である。
「……はぁ」
俺は雑多に歩み寄り、彼女の名前を呼んだ。
「愛美」
最初は気持ち優しく。
「おーい、愛美ー」
次からは声を大きくぞんざいに。
「こら、起きろー。愛美ー」
そして更に次からは頬を軽く叩いたり肩を揺すったりする。
頬が赤くならない程度に叩いても起きない。首に負担にならないように揺すっても、やはり起きない。
「……はぁ」
溜息が出るのは、本日何度目か。
サボりの身分なのであまり大きい声は出せないのだが、これだと幾ら声をかけても起きる気配はない。
これだけ深く寝入っているならば、それも仕方ないか。
「おら、よっと」
鞄を近くの屋外テーブルに置いて、寝ている彼女の体に負担にならないように抱きかかえる。このまま放っておくという選択肢もいいが、風邪を引かれても困る。世話をするのが俺になるのだから。
置いていった鞄は後で取りに戻ればいい。空の鞄なんて、変わった趣味な奴以外誰も盗みはしないだろう。
「………」
「んぅ……」
……しかし。
寝息の聞こえる整った顔を眺める。気持ち良さそうで結構だが、腕の中で寝返りを打つのは止めてくれ。
高校生とは思春期の最中で、俺も例外ではないのだが……生憎、その手の疚しい感情は湧いてこない。
草食系男子、というより枯れているのかもしれない。こうして抱きかかえていると伝わってくる体温や柔らかい花の香り、白い肌にスカートから除く細い足。
「…………」
しかし、この光景は一度や二度どころか、何年も見ているからだろうか。
暫しジッと眺めてみたが、どうも情欲とかその手の感情が湧いてこない。まぁ、寝顔に欲情とか終わってるとは思うけどな。
「……慣れって怖いな」
欠片も色気を感じず、溜息を吐いた。
美少女との幼馴染とは、我ながら出来過ぎた話だと思うだろう。世間の男達は恐らく羨ましがるかもしれない。
いや、実際そうだし、妬まれてもいる。変なちょっかいを出してくる時もあれば、公の場で堂々と手を出してくる奴もいる。
……しかし、考えてみてくれ。
確かに、愛美は美少女だ。とびきりが付いてもいい。
だがその美少女が幼馴染であるが故に、自他ともに異性の対象として見られないのは、客観的に見てどうなんだ?
まぁ、要はある種の家族みたいな関係に落ち着いてしまい、そこから恋人関係になることは恐らく無い。
幼馴染を落とすというのは、意外と難しいのだ。その気は更々無いが。
「……ん」
ふと、俺の呟きに反応したか、腕の中の少女が声を漏らした。声というより、ただ喉を鳴らしたくらいだが、俺の耳には確かに聞こえた。
薄く目を開き、髪と同じ色の瞳がこちらを捉える。次いで瞬きを二回して、今度は完全に覚醒した目で俺を見た。
コイツもコイツで、抱き上げられている状態に何の違和感も感じていないのが不思議だ。
初めてではないから、今更叫ばれても困るが。
「……よぉ」
「おはよー」
「今は昼だ。……とりあえず降りるか?」
というか降りてくれ。人に見せれる光景じゃない。
「んー……」
渋々といったように頷いて、のそりと降りる姿勢を見せた。
……まだ寝ぼけているようで一抹の不安は残るが、ゆっくりと立てるように足から降ろした。
少しフラフラしているが意識ははっきりしているようで、足取りは軽い。
制服の上に羽織った薄茶のブラウスの背を見せて、校門の方へ歩いていく。
「俺鞄と自転車取ってくるから、校門の方に歩いて待っててくれ」
「うん。途中で先生とかに見られてないよね?」
「見られてたらここにいねぇよ」
「そ。ならいいや」
俺の言葉を彼女はあっさり認め、「じゃあ校門でー」と言いながら、完全に覚醒した様子でたったと走っていった。
「やれやれ……」
変わり身の早い、というより活発過ぎて自分勝手にすら思えてくる。
まるで小学生だ。
もしくは猫。
自転車の鍵を取り出しながら鞄を取りに戻る。彼女の鞄を見て苦笑を浮かべた。
ーーーそういや、あいつ手ぶらで校門まで行っちまったな。鞄置いてったの俺だけどさ……。
もしかしたら、忘れているのかもしれない。そこまでアホじゃなかったと思うんだが……。あるいは俺が取ってきていることを知っているのか。多分後者だろう。
中身は空なんだろうが、果たしてそう簡単に人に預けていいのだろうか。この年頃の女子は色々複雑だからな。
「こういう所が、他の女子と違って見られるんだろうな……」
愛美はあっさり俺の言葉を信じる。だからこうして簡単に鞄を預けてしまう。
信頼されてるんだ、と他人は言うだろうが、俺はそれを信頼というよりは無防備だと思う。
気さくだとかとっつきやすいだとか、あんなのはただオブラートに包んでるだけで『ちょろい』と言っているようなものだ。手懐けるのに苦労はいらない。相手が誰であろうと、そう簡単に全てを許すような行動は愚鈍とも言える。
だから、少し危機感を覚える。もし俺が襲ったりしたらどうするんだ。
…………いや、しないけどさ。
そうして戻ってきた中庭で鞄を広い、来た道を戻る。駐輪場に着いても、やはり人には見つからなかった。
「ーーーよっこらしょっと」
地を蹴って、オヤジ臭い掛け声と共に自転車に飛び乗る。
取り付けられた籠に俺と彼女の鞄を突っ込み、ペダルを蹴った。