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―――昔、昔……争いの絶えぬ世界がありました。
『法』という言葉は紙にも劣る防衛策。一歩外へ出れば道端に血を流す死体。
そして何よりも、それに何ら違和感を感じない彼ら人間の異常性が目立つ世界。
当然統治などされるはずもなく、しかし獣であるがゆえの摂理もまた存在します。
暗黙の了解というのか。原始の時代から生物の頭に植え付けられた概念。
世は正に弱肉強食の世界。弱い者は強い者に搾取され、糧になる。この時、『人』と呼ばれる種族は皆、息を殺す毎日を過ごしていたという。
……農は壊され、家畜は獣に喰い殺される。腐敗臭の満ちた空気は澱み、川も清潔とは程遠い毒の死海、大地は痩せ衰えて見る影もありません。
三日と保つ筈がない環境に曝され続け、『人』の意識もいつしか変化していきました。
ーーーどうせ奪われるくらいなら、こちらから先に奪ってしまおうと……。
ここから、同種族間による、本当の弱肉強食の世界が誕生しました。幸か不幸か、彼我の実力差はごく僅かであった故に、身近な人物は非道く狙いやすい。
隣人を蹴落とし、資源を奪ってしまえば己の私腹を肥やすことは容易いことです。
そうして、『人』も変わり始めました。
物を奪い、そしてまた奪われる。
例え相手が男でも、女でも、赤子でも老婆でも家畜でも……。資源があるならば底を尽きてなお搾取せよ。産み落とした赤子も、自身を豊かにする為の要素に過ぎない。そうした親を見て育つ子も多くなく、例に漏れず歪んでいく。この世界において、親殺しの多い理由の一つであろう。
どれだけ異常なことだろう。
この世界では、親が小さな子に争いで負けるのだ。
ーーー弱き者はただ消え去れ。
希望よりも絶望を見ろ。成功より破滅を望め。
その存在、生きているだけで罪である。
この時、世界は明らかに破滅へと向かい始めていたでしょう。
……とある時代。未だ争いの絶えぬままの世界に、一人の男が生まれ落ちました。
その時代の人間特有の無知、浅はかな思考を持っていたが、生まれ持った力が強過ぎました。いっそ生まれる世界を間違えたとも言えるほどに……。
思考は他者と変わりなく、だが他とは圧倒的に実力が違いすぎて歯止めが聞きません。
食料を奪い、土地を壊し、女を犯す。悪辣極まりなき行い。それでも許されたのは、それが時代だから、という理由に他ならないでしょう。
自由勝手に生きるのだ。気に入らなければ壊せばいい。
人も、大地も、空も……果ては世界も。
万象全て、我が欲を満たす為にある。
その男に、あらゆる枷も鎖も意味を持たない。
滝の如く流れる血の雨、目前で響く阿鼻叫喚。それらに愉悦と幸福を覚え、彼は心の底から歓喜しました。
それはおよそ『人間』とは呼べない所業、思想であり、獣とも違う曖昧な物……。
悪も突き詰め、一周廻れば正義になる。
息を吸い、目を開き、口を動かすだけで害にしかならない罪悪の王。
いつしか彼は『魔王』と呼ばれる存在になりました。
誰もが追随出来ぬ男の存在は、世界全土の支配するのに時間を要さない。
一月と掛からなかった侵略を得てなお魔王は変わらない。本人にすれば、ただ自己の欲求が世界全土へ広がっただけ。ふと思い立ったという理由だけで、そこにいた人と集落全てが消え去ることなど珍しくないでしょう。
人々は圧倒的恐怖に支配され、本人の意図せぬ所で意識が統一され始めていました。
恐怖によって生まれた歪んだ統率。それすらも目を向けず、魔王はただそのまま自己満足の為に動き続けました。
……そんなある時、いつも通り奪った酒と食料を食い散らかしていた魔王の前に、一人の男が立ちました。
手には剣を、目には海より深く、空より青い光を。そして背には仲間と思しき人間を携え、魔王と呼ばれる男を前にしても怯むことなく剣を向けました。
人間が、初めて彼に翻意した瞬間でした。
男の持つ目の色が、魔王と呼ばれる彼には気に入らない。
魔王の行動は一瞬でした。
ーーー微塵に砕けろ。
ーーー俺の前から消えて無くなれ。
気紛れに大陸一つを滅ぼすことができる、と言われる魔王の攻撃は一瞬の寸劇にして苛烈。常人には目視すら叶わぬ攻撃は、人間一人の手には余り過ぎる。
これにて男は死亡。
呆気なき終幕……とはなりませんでした。
直後、魔王は驚愕に目を見開くことになりました。
男は魔王の攻撃を掻い潜り、その身に剣を突き立てたのですから。
魔王と、力の頂点に立ったと言われさえした男の体に、その時、初めて刃が通った。
初めて呆然自失としました。生まれて一度も浮かべなかった表情です。
初めて理解の及ばぬ未知を感じていました。
―――何だこれは?
ーーー腕が動かぬ、足が動かぬ。何故心の臓はこうも鼓動が薄いのか……。
―――理解が及ばぬ。故に認めぬ。自身の上に立つものなど、あってはならぬのだ。
―――我は魔王である。
その時、見上げた先にいる、剣を手にした人間が、さぞかし憎かったことでしょう。その時の声など、余りの怨嗟に聞いた者全てが怖気を走らせたという程でした。
―――許さない、認めない、こんな終わりはあってはならない。
―――我は絶対強者。魔王である。
―――他者の手に掛けられた最後など、望んでいないし存在しない。
……叫び虚しく崩れ落ちた魔王を、人間達は目に憐憫すら浮かべて見ていたといいます。
力を突き詰めた男の末路。最期まで、惨めに呪詛を吐き出しながら、魔王は灰になりました。
……魔王を倒した男は、『勇者』と呼ばれ、『世界を救った英雄』、とまで呼ばれるようになりました。
そして、勇者とその仲間達を筆頭に、世界を作り変えていきました。
民を愛し、生を尊び、隣人と歩み寄る生涯を送れ。
それは、魔王が支配していた頃とは真逆の理。
争いに疲弊した人間に抵抗はありませんでした。
鋼の如く、無機物めいた無表情は、次第に安らいだ笑顔に。握っているのは武器ではなく、農具や調理器具といった家財道具。
緩やかに、だが確実に。
世界は安穏とした日々が続くようになりました。