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繰り返し夏夜

作者: 藤上

 「鬱」。それは虚無な状態を表すのに便利な言葉。

人々が簡単に自分は鬱だと口にするのはきっとそういうこと。夏の夜に起こりがちなことだ。

祭や花火大会なんて行ってみたら随分騒がしくて我を失ったみたいにその空間に溶け込む。

ただずっとハイな状態、麻薬を投与した後のような浮き立った心。

いや、全ては夏の匂いや喧騒に支配されたもので、心なんてそこにはないのかもしれない。

そして帰ってきた途端、部屋の異常な静寂にどんどん気持ちを吸い取られる。

まるで世界に一人取り残されたように寂しくなって、布団に潜り込んでみればひんやり、しかし蒸し暑く寝られない。

何も考えられないぼんやりとした頭で、それを「鬱」とする。「死んでしまいたい」と思う。

そうして日常に耐えられなくなる。自分だけが哀れな存在に思えてしまう。


 自分に何か非現実が起きてほしい。そんな風に思う。夏の寝苦しい夜。それに僕は巻き込まれてしまった。


 今まで親に由来など聞いたことがないけれど、僕の名前は翠といった。

一人暮らしの今日では呼んでくれる人などいなくて、これが本当に自分の名前だなんて自覚はできなくなる。

小さいころ、この名前が大嫌いだった。誰も読み方をわかってくれないし、変な名前だとも言われた。

大人になってからもこの名前が役立ったことは一度もない。変わった名前だからといって、それは能力でも何でもないのだ。

つまり僕は何の面白みもない人間。名前に見合わない人間。名前だけが独り歩きする。

翠。そんな綺麗な名前で、落ちこぼれみたいな僕は陰に隠れて生活してきた。

もう慣れてしまった。


 それにしても本当に寝苦しい。かけていたタオルケットはいつの間にか腹の辺りでくしゃくしゃになっていた。

Tシャツは汗でべっとり張り付いている。湿っぽくて気持ち悪い。

シャワーを浴びようにも起き上がるのが大儀だ。寝返りを打つのすら面倒で、ただぼんやりと目を開けていた。

視界に映るものを認識しない。そんな程度の意識だ。

 今年の夏は特に暑い。

僕は繰り返しの毎日をつまらなく過ごしているのに、気温は僕を見下すみたいにさらに上昇し続ける。

暑いから海へ行くなんてこともしばらく考えなかった。小さいころなら一人でも無邪気に砂浜を駆ければよかった。

こんな歳で、一緒に行く相手がいないのだから選択肢になくても仕方がない。

 こんな日には非日常を想像して、現実から逃れてしまえばいい。人間は非日常が好きなのだ。

自分にないものを求めるというのは、

日常に生きるただただ平凡な人間が我が身に降りかかる災難すら笑みを零して妄想するという意味なのだろう。

明日の面白みのない会社が急に映画のワンシーンに変わる想像とか、そんな妄想。

朝出社したら同僚の誰かが死んでいたとか、凶悪な殺人犯が乗り込んできて社員を次々に殺していったりだとか。

実際にそうなったとき僕は何もできないのだから、

真っ先に殺されてしまうのだけれど、それでもいいようなそんな気がした。

自己満足の想像がごちゃ混ぜで頭の中を巡る。

順序など関係なく、目を背けたくなる景色がスライドショーのように無秩序に張り付けられては消えていった。

そんな思考の中、どんどん意識は遠ざかっていく。自分が何を考えているのかすら分からなくなった頃、急に光が差し込んだ。


 朝だった。瞬きをしたら朝になってしまった、そんな風に眠った気のしない朝だ。

布団から這いだすと、足枷を付けているように重い。疲れが全く取れていないようだ。

夜中に考えていたことが脳に鮮明に焼き付いていた。

それはもうすでに現実で起こったことの記憶なのではないかと勘違いするほど、

何度も何度も同じ映像をなぞる様に舐める様に詳細まで想像していたのだった。

当たり前の繰り返しが重くて仕方ない。痛みは時間とともに麻痺していった。

でも、地に引きずり込む重さだけはどうしたって消えない。

ふわふわと頭の中だけが浮いて、夏バテのような毎日。鬱なんてもんじゃないけど、日の射さない世界にうんざりする。

何が正しくて何が間違いなのか分からないから、だから少ない想像力で考えてこうして自分を作ってきた。

その内容が社会的によろしくないとされるものでも、判別できない。麻痺してしまった。ただそれだけ。楽しくなんかない。


 不規則な生活がよくないのは分かっている。ちゃんと寝ないで出社すると、仕事に差し支えるのも承知している。

でも浮遊した感覚は取り除けない。僕についてまわる。


 どうせ僕の仕事は一日中パソコンに向かっているもので、

送られてくる文章の確認とかすでにあるものをまとめるとかばかり。あとは雑用、そんなものだ。

キーボードを打って、目を疲れさせて、特に頑張った気持ちにもならずに帰るのが日常。

同僚や上司、部下までも社内恋愛とか合コンとかで色づいているようだけど、僕はそういうものに恵まれずにいる。

きっと、僕が行っても場を暗くさせてしまう。それに自分が楽しくない。さらに疲れるだけの気がする。


 社員たちが次々と席から立ち上がり始めた。騒音。座っているのは僕だけ。いつも通りだ。

楽しそうな笑みがそこら中に零れる。僕の頭の中にはキーボードの音だけが鮮やかに繰り返される。

カタカタ。カタカタ。

それは何かが一つ一つ崩れゆく音に似ている。毎日積み上げてきたものが少しずつ底に消える、そんな。

でも何も積み上げていない僕からは何が壊れ、何が崩れていっているのだろう。

そもそも他人が積み上げたものはどんなものなのか。それは綺麗なのか。醜いのか。

カタカタ。カタカタ。

僕の中では土台が歪んでいる。だからきっと、努力したって積み上がらなかった。だったら、何が。

妄想の産物、そんなところだろうか。

僕の頭の中を巡るものが、他人の笑顔に馬鹿にされているようで、惨めに崩れているのだろう。

別にかまわない。馬鹿にされることなんて慣れている。いないものとして扱われることだって慣れている。

そうじゃなきゃ、こんな子供じみた思考回路にいつまでも縛られているはずなどないのだから。

カタ。カタカタ。カタカタ。一瞬、騒音が全て消える。カタカタ。カタカタ。カタカタ。奇声。

カタカタカタカタ。爆音。カタカタ。カタカタカタカタカタカタ。カタ。

爆音も、奇声も、てんで見当違いだった。それの正体は悲鳴と、真っ黒の塊。

耳の奥がじんわりと痺れるような音。咄嗟にそれを理解するのは不可能だった。

カタカタカタカタカタカタカタカタ。

いつの間にか、何も聞こえなくなっていた。

カタカタカタカタカタカタカタカタ。

僕の指だけが独りで加速する。

カタカタカタカタカタカタカタカタ。

どんどん崩れる。

カタカタカタカタカタカタカタカタ。

次には何か聞こえていたが、受け入れる脳もなく、指は止まらずに画面に打ち込み続ける。

しかし瞬きも忘れた頃、画面がフリーズして急に暗くなった。

「うつな。」

打つな? 撃つな?

顔を上げるとそこには知らない男がいた。銃は僕を向く。パソコンが撃たれたのだと分かった。

若干の焦げ臭さを感じた。しかし、何故かなんて全く分からず、呆然と男を見つめていた。


 怯えた社員の目がこっちを向く。それはまるで、不気味なものを見るような目。

壊れて、腕も折れて、目の飛び出した人形。そんなものになった気分。

細かいものが這い回るように胸がざわついて、何も考えられなくなる。急に頭の中がひんやりしたように感じた。

何かを呟く声が、僕に向けたものと気づいたのは時がスローモーションで動き始めたとき。

回転しながら、僕へ。






死んだ?



 それは相変わらずの陰の差す夜だった。いつも通りじっとりと汗をかいて、浅い眠りに疲れてしまっただけ。

コンセントに繋がれていた携帯はまだ充電中を示すライトを放つ。拘束から解くと、サブ画面には三時と表示されていた。

リアルすぎる夢だった。会社へ行ったところまでは現実となんら変わりないような。

夢は、途中からだったんじゃないのか。そうでなければ納得できないほどリアルで、惑わされていたようだ。

しかし、どうであれ僕は死ねなかった。


 その日は眠ったような眠っていないような曖昧な感覚で朝を迎えた。身体は重い。

起き上がった瞬間に胃が痛くなる。それは学校に行く朝、都合よく体調が悪くなる引きこもり少年のよう。

何ら変わりないのだが。僕は会社へ行くことを心身で拒んでいるのか。

僕は少年でも青年でもなく、かと言って大人と言えるほどの自覚も持っていない。

そんなことに気付くと、僕には称号がなかった。

温い水で顔を洗って、ふと見上げると、鏡に映っているのは死んだ表情をした男だった。

子供の頃はどんな顔をしていたっけ。

 携帯の充電は終わっていない。昨日夢から覚めたときにコンセントを抜いてしまったんだった。

会社へ電話しながら反対方向へ歩き出す。気休めかもしれないが、睡眠薬でも貰ってこよう。


 精神科へ行けば少し苦い錠剤を出してもらえる。それは一目で“薬”と分かるようなありがちな姿をしている。

良薬は口に苦しという。きっと僕にはあれくらいのものがちょうどいい。

不定期で通っている精神科の先生は、いつも眠そうな目をしている。診療はやはりやる気がなさそうだ。

僕だけにこういう態度なのか、他の患者には熱心なのかは知る由もないが。

硬い素材のソファに腰をかける。大して混んでいなくたって、精神科では一人一人の診察時間が長い分、

待ち時間は長いものだ。暇つぶしの小説なんかを持ってきたわけでもないので、黙ってそこに座っていた。

当然のことだが、ここに明るい表情をした人などいない。職員だって少なからず暗い。

粘土を張り付けたような表情をした人が診察室に入っていき、変わらぬ顔で戻ってくる。

たまに喚きだす人なんかもいるわけだ。訳の分からない言葉を口にするのだ。本人にだってきっとわかっていない。

あんな風になるならば、いっそ隔離病棟にでもぶち込んでしまった方が幸福な気がする。これは不謹慎でもなんでもない。

僕がああなったとき、世間から遠ざけてくれた方が幸せだと思ったのだから、間違った意見でない。

「近江…」

静かなその声が掻き消えて、しかし僕は立ち上がった。そんな僕を見てもう一度笑顔。

「近江翠様、診察室の三番へどうぞ。」

何度も来ているのに、ここの受付の女性は僕の名前を呼ぶとき必ず一度つっかえる。

カラカラとドアを開けると、いつもの眠そうな表情の医者がいた。手元にあった前の患者のカルテをしまい、僕のを出した。

「翠くんね、翠くん。」

翠くん、翠くんと。何度も僕の名前を呼ぶ。カルテに挟まっているのは、毎回処方してもらっている睡眠薬の説明書だ。

恒例で医者は聞いた。

「今日はどうしましたか。」

いつも何もないのは知っているだろうが、これは業務なのだ。

「睡眠薬を処方してもらいたくて。」

「分かりましたよ。」

説明書の下から今月のカレンダーを一枚取り出して、今日の日付にぐりぐりと赤い印をつける。診察は終わったようなものだ。

「相変わらず眠れませんか。」

「はい。」

「やっぱり社会に出るとつらいでしょう。人間関係も仕事もうまくいきませんか。」

「人間関係も仕事も…今のままで大丈夫です。不自由はないので。」

医者はため息をついた。

「では、ただ眠れませんか。」

「はい。」

もう一度息を吐き出して、小さく伸びをする。緊張感はない。

「では、処方箋をもって薬局へいってください。」

「はい。」

席を立って、静かに扉まで歩く。風ひとつない待合室に戻ると、相変わらず粘土の人間たちは頭をもたげて座っていた。

きっと僕もあんな風なのだ。医者と同じようなため息が出て、ドアを閉めきると、空気に完全に飲み込まれた。

一番近い席に座って名前が呼ばれるのを待つ。このまま会社を休んでしまおうかなんて考えが頭をよぎった。

 ふと、二番の診察室のドアが揺れた。自然に目線はそっちを向く。もう一度、大きく揺れて、怒鳴り声。

患者が暴れているようだ。ああいうのは本当に隔離病棟にでも送られるのかな、と考えていると、弾けたようにドアが開いた。

男性の看護師に両側から押さえられた男は、言語として受け取れない何かを口にする。裂けるような声。

「こっちですよ」なんて穏やかな声を出す看護師だが、しかし額に汗を浮かべる。

両側の二人が目配せし合って、階段の方へと連れて行こうとした。座って、黙ってそれを見ていた。

だから一部始終を見ていた。まるでスクリーンの外にいるように。

男がポケットに手を突っ込んだところ。右側の看護師はそれに気づいた。

止めるよりも早く、男はチラつかせたそれを無茶苦茶に振り回す。

風を切る。空気が横に裂けた。足元に散らばったそれは、水を含んだ絵の具のようだ。

それがゆっくりと靴を汚し始めたのを見て初めて、僕はスクリーンの内側にいたと気づく。

顔を上げたとき、じんわりと染まり始めた腹部を抑えた看護師。それを押しのけて、歪んだ顔の男が走ってくる。

真っ黒な口の中。吸い込まれそう。逃げるための力も出さないまま、目の前が真っ赤になった。


 湿っぽい手の中に、携帯が握られていた。ゆっくりと開けば、そこに「三時」と浮かび上がる。

呼吸が浅くて、喉の奥に何かがつまったように声が出ない。

こんなことがさっきもあった。死んだと思って目を覚ましたら夢だったなんて、よくありそうな話。

しかしもう僕には現実と夢の区別がつかない。今の自分は、現実の自分が見ている夢の中の自分かもしれない。

また死ねなかった。

死ねなかったのに。

安心しているなんて。


 眠れなかった。カーテンを見つめていたら、徐々に入り込んできた光が部屋を照らした。

眩しさが目をさしても閉じることはできない。視点がぐるぐる回るように彷徨う。

「……仕度。」

会社へ行く。どうせ僕はまたどこかで死ぬ。そうしてこの部屋で三時を迎える。

分かりきっているのだが、繰り返しに僕は逆らえない。今までだってそうだったからだ。

朝起きて会社に行って、帰ってきて寝る。その間人との会話などほとんどない。そういうサイクルを営んできた。

だから逆らう方法なんて知らない。

 ああ、僕は今日どこで死ぬのだろう。


 いつも通り出勤してデスクにつこうとしたとき、ひそひそと声が聞こえた。

「かわいそうだけど、仕方ないよね」

微塵も感情がこもっていないのは分かっていた。悪い知らせだ。左遷とか、転勤とかそんなところか。

空気がじめりとして重たい。周りの社員が発したそれは僕の皮膚に張り付く。

侮蔑。嘲笑。愚弄。湿気を帯びたそんな感情。紙が貼られているホワイトボードの前まで行く。

水気がついて回る。僕の背中を濡らしたままだ。締め付けられるように息苦しい。

気にしなければいい、気にしなければいい。そう思うのに、周りの人の視線に僕は振り回されている。

いつも充実したような笑顔を振りまいて、楽しげな同僚の負の感情ばかりが僕に流れ込む。

戻りたくない。デスクまでの数メートルを、顔を晒して歩く自信などない。

戻りたくない。顔が熱くなって、耳がじりじりと痛む。

ああ。

「ショックかとは思うが、仕方ないんだ。決まったことだから。」

後ろから声がかかった。上司だ。黙って見つめている僕に上司は繰り返した。

「そういうことだから、な。」

同情とかそんなものではない、面倒臭そうな目が彷徨っては壁にたどり着く。背中が冷たくなる。

「辞めるのは何も、お前だけじゃないからな、安心しろ。」

目の前のものが全て膜を張って別世界にあるように感じた。いや、隔離されたのは僕の方かもしれない。

手に握る汗の温度だけがやけにリアルだ。ずん、と、頭の奥が痛んだ。

上司は僕に目を合わせないまま足早に僕から離れていく。

明日の生活なんかより、周りの目を気にしていた僕は呆然と立っていた。

さらに振り返って席まで戻るのが怖くなった。だってみんな知っていた。僕が会社を辞めること。

当の本人は知らないのに、周りのみんなは知っていた。知っていて、かわいそうと言った。思ってもいないのに。

寒い。誰もが黒いのっぺりとした悪意の塊に見えてしまう。


 「ありがとうございました」なんて言えずに会社を後にする。ビルを出て振り返った。

改めて、自分はこんなところで働いていたのだ。人と関われない僕が、こんなに高いビルで。

玄関前に白い車が止まった。降りてきたスーツの男の人が、段ボールを持って会社へ入っていく。

汗をかいていた。何故だか輝いて見えた。僕はもう彼らの世界には入り込めない。

明日から、僕はどうやって生きていくのだろう。

辞表を出すようにとも、月末までは来るようにとも言われていない。本当にどうすればいいのか分からない。

今から仕事を探すのも面倒に感じてしまう。見つからないだろう、なんて思ってしまう。

せめて今月分の給料だけでも出てくれないだろうかと思う。

リストラされて自殺してしまう人の気持ちは分かる気がしたが、自分は給料のことなどを考えて生きようとしているのだ。

口の中が苦くなるような嫌な気持ちになった。どうやって生活していこう。お金のこと。食事のこと。

今まで深く考えてこなかった。だからか、今だってあまり現実として考えられていない。

漠然と、目の前が真っ暗で、何を考えたらいいのか分からなくなる。

生きようと考えることは痛々しいような気がして、じゃあどうしたら、とばかり繰り返す。

仕方ない。

仕方ないんだ。

もともと同僚との人間関係だって良くはなかった。辞めたって、仕方ないことだったんだ。

僕がいてもいなくても、会社に影響があるわけでもないし、もう諦めよう。

それにもう、死ななくても済むかもしれない。


 一歩、一歩踏み込むたびに、現実世界と離れていく感覚。誰も止めてはくれない。

外見だけ大人になってしまった僕を、誰も導いてはくれない。

人の話し声、蝉の鳴き声に、自動車の音。全て遠くに聞こえる。これが炎天下の音か。

目の前がゆらゆら揺れる。陽炎に纏われているよう。自分の息遣いだけが大きく聞こえた。

別世界、遠く遠くから悲鳴が聞こえた。ぼんやりと霞む思考で、また死ぬんだと考える。

もう歩けない。何も見えない。見たくない。聞きたくない。僕だけの世界で、僕は何度でも死んでいく。

足元が真っ暗になった気がしてしゃがみ込んだ。地面がそこにない。足の下はふわふわした感触。

頭を抱え込んで、もう消えてしまいたいと願う。本当に死んでしまいたい。死んでしまいたいんだ。

死にたいのに僕は、午前三時に回帰する。

耳鳴りがした。視界が何度も反転する。


 目を開けたとき、熱っぽい光が飛び込んできた。飛ぶようにして車が走っていく。

アスファルトに背を付けていた。寝転がっていると気づいて空を見上げようにも、首は動かない。

手も、足も。動かないというよりも、そこに無いような感覚。さっきまでなかった地面はこんなに固く当たっているのに。

照りつける太陽と、アスファルトの熱。焦がされるように熱い。だから自分の体内の温度に気がつかなかった。

外の世界はこんなに熱いのに、身体の中がどんどん冷えていく。熱が漏れ出していく。

目を閉じると真っ暗で、また僕は飲まれていく。手を伸ばして携帯を確認すれば三時を見ることになる。


あれ?


それはいつまでたっても訪れない。今まではすぐに来ていた三時がどこにも見えない。

違う。

ずっとずっと太陽に焦がされる。息遣いが聞こえなくなった。底なしの暗闇で、感覚のない身体が浮く。

どうして。どうして。どうして。戻れない。

焦っているのに喚けない。自分の身体がそこにあるはずなのに、意思を持って動かせない。

誰も助けてくれない。人の体温が触れないことに初めて恐怖する。地面を掻きたいのに僕に手がない。

誰も僕の名前を呼んでくれない。意味のない物体として僕は消える。

リセットされないリアルな死が目の前をちらつく。

死にたくない。


死にたくない。


死にたくない。

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