Never give up
君には好きなものがあるだろうか。夢中になって打ち込めるもの。それがある日急に理不尽な理由で出来なくなってしまったらどうなるのだろう。そのときあきらめずにもう一度ゼロからがんばれるのだろうか。それとも……
六月、じめじめとした嫌な感じの季節。それでも今日は久しぶりに晴れている。晴れていたほうがじめじめしていて不快感を抱く人も多いのだろうが。
ここにいる高峰啓一郎もそのうちの一人である。教室の中で人がたくさんいるからか余計気持ち悪い。
今教室は転校生が来る、とかいう話題で生徒たちは盛り上がっている。しかしその噂は不確かなもので、転校生ではないとか芸能人の子供だとか様々な憶測が飛び交っている。啓一郎も興味がないわけではないが、あと少しで始まるホームルームを待てばわかることなので会話に加わったりはしない。
「ほらみんな席に着け。ホームルームを始めるぞ」
先生の一声で騒がしかった教室は一気に静まる。
「今日はみんなに新しいクラスメートを紹介する」
先生のその言葉にクラスの雰囲気が盛り上がる。先生に促され、一人の男子生徒が教室に入る。
「はじめましてっ! 渡瀬海斗って言います。よろしくお願いしますっ」
海斗の容姿に女子だけでなく男子も目を見張る。海斗の顔はいわゆる童顔で背も低く、男というより女だろうというような感じだったのである。
「渡瀬は入学前に事故で入院しててな。最近退院してようやく今日登校できるようになったんだ。みんな仲良くな」
そこで啓一郎は渡瀬海斗という名に聞き覚えがあることに気づく。そう思って海斗の方を向くと海斗も啓一郎を凝視していた。
「もしかして……啓ちゃん?」
「海、斗、なのか?」
啓一郎の返答を聞いて海斗の表情が柔らかになる。
「うわー、やっぱり啓ちゃんだ! ひさしぶりー」
ニコニコと満面の笑みで啓一郎に話しかけてくる。啓一郎も海斗ほどではないが笑顔になっている。
「海斗も同じ高校受けてたんだ。全然知らなかった。っていうか事故って……大丈夫なのか?」
「うん、まぁそれなりには回復したよ。それにしてもホントにひさしぶりだね。小学校の卒業式以来かな? あのとき啓ちゃんさ……」
「あー高峰、渡瀬。懐かしいのはわかるがあとにしてくれないか」
ホームルームだということをすっかり忘れてしまっていた二人は先生に注意されてしまう。海斗は肩をすくめながら間延びした返事をして空いていた席に座りにいった。
ホームルームが終わったあとは啓一郎は海斗に話しかけることが出来なかった。海斗がお決まりの質問攻めにあっていたのだ。そのためもう一度会話できるようになったのは放課後だった。
「啓ちゃんただいま〜」
疲れた顔をした海斗が戻ってきて、そのまま海斗の机の上でだらしなくへたり込んでしまった。啓一郎は苦笑しながらお疲れと声をかけてやる。すると海斗は顔を上げて啓一郎と目を合わせると同じように苦笑した。
「啓ちゃんはこれからどうするの? もし暇だったら一緒に遊ばない?」
首をかしげて海斗が聞く。
「悪い、部活があるんだ。遊ぶのはまた今度な」
「へぇ、啓ちゃん部活やってるんだ。ねぇ、何部?」
啓一郎の返答に海斗が目を輝かせる。啓一郎は少し迷ってからため息混じりに答える。そのため息には自虐的な何かが混じっていた。
「……陸上部……のマネージャー」
「へぇ、陸上部か。いいね〜かっこいい……マネージャー?」
海斗が不思議そうに首をかしげる。
「なんで選手じゃないの? 啓ちゃん足速かったじゃん」
海斗がそう思ってしまうのも仕方がない。啓一郎は小学生の頃から走ることがものすごく得意だったのだから。その実力は本来補欠にしかなれない小学五年生のときにレギュラー、しかもエースに抜擢されたほどである。
別になんとなくだよ、と啓一郎が素っ気なく返答したので海斗はさらに困惑する。小学一年生の頃から三度の飯より走ることが好きだった男である。なんとなく、でやめてしまうわけがない。
「根性なしなんだよ、そいつは」
人もまばらになってきた教室にまだ残っていた生徒の一人が会話に入ってくる。
二人が振り向くとそこには長身で茶髪の男子生徒が立っていた。
「坂井……」
啓一郎は少し嫌そうにその名を呼ぶ。
「俺坂井浩人っていうんだ。よろしくな、渡瀬」
「あぁ、うん。よろしくね……でさ、さっきのどういう意味?」
海斗は浩人と握手をしながら問う。浩人は握っていた手を放して少し大げさに両手を広げて答える。
「こいつさ、たった一回故障しただけで陸上を諦めちまったんだよ。走るのにはもう何の問題もないのに、だぜ? 精神が弱いんだよこいつは」
浩人は先ほどまでの社交的な態度とは打って変わって冷たい声で言い放つ。啓一郎の脱落は浩人も思うところがあったのだろう。
「浩人くん、それはちょっと言い過ぎなんじゃないかな。同じ部活の仲間なんだろう?」
すると浩人は海斗の言葉を鼻で笑い、二人に大きく一歩近づいた。その浩人の顔は笑ってはいるものの決して明るいものではなかった。
「別にマネージャーなんてたくさんいるしこいつ一人ぐらいいらないんだよね。それにこいつは競技をやってるわけでもない。俺は仲間だとは思えないね」
「だからそんな言い方ないだろう」
海斗の声色が少し変わった。啓一郎はどうすればいいのかわからない。そんな険悪な雰囲気の中チャイムが鳴って部活時間の開始を告げる。わざわざこの音が流れるまで待つ部活はないが、一応そういうことになっているのだ。
「んじゃ俺は走りに行こうかな。あっ、マネージャーさんも早く来いよ」
浩人は軽そうなかばんを持ち上げ教室を去っていった。海斗は依然不機嫌そうな顔であったが、終始俯いていた啓一郎を見るとすぐに笑顔をつくった。
「啓ちゃん、僕陸上部見に行きたいんだ。案内してよ」
ホラホラと声をかけながら啓一郎の背中を押す。啓一郎は寂しそうな笑顔を浮かべながら荷物をまとめて海斗と共に第一グラウンドに向かった。
第一グラウンドは活気で満たされていた。多くの生徒が一生懸命汗を流し、青春を謳歌している。そんな部活の中でも陸上部は特に広く場所を取って練習していた。
啓一郎と海斗は顧問の先生を見つけ、駆け寄っていく。
「ん? 高峰、誰だそっちの生徒」
顧問の先生が啓一郎たちのほうに向き直る。
「はじめましてっ。今日から登校してきた渡瀬海斗です。陸上部を見学したいと思って来ました。よろしくお願いします!」
海斗の礼儀のよさに顧問と何人かの部員が感心する。礼儀というのはいかなる場面においてもやはり重要なのだろう。顧問は快く見学を許してくれた。
「おい、遅っせーぞ。早く準備しろよ」
そんな怒鳴り声がグラウンドから聞こえてくる。このようなセリフは普通の部活でもあるのだろうが陸上部のそれは他とは違う。
声の主は座ってスポドリを飲みながら偉そうにそう言ったからだ。
その人物は他ならぬ坂井浩人。
「啓ちゃん、浩人くん何やってるのさ。自分は手伝いもしないで」
海斗は不満げにそう言い周囲を見渡すが、顧問含め誰も注意しようとしない。
「あいつは実力はピカイチだからな……あいつに抜けられたら戦力が大幅に下がっちまうんだ」
黙ったままの啓一郎に代わって他の部員が答える。その顔は怒っている、というよりは呆れているようだった。
「性格さえなんとかなればもっといい選手になると思うんだけどな」
そんな会話をしながら部員は準備を手伝いに行った。
「……大変なんだね」
「あいつもさ、前はあんなんじゃなかったんだ。たぶん、俺のせい」
中学のときの坂井浩人は違った。
少し乱暴なところはあったが部活となると顔つきが変わって一生懸命だった。そんな浩人は啓一郎を好敵手としてがんばっていた。啓一郎と走っているとき浩人は体が軽くなり、最高のスピードで走れるような気がしたのだ。まるで風のように。
だが浩人は啓一郎というライバルを失ってから変わってしまった。必死に何かを忘れようとしているみたいに走りまくった。毎日毎日、見ている側が怖くなるほどに。それに連れて浩人の乱暴さも増していった。そしてある日から浩人はまともに練習しなくなった。
部活が終わり、帰路に着いた浩人。浩人の性格ゆえに彼と一緒に帰る者は誰一人としていない。もちろんそんなことを気にする浩人ではないし、もう慣れていた。
信号の青が点滅し始め、浩人は小走りになる。
が、そのときだった。
乗用車が赤にもかかわらず浩人に向かってつっこんできたのだ。
浩人はゾッという音が聞こえてくるかと思うくらいの恐怖を感じ、全力で歩道に飛ぶ。
しかし不幸なことに浩人は運転手がハンドルをきった方向に飛んでいた。数分後、この場に救急車が呼ばれることになる……
次の日、啓一郎は海斗と共に浩人の病室を訪れた。幸い大きな怪我はなかったようだが大事を取って一日だけ入院、ということだそうだ。
浩人はお見舞いに来てくれた二人を一瞥するとすぐに窓のほうを向いてしまった。そのそっけない態度に海斗がムッとする。
「無視しないでよ。せっかく来たのに」
「うっせーな……一日しか入院しないのにわざわざ来る奴があるか」
浩人はわかりやすく舌打ちをする。しかし海斗はびびったりはしない。
「別に僕は来る気あんまなかったんだけどさ、啓ちゃんがどうしてもって」
「啓一郎が……?」
啓一郎という単語に浩人が反応し、二人のほうを向く。浩人が驚くのも無理はない。浩人は今まで散々啓一郎に暴言を吐いてきたのだ。走るのをやめて一番辛いのは啓一郎だとわかっていたはずなのに。ライバルがいなくなったのが悲しくて、悔しくて仕方なかった。
「……お前が心配だったから」
その言葉に浩人は衝撃を受ける。恨まれて、嫌われて当然だと思っていた過去のライバル。そのライバルが自分のことを心配してくれた。完全に予想外である。
「幸いまだ全然走れるんだからさ、そんな落ち込むことないよ。だからさ、せっかくならみんなと一緒に楽しんでいこうよ」
「会話が繋がってないんだが」
啓一郎からの急な提案に浩人は少しだけ戸惑う。
「せっかく仲間がいるんだからさ、もう少しだけ仲間を大切にしようよ。それに仲間と一緒に走ったほうが気持ちいいし走りやすいだろ?」
「……んなことわかってんだよ。だけどさ、もう誰も俺なんかと走ってくれるやついねぇよ! みんなに迷惑かけてばっかでさ、どーせみんな俺が死ねばよかったって思ってんだろ!?」
浩人の突然の心の叫び。浩人自身もわかっていたのだ。自分は間違っていると。自分の行いのせいで仲間が離れていくこと。
目に光るものを少しだけ浮かべた浩人に海斗が声をかける。その顔は微笑んでいた。
「自分の悪いとこわかってるならそれでいいんじゃない? 後は直すだけなんだしさ。それに、さ」
廊下のほうから足音が聞こえてくる。しかもひとつでない。何人も早足で浩人の病室に向かってきてるようだ。
「みんなはお前が思ってるほど薄情じゃないよ」
啓一郎がそういい終わった直後に病室のドアが勢いよく開けられる。そこにいたのは心配そうな顔をした陸上部の部員だった。
大丈夫か坂井、とかいつ直るんだ?、などの質問を浩人はなだれのように受ける。浩人は珍しく呆けたような顔になる。
「お前ら、なんで……? 俺、散々お前らに迷惑を……」
部員たちはお互いに顔を見合わせて小さく微笑む。その中の一人が前に出てきて浩人に話しかける。
「確かに少し乱暴だけど、お前も大事な仲間なんだぜ? 心配するに決まってるだろ」
その言葉を聞いて浩人の目から涙がポロポロ零れ落ちていった。そんな浩人の近くに部員たちも寄っていき、その場に温かな雰囲気が生まれた。
大団円の中、一人気づかれないように病室を出て行こうとする人物がいた。その寂しそうな背中を見て海斗は思わず追いかける。
啓ちゃん、と海斗が呼びかけると啓一郎は進めていた足を止めた。
「啓ちゃんも一緒に笑えばいいじゃん」
「あそこにいていいのは陸上部の『仲間』だけだ。俺はそうじゃない。邪魔なだけ……」
啓一郎は振り返らずに答える。
だがその言葉が心からのものではないことは見破れる。同時に啓一郎が後押しをしてくれ、というサインを出してることも。
「じゃあもう一度走ればいいよ」
海斗は啓一郎を奮い立たせるための手段として励ますよりあおることを選んだ。
理由は二つ。啓一郎の態度が悲劇の主人公のようで若干腹が立ったこと。それと決してあきらめない、強い心を持ってほしかったから。
そんな負と正のまるで反対な二つの理由から海斗は下手をすればチャンスを壊すようなマネをする。啓一郎はそんなものに負けないと海斗は信じているから。
しかし啓一郎の返事はない。
「敬ちゃんは走るの、好き?」
「……好き」
間が空いたものの、啓一郎は強くそう答えた。心のそこから好きだから。
「じゃあもう一度走ればいいよ。走りたいんだろ? 自分に嘘つくな」
「……そうだな、俺はやっぱり走りたいんだ。またトップで走りたい。また一位になったときのあの喜びを味わいたい!」
冷たく突き放されたことでようやく啓一郎は自分に正直になれた。
海斗は嬉しく思うももう少しだけいじわるをしようと思う。
「前みたいには走れないかもよ。それでもやるの?」
「やる。絶対にあきらめない。やっぱり好き、だからさ……」
啓一郎は振り返って笑顔で答える。心にあった迷いが完全になくなったわけではない。だがそれ以上にまた速く走りたい、という欲望が生まれたのだ。
「走れないなんて事はないよ。走れないって落ち込んでたのも全部思い込みだよ。昨日までの啓ちゃんは自分は走れないっていう自己暗示をかけてた。そんなことすると誰だって身動きできなくなっちゃうよ。悪い方向の自己暗示はほどほどにね」
海斗は最後にアドバイスを啓一郎に送る。啓一郎が再び簡単に再起不能に陥らないように。
「海斗、明日から一緒に―――」
ごめん、と海斗が啓一郎の言葉をさえぎる。海斗がなぜ誤ったのかわからない啓一郎は目を見開く。
海斗は自分が何者かは理解していた。そしてもうあまり時間は残されていないことも。
「ごめん。明日からはちょっと無理そう」
「どう……して?」
啓一郎はわけがわからないといった感じである。
神様はきっと海斗のために奇跡を起こした。海斗の青春を送りたい、という強い気持ちに応えて。
しかしそれは時間制限つきだった。たった四十八時間にも満たない短い時間の。
部活の他にももっといろいろなことがしたかったであろう。
だが海斗は後悔しない。これが最後ではないから。
あきらめなければ絶対に報われるから。
「もう少しだけ、待ってて。僕、生きることを絶対あきらめない……だから啓ちゃんも次はあきらめないで」
海斗は満足げに微笑んだ。
急に廊下の照明がちらつきだして一瞬暗くなり、元に戻るとそこに海斗の姿はなかった。
「海斗……?」
啓一郎はとまどいながら海斗の名を呼ぶ。
「啓ちゃん」
ふと右を見る。
呼ばれた気がしたのだ。今では海斗しか使わない啓一郎の愛称だ。
視線の先にあったのは一人しかいない病室。
ドアには「渡瀬 海斗」とあった。
中に入るとそこには病院着を来た海斗がいた。
たくさんの医療器具に繋がれた姿で。
近づいてみると海斗は笑っていた。
海斗は闘っている。希望を持って、絶対に勝つまであきらめない。
そんな海斗を見て啓一郎も微笑む。
「俺、がんばるよ。だから海斗もがんばれ」
それだけ言うと啓一郎は病室を出た。
できっこないなんて思い込みはしてはいけない。自分の可能性を縮まるだけだ。好きなことならなおさら。思い込みが激しいなら逆に考えて自分は出来ると思い込めばいい。ただあきらめるもあきらめないも君の自由だ。最後は自分に正直になって、自分で決めればいい。
あれから一ヵ月後。梅雨はすっかり明け、すがすがしい晴天が続く毎日である。
啓一郎は陸上部に選手として復帰した。
残念ながらまだ大会に出れるほどではないが啓一郎はあきらめず毎日練習をしている。
浩人もまた、ライバルがやる気になったことで、そして本当の意味での仲間を手に入れたことでよい方向へと進めた
今は部員一丸となって次の大会に向けてがんばっている。
そんな中のある日の朝。教室は転校生が来る、とかいう話題で生徒たちは盛り上がっていた。しかしその噂は不確かなもので、転校生ではないとか芸能人の子供だとか様々な憶測が飛び交っている。啓一郎も興味がないわけではないが、あと少しで始まるホームルームを待てばわかることなので会話に加わったりはしない。
「ほらみんな席に着け。ホームルームを始めるぞ」
先生の一声で騒がしかった教室は一気に静まる。
「今日はみんなに新しいクラスメートを紹介する」
先生のその言葉にクラスの雰囲気が盛り上がる。先生に促され、一人の男子生徒が教室に入る。
「はじめましてっ!――――――
そして彼は再び青春を謳歌する。




