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謝れば済むと思っているようですが、もう何度目でしょうか?

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/11/07

「すまなかった、セシリア。今度こそ気をつけるから」


 グランツ伯爵家の夜会が始まって一時間ほどが経った頃、レナード・フォン・グランツは婚約者のセシリア・ローゼンフェルトに向かって頭を下げた。金茶色の髪を丁寧に整え、紺色の礼服を身につけた彼は、今年二十三歳になる伯爵家の嫡男である。社交界では礼儀正しく親切な青年として知られ、父親の補佐として領地経営にも携わっていた。そんな彼が謝罪している理由は、今夜もまた婚約者との約束を破ったからだった。


 セシリアは、目の前の青年を静かに見つめていた。栗色の髪を結い上げ、淡い青色のドレスを身につけた彼女は、今年二十歳になるローゼンフェルト子爵家の長女である。レナードとは四年前に婚約しており、半年後には結婚式を挙げる予定だった。今夜の夜会は両家の親しい人々を招いたもので、二人が揃って客人を迎えることになっていた。


 ところが、レナードは開始時刻になっても姿を見せなかった。セシリアが伯爵夫人とともに客人を迎え、挨拶を済ませ、ようやく一息ついた頃になって、彼はミレイユ・ベルクマンという男爵令嬢を伴って現れたのである。


「ミレイユの馬車が故障してしまってね。困っていると聞いたから、迎えに行っていたんだ」

「そうでしたか」

「君には申し訳ないことをしたと思っている。でも、彼女を放っておくわけにはいかなかったんだよ」

「……」

「セシリア?」


 レナードは返事をしない婚約者を不思議そうに見つめた。彼としては、事情を説明して謝罪した以上、もう問題は解決したつもりだった。実際、これまでのセシリアは、彼が約束を破っても最後には許してくれていた。仕事が長引いたときも、友人との約束を優先したときも、彼女は多少悲しそうな顔をするだけで、翌日にはいつもどおり接してくれたのである。


 最初に約束を破ったのは、婚約して一年ほど経った頃だった。友人との乗馬に夢中になり、セシリアとの茶会を忘れてしまった。翌日、レナードが花束を抱えて謝罪すると、彼女は笑って許してくれた。その後も誕生日の食事会に遅刻したり、約束していた観劇を取りやめたりすることがあったが、彼女はそのたびに事情を理解しようとしてくれた。


 けれど、セシリアにとっては、決して忘れられる出来事ばかりではなかった。誕生日に一人で待っていたことも、楽しみにしていた観劇の切符を無駄にしたことも、彼が来ない理由を使用人たちに説明しなければならなかったことも、今でも覚えている。レナードが謝罪するたびに、次こそは約束を守ってくれると信じようとしてきた。


 半年前にミレイユと知り合ってからは、さらに状況が悪くなった。彼女が買い物に付き合ってほしいと言えば出かけ、相談があると言えば予定を変更する。婚約者との約束があっても、後から謝れば済むと考えているようだった。セシリアが不満を伝えると、彼は決まってミレイユが困っていたから仕方がないと説明した。


「レナード様。今夜は、私たち二人でお客様をお迎えする約束でしたね」

「ああ、もちろん覚えているよ」

「でしたら、なぜ事前に連絡をくださらなかったのですか?」

「急なことだったんだ。そんなに怒らないでくれ。もう謝ったじゃないか」


 セシリアは小さく息を吐いた。彼が謝罪すること自体を嫌っているわけではない。失敗したときに謝るのは当然のことであり、誰にでも間違いはある。問題なのは、彼が謝罪したあとに何も変えようとしないことだった。


「……分かりました。お客様がお待ちですので、今はご挨拶を優先しましょう」

「ありがとう。やっぱり君は理解があるね」


 レナードは安心したように微笑んだ。セシリアはその言葉に返事をせず、近くにいた客人へ挨拶をするために歩き出した。彼女が怒りを抑えていることにも、何度も同じことを繰り返されて疲れきっていることにも、レナードは気づいていなかった。


 しばらくして、セシリアのもとへミレイユがやって来た。銀色の髪を華やかに結い上げ、桃色のドレスを身につけた彼女は、十九歳になったばかりの男爵令嬢である。明るく人懐っこい性格で、周囲から可愛がられることに慣れていた。レナードとは半年前の茶会で知り合い、それ以来、何かにつけて彼を頼るようになっていた。


「セシリア様、今夜は申し訳ありませんでした。私のせいでレナード様が遅れてしまって」

「馬車の故障は大変でしたね。お怪我がなくて何よりです」

「ありがとうございます。でも、レナード様って本当にお優しいんですね。私が困っていると、いつでも助けてくださるんです」

「そうですか」

「セシリア様も、あんな素敵な婚約者がいらっしゃって幸せですね」


 ミレイユは屈託なく微笑んだ。セシリアは、その言葉にどう返せばよいのか分からなかった。確かにレナードは親切な青年である。困っている人を見れば助けようとするし、誰に対しても優しく接する。けれど、その親切のために約束を破られる側が、どのような思いをしているのかを考えたことはあるのだろうか。


「ミレイユ様。一つだけお願いしてもよろしいでしょうか?」

「はい、何でしょう?」

「今後、レナード様に何かお願いする際には、先約がないか確認していただけると助かります」

「……私が悪いということですか?」

「そのようなことは申し上げておりません。ただ、私たちにも予定がございますので」

「でも、レナード様はいつでも頼っていいと仰ってくださったんです」


 ミレイユの表情が曇った。彼女は困ったように視線を落とし、まるで叱られた子どものように唇を結んだ。セシリアはそれ以上何も言わなかったが、近くで二人の様子を見ていたレナードが歩み寄ってきた。


「セシリア、何かあったのか?」

「いえ、少しお話をしていただけです」

「ミレイユが困っているように見えたけど」

「私がお願いをしただけです。今後は先約を確認していただきたいと」

「そんなことを彼女に言っても仕方がないだろう。予定を変更したのは僕なんだから」

「でしたら、レナード様が気をつけてくださればよろしいのです」

「分かったよ。悪かった。だから、もうこの話は終わりにしよう」


 レナードはそう言うと、ミレイユを伴って別の客人のもとへ向かった。セシリアは二人の後ろ姿を見送りながら、胸の奥に重苦しいものが積もっていくのを感じた。彼は自分が謝れば相手が納得すると思っている。けれど、セシリアが求めているのは謝罪ではなく、約束を守ってもらうことだった。


 夜会が終盤に差しかかった頃、伯爵夫人が大切にしていた真珠の首飾りがなくなったという知らせが届いた。首飾りは伯爵家に代々伝わる品で、夫人が夜会の途中に外し、控え室の宝石箱に収めていたものだった。使用人たちが確認したところ、箱の中には何も残っていなかったという。


 伯爵夫人は騒ぎを大きくしないよう指示し、限られた使用人だけで探すことにした。ところが、しばらくしてミレイユがレナードに何かを訴え始めた。彼女は青ざめた顔をしており、今にも泣き出しそうな様子だった。


 やがて、セシリアはレナードから控え室へ来るよう求められた。部屋には伯爵夫人とミレイユもおり、重苦しい空気が漂っていた。


「セシリア、君に確認したいことがある」

「何でしょうか?」

「母上の首飾りを、君が持っていたという話を聞いたんだ」

「……私が、ですか?」


 セシリアは驚いてレナードを見つめた。首飾りを預かった覚えなどない。そもそも、今夜は伯爵夫人の控え室に一度も入っていなかった。


「ミレイユが、君が宝石箱を持っているところを見たと言っている」

「私はそのようなものを持っておりません」

「でも、確かに見たんです……」


 ミレイユが小さな声で言った。彼女は不安そうに両手を握りしめ、セシリアを見つめていた。


「私、セシリア様が盗んだなんて思っていません。ただ、何か事情があったのではないかと……」

「ミレイユ様。私は首飾りを預かっておりませんし、宝石箱も持っておりません」

「でも、私が見間違えたということですか?」

「そう申し上げております」


 ミレイユの目に涙が浮かんだ。すると、レナードは彼女を庇うように一歩前へ出た。


「セシリア、そんな言い方をしなくてもいいだろう。ミレイユは君を責めているわけじゃない」

「私も責めておりません。ただ、身に覚えがないと説明しているのです」

「だったら、持ち物を確認させてくれないか?そうすれば誤解も解けるだろう」

「……私の持ち物を調べるのですか?」

「疑っているわけじゃない。皆を安心させるためだよ」


 セシリアは、目の前の婚約者を見つめた。彼は自分が何を言っているのか、本当に理解していないようだった。婚約者の持ち物を調べるということは、彼女を窃盗の容疑者として扱うことに等しい。しかも、その根拠はミレイユの証言だけである。


「レナード様は、私よりもミレイユ様の言葉を信じるのですね」

「そういう話じゃないだろう。どうして君はいつも話を難しくするんだ?」

「いつも、ですか?」

「ああ。最近の君は少し神経質になっている。ミレイユに対しても冷たいし、今回だって素直に協力してくれれば済む話なのに」


 伯爵夫人が息子を制止しようとしたが、レナードは気づかなかった。彼はセシリアが反論しないことを、ようやく納得してくれたのだと受け取ったらしい。


 セシリアはしばらく黙っていた。怒りよりも先に、深い失望が胸に広がっていた。何度も約束を破られ、何度も謝罪を受け入れてきた。そのたびに彼を信じようと努めてきたが、とうとう身に覚えのない罪まで疑われることになったのである。


「分かりました。持ち物をお調べください」

「ありがとう、セシリア。君なら理解してくれると思っていたよ」


 レナードは安心したように微笑んだ。その表情を見たセシリアは、自分がどれほど彼に甘く見られていたのかを理解した。


 伯爵夫人の指示で侍女が持ち物を確認したが、当然ながら首飾りは見つからなかった。セシリアが控え室に入った記録もなく、彼女に付き添っていた侍女たちも、首飾りを手にしたところなど見ていないと証言した。


 さらに、使用人の一人が首飾りの入った箱を発見した。箱は別の衣装室に置かれており、伯爵夫人の侍女が片づける際に移動させていたのである。侍女はすぐに事情を説明し、夫人に謝罪した。


 首飾りが見つかったことで、騒動は収まるはずだった。けれど、セシリアの中では、もう何も元には戻らなかった。


「よかった。無事に見つかったんだね」


 レナードは安堵したように言った。それからセシリアのほうへ向き直り、いつものように申し訳なさそうな顔をした。


「すまなかった、セシリア。君を疑うようなことをしてしまった。悪かったと思っている」

「……」

「でも、これで誤解も解けたんだ。もう気にしないでくれないか?」


 セシリアは、思わず小さく笑ってしまった。首飾りが見つかれば、疑われたことも、侮辱されたことも、すべてなかったことになると思っているのだろうか。彼にとっては、今回の出来事もまた、謝罪すれば終わる些細な失敗なのだ。


「レナード様」

「何だい?」

「もう何度目でしょうか?」


 その問いかけに、レナードは言葉を失った。セシリアが穏やかな口調を崩さなかったため、かえって何を考えているのか分からなかったのだろう。


「約束を忘れたときも、私の誕生日を台無しにしたときも、他の令嬢を優先したときも、貴方は謝ってくださいました。そのたびに私は許してきましたが、今日のことまで許せると思われたのですか?」

「それは……本当に悪かったと思っている」

「ええ。そう仰ると思っておりました」


 セシリアは伯爵夫人へ向き直り、深く頭を下げた。夫人は何かを察したように、悲しげな表情を浮かべていた。


「伯爵夫人。大変申し訳ありませんが、私から父に婚約解消を願い出ようと思います」

「セシリアさん……」

「これまで大変お世話になりました。夫人には何の不満もございません。ただ、レナード様との結婚を続ける自信がなくなってしまいました」


 レナードは目を見開いた。彼女が何を言っているのか理解できないらしく、しばらく呆然としていたが、やがて慌てて口を開いた。


「待ってくれ!婚約解消だなんて、そこまでする必要はないだろう?」

「私には必要なことです」

「僕は謝ったじゃないか!これからは絶対に気をつける。ミレイユとの付き合いだって考え直すから!」

「それも、以前に聞いた言葉ですね」


 セシリアは静かに答えた。レナードは何か言い返そうとしたものの、適切な言葉が見つからなかったらしい。彼女は最後にもう一度伯爵夫人へ頭を下げ、控え室を後にしようとした。


「セシリア、待ってくれ。僕たちは四年間も婚約していたんだぞ」

「存じております」

「だったら、こんなことで終わりにするなんておかしいだろう!」

「レナード様にとっては、こんなことなのですね」


 セシリアは足を止め、振り返った。彼女の表情には怒りも涙もなかった。レナードはそのことに戸惑った。これまでのセシリアは、彼が約束を破るたびに悲しそうな顔をしていた。謝罪すれば、少し困ったように笑いながらも許してくれた。ところが、今の彼女は、まるで自分とは何の関係もない出来事について話しているかのようだった。


「私は、貴方に謝っていただきたかったわけではありません。約束を守ってほしかったのです。私の話を聞いて、私の気持ちを考えてほしかった。それだけのことが、どうしても伝わりませんでした」

「……すまない」

「ええ。そう仰るのでしょうね」


 セシリアは寂しそうに微笑んだ。レナードは、その表情を見て初めて、自分が彼女からどれほど多くの機会を与えられていたのかを理解した。約束を破るたびに謝罪し、許されるたびに安心していた。けれど、彼女が許してくれたのは、何も傷つかなかったからではない。傷つきながらも、次こそはと信じてくれていたからだった。


 その信頼を、自分は何度も裏切ってきたのである。


「では、失礼いたします」


 セシリアは丁寧に一礼し、控え室を後にした。レナードは彼女を引き止めようとしたが、伯爵夫人に制止された。夫人は息子を厳しい目で見つめ、静かに首を横に振った。


「レナード。これ以上、あの方を傷つけるのはおやめなさい」

「母上、僕は……」

「あなたは何度も謝罪してきたのでしょう。けれど、そのたびに何を改めたのですか?」

「それは……」

「セシリアさんが許してくださったからといって、何をしてもよいわけではありません。あの方の優しさに甘え続けた結果が、今のあなたなのですよ」


 レナードは何も言い返せなかった。伯爵夫人は深いため息をつき、近くに控えていた使用人へ、ローゼンフェルト子爵家に馬車を用意するよう命じた。今夜の出来事については、夫人自身が責任を持って子爵夫妻に説明するつもりだった。


 そのとき、部屋の隅に立っていたミレイユが、おずおずと口を開いた。


「あの……私は悪くありませんよね?首飾りを見たと思っただけですし、レナード様が勝手に……」

「ミレイユさん」


 伯爵夫人は彼女の言葉を遮った。普段は穏やかな夫人が厳しい表情を浮かべたことで、ミレイユは驚いたように肩を震わせた。


「あなたが何を見たのか、もう一度詳しくお聞かせいただけますか?」

「え……?」

「セシリアさんが宝石箱を持っていたと仰いましたね。どちらで、何時頃、どのような箱をご覧になったのでしょう?」

「それは……廊下で、少しだけ……」

「では、箱の色は?」

「……よく覚えておりません」


 伯爵夫人はしばらくミレイユを見つめていた。首飾りが発見された以上、彼女の証言が誤りだったことは明らかである。にもかかわらず、ミレイユは自分の発言によってセシリアがどれほど傷ついたのかを考えようとしていなかった。


「今夜の件については、ベルクマン男爵にもお話しさせていただきます」

「そんな……!私はただ、勘違いしただけです!」

「勘違いであっても、他人の名誉を傷つけたことに変わりはありません。あなたにも、その責任を理解していただく必要があります」


 ミレイユは顔を青ざめさせた。彼女は助けを求めるようにレナードを見たが、彼は何も言わなかった。つい先ほどまで彼女を庇っていた青年は、今になって自分が何を失おうとしているのかを理解し始めていたのである。


 伯爵夫人は使用人にミレイユを別室へ案内するよう命じた。その後、息子と二人きりになると、改めて厳しい口調で告げた。


「婚約解消については、明日、お父様と相談いたします。ローゼンフェルト子爵家から正式な申し入れがあれば、私たちは受け入れるべきでしょう」

「母上……」

「あなたがどれほど後悔しても、セシリアさんに許す義務はありません」


 レナードは俯いた。謝罪すれば許してもらえる。今まで何度もそうだったから、今回も同じだと思っていた。けれど、セシリアはもう自分の言葉を信じてくれない。四年間の婚約生活の中で積み重ねてきた失敗が、とうとう取り返しのつかない結果を招いたのだ。


  謝ってすむのは何度目か


 その答えを、レナードは最後まで数えることができなかった。

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