飢えた狼を鎮めることができるのは、貴女だけだった。 ~高潔たる辺境伯なのに、ものすごく色々あって妻へのデレが止まらない件について~
「ごめんね、アーミィ。王に命じられて今からどうしても王宮に行かないとだから、数日間屋敷を留守にしてしまうんだけど……待っててね?」
「分かりましたよ。心配せずとも待ってますよ」
三日ほど前の夜から、私がずっと言い続けてきたその言葉。
彼女は既に「はいはい」と軽く受け流し、耳にタコができている様子だったが、構わない。
何故なら私は彼女が大好きだからだ。
しかし、私の住む屋敷から王宮のある王都までは、どれだけ急いでも丸一日はかかってしまう。
王宮での用が長引かないといいのだが……
私の名はオルヘルド・ヴィデロ。
ここ、エルテレル王国にて辺境伯をしている男だ。
周りから「百年に一度」と呼ばれる美貌と冷徹な性格の持ち主だと言われ、「白銀の狼」という二つ名までつけられている。
そして私の妻、アミルーン・ナレオンは中級の貴族のご令嬢である。
先程のように、好きすぎて溺愛が止まらない女性だ。
彼女は元から辺境に住んでいたというわけでは無く、半年前にこの地へ王都から追放という形で来た者だ。
そのようなよそ者に、狼たる辺境伯がなぜそこまでして惚れたのか、それは、彼女自身の秘密にある。
皆が驚き、あきれ果てるであろうそれに、私は惹かれてしまった。
……しかし、「白銀の狼」か…………皮肉なものだな。
彼女に秘密——私に知られていることは、彼女自身まだ知らない——があるように、私も彼女に内緒の願いを持っている。
私の願い——欲望という名の狼を宥めてくれるのは、彼女しかいないからだ。
20年前まで、私の家——ヴィデロ家は、いわゆる「落ちぶれた貴族一族」の一つだった。
その理由とは、祖父——エウネルド・ヴィデロが国家を揺るがすほどの大罪を犯したからである。
その前まではかなりの地位を築いていたのだが、その犯した罪のせいで全てが崩壊したという。
本来なら家の取り潰しも避けられないのだが、それは当時の王の情けで免れたらしい。
しかし、大罪人の血を繋ぐということで、祖父以上にその息子——私の父、そして無論、私の扱いは惨いものだった。
父はそれに耐えきれずに自らその人生という名の舞台の幕を破る勢いかのごとく下ろし、母も父が自殺すると同時期にふらりとどこかに消えてしまった。
そのおかげで次期当主だった私は、齢15でヴィデロ家当主となった。
それからというもの、私は何よりもヴィデロの名誉挽回を目標として執務に励んだ。
落ちぶれ貴族の子息に、しかも15歳で何ができるかと周囲は嘲笑った。
ヴィデロを快く思わぬ貴族たちからの罵声もよくある話だった。
だが私は、それに屈するほど弱くはなかったらしい。
執務をしながらも、命じられてもいなかったが、祖父のような国の隠れた大罪人、特に貴族の汚職を炙り出すことに時間と気力を注いだ。
それによって捕らえられた罪人らは、やれ「どうせ国に取り入るための策だ」だの「聖人ぶるな」だのと言ってきたが、私はそれを一蹴した。
彼らの言っていることにいちいち反論するほど私は暇では無かったからだ。
正確な根拠、証拠を持って罪人を告発し、その見返りに地位を短期間で上げていった。
国のために人より働いた結果、人より早く昇進することの何が悪い。
そう言った極悪人を許さず、それを否定する輩には目を向けぬ主義が、「冷徹」と呼ばれる理由の一つなのかもしれない。
そして私はそのかいもあってか、ヴィデロ家当主となってから12年後、27歳で目標だった辺境伯にまで上り詰めた。
もちろんそれから今でも、大罪人の告発の仕事は続けている。
その理由は言うにや及ばぬ。
しかし……短期間で落ちぶれ貴族からこの地位にまで上り詰めたことは、思わぬ弊害も発生させていたのだが。
昨日の朝方に屋敷を発った後、翌日の昼前には王宮に到着した。
王都など8年前に辺境伯になってから数月に一度ほどしか出向いていないため、その荘厳さには毎度改めて驚かされる。
愛馬から降り、城門まで歩を進めた時にふと足が止まった。
右を見る。
竜が居た。
突拍子もないが、竜が居たのだ。
国一番の大男の身長の3倍近くの体長がある竜が、首に鎖を繋がれて城門前で待機していた。
そのあまりにも唐突な光景を見て、私は眉間に皺を寄せた。
……どうやら私にとって最悪な男が今王宮に居るらしい。
意を決して城門に歩を進めるが、その門は私より先に、他の者によって開けられた。
その者こそ、件の最悪な者だった。
爽やかな青髪に、誂えたように両眼にはめ込まれた、透き通ったサファイアのような瞳を持つ男だ。
おまけにそれなりの美貌も兼ね備えている。
彼の名はリグレオン・アクネーダ、私の一番の敵だ。
彼も私と同じように、短期間でその地位を上げた——いや、あれは短期間と言える代物ではない。
元々は一騎士であったが、王宮に突如現れてから一年の間で騎士団の一つをまとめ上げることができる程に成り上がったのである。
一年で、だ。
しかも彼は私のように地道な努力の末に成り上がったのではない。
しかし、賄賂などでもない。
さらに卑怯なやり口でだ。
門のそばにどっかりと鎮座していたあの竜——あれは彼の竜だ。
彼が王宮に現れたのは5年前のことだった。
そして、例の竜を手に入れることができたと王に報告し、この国の歴史上でも指折りでしか数えられなかった、「竜騎士」になったと宣言したのだ。
最初は皆その実力を疑った。
だが相棒の竜と共に出陣した戦の功績からそれが認められ、彼は王国随一の出世を遂げたのである。
私の努力を大きく上回り……
しかも彼は自分のしでかしたことの大きさにいささか気づいていないようで、皆に接する態度は……まさにチャラチャラしているとしか言いようがない。
それがまた苛立つのだ。
彼はいずれ私の地位を脅かす最大の脅威となる……だから今のうちに排除すべき者なのだが、彼は人望面においても実は私を上回っている。
私が冷徹すぎるのもあるのだろうが、彼はチャラさを生かした話し上手の聞き上手だからだ。
城門から出てきた男は此方に気付くと、ぱあっと顔を花のように綻ばせた。
そして滝から落ちる水の如く、次々と言葉を発した。
「あ、ヴィデロ様! ヴィデロ様だー! 半年ぶりっすか? お元気っしたか? 奇遇っすね! 王宮に用っすか? 俺も王に呼ばれて……」
「五月蠅い。そこを通せ」
私の冷徹が一切通らぬ男がいたとは……と会うたび呆れと苛立ちが湧いて来る。
このように礼節を弁えぬことが彼の最大の短所でもあり、最大の長所でもあるのだろう。
私は努めて冷徹に突き放すような言動を取ったが、彼は止まらない。
むしろさらに私を質問攻めにしてくるのだが。
「最近どうしてますか? あ、そういえば聞きましたよ。そっちに飛ばされた中級貴族の令嬢が、今やヴィデロ様の屋敷に入ったらしいじゃないすか」
耳がピクリと動く。
その話題は……完全にアーミィのことかっ!
「今あの令嬢どうなってんすか? あ、貴方と結婚したんだっけ。え、でもあの人まだ20代も前半じゃないっすか? ヴィデロ様35歳っすよね。10歳以上歳下って、流石に歳の差婚にも程があるんじゃ」
「黙って聞いていれば文句ばかり言うな騎士の分際で! 深堀りするな! 我が妻のことはこれ以上! 一切詮索するな!」
「ふぁいふぁ~い。でも、俺らマジで心配してるんですよ。あ、俺らっていうのは、友達のエナってやつが……」
「口を閉じろと言っているのが分からんのか!」
威圧するように言い捨てると、彼はやっと口をつぐんだ。
繰り返すようだが、この男は私にとって会話していると苛立ちが湧いて来る部類の男だ。
恐らく唯一の……
まだ話し足りないと言った様子だが、私には関係ない。
「王より呼ばれて今ここに立っているため、貴様の戯言に付き合っている暇はない。失礼する」
私は彼を置いてその場を去った。
彼は一瞬だけ伝え足りなそうにこっちを見ていたようだが、すぐに竜の背に乗って飛んで行ってしまった。
その直前に発された「ゼノ、今日もいつもの劇場行こうぜ!」という彼の明るすぎる声の響きが脳裏にこびりついて離れない。
全く、馬鹿なんだか脅威なんだか……
ああ、早く帰ってアーミィに会いたい。
あの瞳に、惚れたあの瞳に見つめられたい……!
数日後の夜、私は王より大量の仕事を押し付けられ屋敷へと帰還した。
全く、成り上がりは気持ちが良いものだが、仕事が増えるのは厄介なものだ。
あぁ、早くアーミィを補給したいなぁ、アーミィ……
「アーミィ! ただいま! どこにいる!?」
内なる渇望をそのまま吐き出すかのように、妻の名を叫んで走り出した。
屋敷の夜の廊下に筋をつくる月光が私の焦りを煽っている。
そこに彼女がいるようなのにいないというもどかしさを生み出しているようで。
「オル? おかえりなさい」
不意に後ろから求めていた声が聞こえた。
ネグリジェを着て、一室のドアからこちらを覗いている。
どうやら走っているうちに彼女の自室を通り過ぎてしまったらしい。
……全く、妻のことになると私も馬鹿に成り下がるな。
額を軽く叩き、彼女の方に身体を向け、そのまま倒れこむようにして走った。
そして彼女の数歩手前まで来ると、文字通りその胸に飛び込んだ。
腰に手をまわし、首筋に顔を埋める。
彼女の身体が一瞬だけ硬直したが、すぐに元に戻った。
破廉恥な変態貴族だと思われても構わない。
そのまま絞り出すような声で彼女の耳元で囁いた。
「アーミィ、私の愛しい妻よ。ただいま帰った。寂しかったよ……!」
彼女も私の背に腕を回した。
そして同じように囁く。
「おかえりなさい、オル。無事に帰ってきてくれて良かった……」
その様子は、傍から見れば仲睦まじい夫婦のそれだろう。
だが、彼女の声は確実に愛する夫に向けるような慈愛よりも多くの冷やかさが混ざっていた。
出来上がった大人、しかも貴族様がそんな無様な姿を晒すなど……と呆れているような。
それでいい、それでいいんだ。
私はそれで幸せなんだ。
そもそもなぜ私は10歳ほど年齢の差のある彼女と結婚することになったのか。
それは私の過去と関係する。
15歳になり、ヴィデロの当主となるまで——勿論、当主になった後もかなりの地位まで成り上がるまで……国家の大罪人の孫だと私は周囲から蔑まれ、凄惨ないじめの日々を過ごしていた。
生まれた時と家が悪かったな、と同年代の中級や上級貴族に暴力を振るわれる毎日だった。
殴られたり蹴られたりは当たり前。
髪を根こそぎ引き抜かれたり、魔法で傷つけられたり、両足と両手を縄で拘束されて逆さ吊りなんてことも珍しくなかった。
やってきた奴らは、吊られた私を見て「大罪の罰だ」と笑った。
周りの大人たちは、「大罪人の家系だから、仕方ない」といった目で私を見ていた。
その瞳はなんと冷たいものであったか。
古い記憶の父も、「今イザコザを起こしてもどうにもならん」と言って私を助けようとはしなかった。
孤独だった。
信じられるのは自分だけ、その様な状態だった幼き頃の私は何をしたのか。
自らの身体を改造することにした。
とは言うが、手術などではない。
自分の脳に暗示をかけ続けることで身体を騙した、という説明で伝わるだろうか。
要は、自ら己に催眠をかけたということだ。
それは、孤独への耐性の強化。
——そして、肉体的・精神的苦痛への快楽化。
執務を痛みという余計な事に気を取られないようにするために、私は当主となって暫くして自らの身体にそう暗示をかけることに成功した。
つまり、だ。
端的に言ってしまえば、私は出世のために、自ら被虐主義者となることを選んだのである。
その効果は絶大だった。
どれだけ殴られようが蹴られようが、罵られようがされたとしても、暫くして体の痛みが引いてしまったら執務に打ち込めるようになるのだから。
しかし、それらと同時に自分が壊れていく感覚もあった。
マゾヒストなど、なって得などないものだ。
あの頃の私はどうして後先考えずに自らをマゾにしてしまったのだと後悔したのは、辺境伯に上り詰めた27歳の時から2,3年前のことであった。
その頃の私に向けられる視線は軽蔑から畏敬、または尊敬、そしてかなりの嫉妬が混ざったものに変わっていた。
嫉妬されているとはいえ、その頃には15歳の時から続いていた暴力などはなくなっていた。
私があまりに高い地位に上り詰めたため、手を出せば厳罰に処される危険があったからだ。
余計な事がなくなったことで、私はさらに執務に打ち込めるようになった——と言いたいところであったが、ここで想定してもいなかったものが私の首を絞めることとなる。
それは、あの頃私が身に着けたマゾヒストだった。
元々は暴力の日々に耐えるために習得した体質だったのだが、その日々がなくなったらそれはただの飢えに変化する。
形容するとするならば、脳の一部を欲に飢えた狼が支配している感じだ。
辺境伯になっても1年丸々は、ことあるごとに狼が暴れて制御がきかなかった。
だが、そこで自傷に走ったら私が本当に哀れな飢えた狼に成り下がってしまう気がして、それを何をしてでも堪え、ややもすると暴力の日々より何倍も酷い苦痛が私に押し寄せる毎日だった。
何度かあの時のように、催眠でマゾを消そうとしたこともあった。
だが……飢えた獣は主と同じようにそのようなことで屈する軟弱な者ではなかった。
満たしたとしても、そこに居座り続けただろう。
しかしそれから3年も経つ頃には獣の扱いも慣れることができるようにはなったのだが、狼が脳内に居座っていることには変わりなく、他人に解消を願い出ることもできず、毎日精神も肉体も消費するような感覚だった。
そんな闇の日々の中に現れたのが、彼女だった。
アーミィ、貴女は私の唯一だ。
半年弱前だろうか。
貴女のその秘密を知ってしまった頃から、ずっと。
彼女は最初、私の妻としてではない、侍女としてこの屋敷に来た。
私の美貌やらに惚れ、ここの侍女となる女は少なくない。
しかし、私は彼女に他の女には感じない違和感を覚えたのだ。
私を気にする素振りを見せない。
「貴族の娘で王都から追放されてこの地へ来たため、悪いことをしたとはいえいきなり質素な暮らしをさせるのは心が痛む」と誰かが申した言葉が彼女を侍女として雇うきっかけだったため、元々惚れていたわけではないことは分かっている。
しかしあまりにも無反応すぎたのだ。
百年に一度らしい美貌を私は持っている。
ほとんどの女は私と目が合わぬ限り、やるべきことなど忘れて私の横顔を穴が開くほど見つめているというのに……彼女だけはそこにいるのが普通の男だとばかりに黙々と仕事を続けている。
彼女は異性が嫌いなのではないか、とその時の私は結論付けた。
それから彼女とは事務的な内容だけしか会話しないようにしていたのだが、ある日、見てしまった。
彼女の秘密——本性を。
正午を告げる鐘が鳴ろうとする時、私は書斎に置いていた使い終わった資料を自室に運ぼうとしていた。
自室は、侍女たちの部屋と同じ廊下の最奥に位置する。
その時間帯なら、普段の侍女たちは昼食の準備で厨房と食堂を行ったり来たりしているのだが、侍女の部屋を通り過ぎようとした途端、フフフ、と女の笑う声が聞こえてきた。
扉越しでも分かるような存在感のある声だった。
全く、誰が職務を放棄して何をしているのだ、まずは観察してやろう、と私はその扉を音の出ないように開けた。
そこで見た光景に、その時の私は唖然としたものだ。
部屋に居たのが、普段は黙々と仕事を熟すアミルーンその人だったからだ。
彼女は机に向かい、手帳らしきものにペンを走らせ、時折その内容を確認しては気持ちの悪いほど粘つくような笑い声をフフフと上げていた。
それを聞いた時、確信した。
彼女には何か裏の顔がある。
私は元々の用事も忘れ、暫く薄く開けた扉の隙間からその姿を食い入るように見つめていた。
すると、彼女がふと吊り上げた口角から、脳内をそのまま言語化したように声を出した。
「あぁ……順調ね…………絶対、他の侍女たちとは何かが違う女と認識され始めている……このまま生真面目で流されない女を演じれば……あの人は私を意識し始め、恋人くらいまでにはなれるでしょ……そうしたら……フフ、やっと夢が叶う……ざまぁができる……」
突然、私の中の何かが覚醒し、全てを理解させた。
彼女が私の美貌にも興味を示さないほど仕事熱心だったのは、演技だった。
私を彼女に意識させるための。
そして「ざまぁ」……
最近女の間で流行りの小説の系統のことか。
……ああ、そうか。そういうことだったのか。
アミルーン、貴女はわざと他と違う女を演じ、貴族である私の目を惹きつけた。
そして特別な関係となり、その威を借りて「ざまぁ」をし、小説の主人公へとなろうとしていたのか。
覚醒したのは、長年制御できたと思っていた私の狼だった。
彼女は私を道具としか思っていなかった。
利用しようとしか考えていなかったのだ。
イケる。
上手く彼女の野心を手玉に取れば、長年抑えていたこの欲を解放できるのだ。
……もう、あの時の衝撃から半年も経ったのだな。
彼女を腕に抱きながらあの運命の日までのことを思い返していた私は、暫くして渋々その腕を解いた後、自らも遠出の片づけを終えて眠ろうとしていた。
あぁ、いい機会だ。
せっかくならその後のことも思い出し、彼女のように手帳に書き残してみようか。
ベッドから這い出て小さな机を前にした私は、長年封印していた手帳を鍵のついた小箱から解放した。
最後の日付は、地位を上げすぎたせいで内なる狼を抑えきれなくなった10年ほど前のままだった。
そのページの最後は、「もう私がこの日記をしたためることはないだろう。一生この孤独と付き合う定めなのだ。」というなんとも詩的な文言で結ばれていた。
あの頃の私はそういうものが好きだったなぁ。
ページを一つめくって現れた白紙に、私はペンのインクの黒を乗せた。
あの後、私は彼女に結婚を迫り、無事に結ばれた。
式の日の夜に偶然見つけてしまった、疲れているはずの彼女がさらに気持ちの悪い笑い声を響かせながらランタンを置いてガーデンテーブルで手帳に何かを書き殴っていた姿を、生涯忘れることは無いだろう。
そして夫婦として生活し始めてからは、私は常に彼女へ幼子のように甘えるようにした。
最低限の事務の時間以外は片時も腕の中から離さず、常に周りが引くほどの熱量で彼女の耳元で甘ったるい言葉を叫び続ける。
周囲の視線など知ったことか。
すると必ず彼女は屑が相手かのような目で私を見つめてくる。
そう……その目だ! ああ、身体を直接いたぶられるのも良いが、この……人間としての精神を抉りに来るような痛みよ!
しかし、彼女は私を道具としてしか見ていないため、「ざまぁ」という目的を達成してしまったら、もう用済みとなり、いくら甘えても何の反応も示さぬようになるだろう。
だから、手を伸ばせば届きそうなところに目標地点を起き、彼女が少しでもそちらを向こうとしたら私は全力でその体にしがみつく。
そうすることで、彼女はずっと「ざまぁ」をすることができない。
その野心が燃え尽きぬ限り、私の私的な欲に付き合わされることとなるのだ。
私はそこまで書き記して手帳を閉じると、また鍵付きの小箱へと戻した。
あえて手帳には辺境伯になってから彼女の秘密を知るまでのことを残さなかった。
再びベッドに戻り、目を閉じる。
すぐに思い浮かんだのは、侍女だった頃の、まだ私に掌で転がされる前だった、ただ他の女とは違うアミルーンだった。
過去を久しぶりに振り返ったせいだろうか、私は心の中で彼女に謝罪したくなった。
ああ、アーミィ! 貴女には本当に申し訳なく思っている。
貴女を私の欲のための道具と仕立て上げてしまった。
だが全て過去の愚かな私が悪いのだ。許してくれ!
——だがある日、事態は私が思ってもいなかった方に動くこととなる。
その日は無性に狼が暴れており、書斎にまで妻を連れ、部屋の片隅に座らせていた。
なんでここにまで付き合わねばならない、面倒くさいという視線がずっと私の背に痛いほど刺さっている。
すまないなぁアーミィ、君には苦労をかけるよと振り返ってしおらしく言おうとしたその時だった。
扉が壊れそうなほどの勢いで開かれる音と共に、私の執事が息を切らしながら書斎に走りこんで来た。
全く、なぜこうも雰囲気を読まないと呆れながら注意しようとしたが、その前に執事の方から口を開いた。
「ら……来客です! フォーレット家ご令嬢、エナ・フォーレット様にございます!」
「……何?」
まずい。
エナ・フォーレットとはまさにアーミィがざまぁをしたがっている相手ではないか!
しかもフォーレット家と言えば王宮でふんぞり返っている上級貴族一族の一つで、こんな辺境に足を運ぶような家ではないはずだ。
なぜ連絡もなしに来たのだ……
いや、気にするべくはそちらではない、むしろ……
私は気づかれないよう妻の方を横目で見た。
口元を押さえ、興奮を隠そうとしている。
しかしその瞳は輝きに満ち、顔も真っ赤になっているため何も隠せていないのだが。
当然だ、私が隠し続けていた「ざまぁ」の終着地点が今目の前に急に現れたから。
だがそんなこと、私の幸せではない。
ここで彼女にざまぁされたら、私の欲はどうなるんだ。
彼女が私を道具としか見ていなかったからこそのあの快楽は永久に手に入れられなくなる。
彼女は強い。
彼女には野心というものがある。
夢が叶うめどが立たなくても、そちらに向かって手を伸ばすことができる。
比べて私はどうだ。
私は、彼女の視線というものがなくなったら、もう耐えられない。
またあの時の苦しみを味わうこととなるだろう。
どちらの願いを優先すべきかなど、既に決まっているようなものだ。
「追い返せ」
焦りを表に出さないよう、努めて冷徹に言い放った。
「……は? ——ちょ、ちょっとオル。まずは話くらい聞いてあげないと。せっかく王都から来てもらったのに失礼じゃない」
その声はアーミィのものだ。
興奮が私の一言で一気に冷めてしまったようで一瞬素が出ていたが、次の言葉はまたいつもの彼女に戻っていた。
追い打ちをかけよう。
今度は分かってもらえるように。
少しだけトーンを甘くさせ、さらに口を開いた。
「このような辺境の地に令嬢が直々に? 公的な用ではないだろう。執務以外は——いや、執務すらも、アーミィとの時間を削る悪因のひとつに過ぎない。なぜわざわざ愛しき我が妻との時間を他家の令嬢に割く必要がある? 今すぐ追い返せ」
どうだ、少しは効いただろうか……?
彼女の周りの空気の時が暫く止まった。
それが動き出すと、彼女は突拍子もない素っ頓狂な問いを私に投げてきた。
「オル。どうしてそんなに私に……私との時間を大切にしてくれるの?」
彼女は訊く途中で言葉を選んだようだ。
私の執着に、気づかれてしまっただろうか。
いや、そんなことはない。
野心がある彼女のことだ。
私がそれを利用していたことを知ったら、一応契約で結婚しているため離婚は難しかろうが、烈火のごとく怒り狂ってその後は口を利いてくれなくなるだろう。
ならば対応は楽だ。
「そりゃあ……アーミィだからだよ」
さっきまでとは打って変わり、きょとんとした声で至極当然のように返した。
アーミィだから愛する。
間違っては無いだろう。
彼女はその返答に薄く笑みを浮かべると、少しだけお花を摘んでくると言い、ふらりとどこかに行ってしまった。
恐らく暫くは戻ってこないだろう。
アーミィが居なくなり、執事も退出した書斎で一人、書類仕事をしながら考えていた。
元々私のマゾヒストは若き当主としての苦痛から逃れるために自ら身に着けたものだったはずだ。
なのにいざ苦痛が少なくなったらそれが抑えられなくなり……今や、一人の夢見る女性の人生をしゃぶっている。
「フフ……ア、ハハハ…………」
ああ、「白銀の狼」か。
何とも大層で、この上なく誂えられた二つ名を手に入れたことだ。
冷徹な狼の正体が他人の人生を貪って生きる化け物だとは、誰も思うまい。
それでも、手に入れたものを簡単に手放すことなどできはしない。
ならば私は化け物となって生きよう。
アーミィは今回また目標から遠ざけられたことで、機会を待つのではなく自分から機会を作ろうとするだろう。
その手口はきっとさらに巧妙になる。
日常は少しだけ面倒くさいものになるかもしれないが……目標達成して私が用なしとされるよりかはマシだ。
そしてこれからずっと…………その冷たい視線を、一心に浴びることができたら、いいな。




