【アップ✨】讃美歌526番(歌詞付)54年版「主よわが主よ」/讃美歌とMynoteもあります☕️
初めまして、天川裕司です。
ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。
また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。
どうぞよろしくお願い致します。
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
お暇な時にでもぜひどうぞ♬
【アメーバブログ】
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【男山教会ホームページ】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【YouTube】(ユメノ記)
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【ノート】
https://note.com/unique_panda3782
【YouTubeドラマにつきまして】
無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、
お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。
基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。
創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪
出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬
でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、
どうぞよろしくお願いします(^^♪
【本日のメッセージ】
https://www.youtube.com/live/d5WySosVoxA?app=desktop
聖書
『ヨハネによる福音書』(第一三章一〜一一節)
『イザヤ書』(第六三章七〜一九節)
讃美歌〜♫
讃美歌142番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=ENQGTX52-ug&pp=ygUV6K6D576O5q2M77yR77yU77yS55Wq
讃美歌526番
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=tCeCRg3XCiQ&pp=ygUV6K6D576O5q2M77yV77yS77yW55Wq
2026年3月29日 礼拝説教 聖書箇所
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるの ですか」と言った。
ヨハネによる福音書13章6節
(主は)彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い 愛と憐 れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ったくださった。
イザヤ書63章9節
はじめに
主の受難週第一日、日々、主イエスの苦難が何のためであったのか、をめい想したい。
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「さて、過越祭の前のこと」。それは、「イエス」が、「この世から父のもとへ移る御自分の 時」。その時が、「来たことを悟り、」イエスは、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し 抜かれた」。父から遣わされた御子の受肉は、世のただ中に、まことの人間として生まれることに いて明らかになった。それは、罪と死の世界に、永遠の御子が降られたこと(降誕)。イエスは先 の過越祭が近づいた折には、神殿の境内で犠牲の動物を売っていた者や両替をしていた者たちを追 い出すされた。イエスは、「何が人間の心の中にあるかをよく知っておられた」(2章25節)。そ して、イエスは、十字架に引き渡される時を知っておられる。「夕食のときであった」。「すでに 悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」。ユダが「パン 切れを受け取って」出て行くと、「イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の 子によって栄光をお受けになった』」「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」(13 章33節)。十字架の先にある復活と昇天をイエスは予告された。神が栄光をお受けになること、そ れが、イエスのへりくだり、十字架と昇天の目的。罪人が救われる目的は、神の栄光をたたえるた め。イエスの受難は、このまことの愛において証しされた。実に「弟子たちを愛し抜かれた」。
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「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと」。すべてを手中に治めること程、 人間にとって大きな誘惑はない。御子が託された神の権威は、かえって、謙遜と忍耐において、身 をもって証しされる。「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食 事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を くんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた」。ここに、わたしたちは、 主イエスがなさった、一つ一つの仕草が、愛の奉仕として証しされているのを見る。当時、食事の 席では足をのばして横たわっていた。客の足を洗うのはしもべの仕事であった。「シモン・ペトロ のところに来ると、ペトロは、『主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか』と言っ た」言葉に、そのあり得ない様がよく証しされている。この時、主イエスは答えて、「わたしのし ていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。つまり、主イ エスはただしもべの仕事をしたのではなく、一つの真理が隠されていることを明らかにされた。
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しかも、「ペトロが、『わたしの足など、決して洗わないでください』と言うと、イエスは、 『もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる』と答え られた」。罪の洗い清めは、外面的な洗いによっては果たされない。主イエスの愛の奉仕は、その 実質において、御自身の血を証ししている。過越において小羊の血が用いられたように、じつに、 主イエスは自ら、「世の罪を取り除く神の小羊」(1章29節)として、十字架(処刑の木)に上げ られた。じつに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者 が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」(3章16節)。わたしたちは、このとおりに、イエス に近づくとき、「主よ、あなたがいやしてくださるなら わたしはいやされます」(エレミヤ17章 14節)と告白するに至る。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」(ローマ11章33 節)。方や、シモン・ペトロは動転して、「主よ、足だけでなく、手も頭も」と言う。この時、主 はイスカリオテのユダの裏切りを予告された。まことの信仰は、その理解において、ただ、主イエ スの罪を洗い清める血、贖いの命において、神の栄光をたたえることを目的とする。
おわりに
イザヤは、主の苦難を預言した。主イエスは自ら苦難の僕として神の真実を証しされ た。今日、主イエスの十字架に至る苦難(受難)と忍耐を思い起こし、自らの道として歩みたい。
(Mynote)
二〇二六年三月二九日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。
(子供メッセージ)
『スコットランド教会新カテキズム』
「第一の戒めでは何が禁じられて居ますか。」
「本当の神様以外の、どの様なものでも、神様の様に信じる事、本当の神様より上にあるものとする事や、本当の神様と同じ様に愛する事、恐れる事、敬う事が禁じられて居ます。」
「あなたは私の他に何者をも神としてはならない」とする、十戒に在る第一の戒めである。全ての人は、天に居られる誠の主である神様を、父と呼ぶ事が出来る。それは老若男女を問わない。「エリ、エリ、サバクタニ」(主よ、主よ、なぜ私をお見捨てになったのですか」と言う意味であり、これは人としてお生まれになったイエス様が、救い主として、全ての人の罪を背負い、その罪の贖い(清め)の為に葬られようとした時、その人としての弱さの部分をそのまま正直にお見せになった事か。しかしこのとき集った人達(特に宗教に於いて高官とされた人達)はこの言葉を聞いて「あれはエリヤを呼んで居るのだ」と口々に言った。この「エリ」と言うのは「天に居られる父」と言う意味で、地上に居たエリヤ(預言者)の事ではない。ここにイエス様と他の人人達との認識の差がある。これは主なる天に居られる神様をどれほど知る程に信じて居るか、またイエス様をどの様に認識し、捉えて居るか、が問われるエピソードである。イエス様は人として生まれたと同時に唯一の救い主であり、天に居られる誠の父である神様の唯一の御子である事を、常に覚えて知らねばならない。
(公同礼拝)
『ヨハネによる福音書』(第一三章一〜一一節)
『イザヤ書』(第六三章七〜一九節)
この『ヨハネによる福音書』の箇所は、過越の祭の時に、イエス様とその弟子達(十二弟子)が共に食事をし、その後、イエス様が自分の腰布で弟子達の足を洗った場面が記される。
このイエス様の弟子達にした「足を洗う」と言う行為は、主が弟子達を愛した事をそのまま表す。このすぐ後にイエス様はゲッセマネの園にて、ユダの裏切りにより、ユダが引き連れた一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人達の送った下役共に捕えられた(『ヨハネによる福音書』第一八章一〜一四節を参照)。
イエス様は神様の唯一ただお一人の御子であり、人間の心の中に何が宿って居るか、全てご存知である。礼拝をする時でもその真心からして居るかどうか、礼拝の周りで集う人々がどんな事を考えて居るかも、全てご存知である。この時、ユダの心に悪魔が入り、イエス様を裏切らせようとして居た事も、時に関わらずご存知であり、園で捕えられ、その後…十字架に付けられ、陰府に下り、三日目に死人の内より甦り、天に昇り、全能の父なる神様の右に座し給えり…この一連の事も全てご存知だった。ユダはこのとき自分のする事を悪事と思って居らず、イエス様をこの様な形でエルサレムに引き連れ、公の場で人を教える機会を得させる事を考えて居たのか、その行為を悔い改めからやめる事を考えなかった。そしてイエス様はパン切れを鉢に浸しそれをユダに渡し、「しようとして居る事を、今すぐするが良い」と言い、ユダはすぐに出て行った。時は夜であった(『ヨハネによる福音書』第一三章二六〜三〇節)。この時に周りに共に集ったユダ以外の弟子達は、なぜユダにこう言われたのか、分かって居た者は一人も無かった。或る人々は、ユダが金入れを預かって居たので、イエス様が彼に、「祭の為に必要なものを買え」と言われたか、或いは、貧しい者に何か施させようとされたのだと思って居た。この様に、他の弟子達でさえこの時ユダが何をしようとして居るか、またイエス様がユダに言った事・させた事すら分からなかった。人には神様の御計画がその時々に於いて、分からない事が多々ある。これ等の事の信仰に於ける意味が、あとになって分かるのである。イエス様が、
「私のして居る事は今あなたには分からないが、あとで分かる様になるだろう」
「もし私があなたの足を洗わないなら、あなたは私と何の係わりも無くなる」
とペテロと他の弟子達にも言った様に、神様の御計画の事、夫々の人の信仰の成就の為に成る事は、その時々に於いて、人々に分からない事がある。イエス様は捕えられたのち鞭で打たれ、その後、十字架に付けられて甦る事に依り、全ての人の罪を贖い(清め)、信仰に依り救われる事を確約した。この一連の事は当時イエス様の周りに集った者達には(弟子達を含め)、有り得ない方法で全ての人を罪から救う事、全ての人に罪からの救いと、天の御国での永遠の命を約束した事であったろう。弟子達でさえイエス様がエルサレムに入った時、誰もイエス様が兵卒に捕えられ、十字架に付けられて葬られる事など分からなかった。ユダでさえそうなる事を知らず、イエス様が罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老達に返して言った、
「私は罪の無い人の血を売る様な事をして、罪を犯しました」と。しかし祭司長、長老達は、
「それは、我々の知った事か。自分で始末するが良い」とユダに言い、そこでユダは銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首を吊って死んだ。祭司長達は、その銀貨を拾い上げて言った、
「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのは良くない」
そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にする為に、その金で陶器師の畑を買った。その為に、この畑は今日まで血の畑と呼ばれて居る。こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。即ち、「彼らは、値を付けられたもの、即ち、イスラエルの子らが値を付けたものの代価、銀貨三十枚を取って、主がお命じになった様に、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」(『マタイによる福音書』第二七章三〜一〇節)。
常に唯一正しい信仰に於いて、神様がイエス様を通して成された事、即ち、全ての人を罪から救い、ご自分の側ー天の御国へ引き上げて下さる愛の業を覚え、人の主観・感覚・思惑にのみ陥らず、悪魔の誘いに寄らない様に祈り願う事が大事に在る。
【日本キリスト改革派 男山教会】
https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/
【最寄りの教会検索用】
https://www.rcj.gr.jp/
Table Café~
BE YOURSELF「あなたはあなたらしく」
アーサー・ホーランド師(2021年12月3日フライデーナイト)
https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=7MvpK7gGbJg
ハーベスト・タイム・ミニストリーズ
https://www.youtube.com/@HarvestTimeMin/videos?app=desktop
ユメノ記
https://www.youtube.com/@%E3%83%A2%E3%83%8E%E3%83%A6%E3%83%A1-v5x/videos
(お暇な時にぜひどうぞ)
少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。
サクッと読める幻想小説です(^^♪
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