09.第一章七話
表情は柔らかく見えるものの、オフィーリアの目に見据えられたピアース子爵は慌てて首を横に振る。
「い、いえ……! ただ、劇場のせいで女公爵様の評判に傷が入ってしまうのではないかと心配で、差し出がましいとは思いますが――」
「差し出がましいと自覚してるのね。なら、口を慎むことくらい考えつかないの?」
穏やかな声音で放たれるオフィーリアの冷たい言葉に、ピアース子爵は頭が追いついていないらしい。口を開けたまま固まった。
「あなたは出入り禁止に納得していないのよね」
「え、ええ……。劇場は私の連れである獣人に対する差別意識から――」
「つまり、わたくしの決定に異論があるということでしょう?」
「え……?」
「だって、子爵とその獣人を出入り禁止にするよう劇場に言いつけたのはわたくしだもの」
オフィーリアがそう告げた途端、「やっぱり!」とペネロピが声を上げる。
「獣人を不当に差別してるじゃないですか!」
怒りのままに、ペネロピはオフィーリアを非難する。
「子爵様が獣人をお連れだからそんな理不尽なことを……!」
そこまで聞いて、オフィーリアはため息を吐いた。
「あなた、反省という言葉を知らないみたいね。ご両親から怒られなかったの? 学ぶ頭が足りないのかしら、ペネロピ・ラウントリー」
「な、なんでそんな酷いことが言えるんですか!?」
「ペネロピ」
興奮するペネロピを宥めたフェイビアンが、感情を抑えようとはしているものの、これまで以上に険しい目つきでオフィーリアを射抜く。
「女公、言葉が過ぎる。彼女は私の恋人だぞ」
「あら。先ほどから驚愕続きですわ。公平に、平等にと唱えてきた殿下が、まさか自らの身分を盾になさるなんて」
「権力で来るものには権力で対応するのが一番だからな」
「さようですか」
オフィーリアは面白そうに軽く笑いを零す。
「――であれば、わたくしに対する発言には格別に気を遣ったほうがよろしいですわね?」
オフィーリアが目を細めると、フェイビアンが顔には出さないように気を配っているものの動揺したのが伝わってきた。
「権力には権力で。とても素晴らしいお考えだと思います。ただ……一つ解せないとすれば、お立場が未だに不安定な王太子殿下が、ご自身をこのわたくしより上だと認識している点でしょうか」
「……」
「最低限、殿下にこうして丁寧に接しているのは、あくまでわたくしの気遣いですわ。――次期国王というだけでわたくしを御しきれるなどと本気で考えているのなら、そんな驕りは早急に捨てたほうが身のためよ」
低い声で告げたあと、オフィーリアは美しく微笑みかける。
「意味はおわかりですわよね? 王太子殿下」
フェイビアンは唇を引き結んだ。反論はない。
自身が置かれている立場も、オフィーリアの影響力も、彼はよく理解している。だからこその無言だ。
心配そうにフェイビアンに寄り添ったペネロピは、オフィーリアをキッと睨みつけた。痛くも痒くもないオフィーリアは、やはり穏やかな笑顔で受け流す。
「さて。話を戻しましょうか。獣人に対する差別意識で出入りを禁止している、というのが子爵の主張で、殿下とラウントリー嬢もそのように受け取ったようね」
「……違うとでも言うんですか?」
「当然よ。あなたたちの目は節穴なのかしら。わたくしの後ろにいる彼が見えてないの? こんなに存在感があって、嫌でも目につくほどの美貌を持つ男なのに」
ブラッドの今の姿はあくまで人間そのもの。獣人の特徴はないけれど、それでも周囲の人間が噂の獣人だろうと気づいたように、アシュクロフト女公爵のお気に入り――黒髪交じりの淡い金髪の従者が獣人なのは有名だ。ピアース子爵が知らないはずはない。ペネロピとフェイビアンは言わずもがな。
「わたくしだって獣人を連れているのだから、獣人の出入りを禁止するはずがないでしょう。そもそも、劇場と劇団のスタッフや役者にも獣人がいるのよ? 彼らが出入り禁止になっているとでも?」
「ご自分だけ特別ということでは? 劇場は女公爵様が所有者、劇団も女公爵様が支援していらっしゃるところですよね。他の獣人の立ち入りが気に入らないだけ――」
「半年前、別の劇団の公演で、子爵がいたボックス席のカーテンが劇の途中で閉められたでしょう?」
ペネロピの推測は無視して、オフィーリアは子爵をその双眸に捉える。
「わたくしの席からよく見えたわ。その時も子爵はその隣の女性を連れていたわね」
「っ!」
「他の者たちからの視界を遮断して、ずいぶん淫らな行為をしていたみたいね。アシュト劇場はご存じのとおり、このわたくし所有の劇場なのに、よくもまあそんな下品なことができたものだわ」
子爵は狼狽え、フェイビアンとペネロピは驚きに顔を染めて子爵と狐の獣人を見た。
獣人をわざわざ中まで連れて入って観劇する貴族はあまり多くない。そのため、獣人を連れている子爵は獣人に対する差別がないとフェイビアンたちは勘違いしているようだけれど、子爵はむしろ差別意識が強いほうだ。
「キスくらいならいいのよ。デートで訪れる人たちもたくさんいるでしょうし、ボックス席は仕切られているもの。人目を考慮した多少の触れ合いは好きにすればいいわ。けれど、最後まで致すなんて……理性のない獣じゃあるまいし」
子爵にとって獣人は愛玩奴隷。娼婦と同じ扱いである。実の子のように、なんてとんでもない。外出の際に獣人を連れているのはそういうことをするためでしかないのだ。
ここ半年ほどは、今隣にいる狐の獣人である彼女を連れていることが多いらしい。狐の獣人の様子からして無理やりの関係でもないようで、宝石やドレスを強請ったりと、完全に愛人として美味しい思いをしているのが見て取れる。
「何か誤解が――」
「あら。出入り禁止通告の際に理由の説明を受けたはずよ。劇場から帰ろうとするあなたたちを呼び止めてスタッフがきちんと説明したと、その日のうちに報告を受けているわ。その時もあなたは納得がいかないとあれこれ騒いでいたようだけれど……」
オフィーリアはスタッフからすべて聞いている。だから今日、この場にいるのだ。この男を掃除するために。
「獣人は耳も鼻もいいと知っているでしょう? 聞きたくもない下品な粗相で、わたくしの虎、劇場スタッフや劇団の者たちが不快な思いをしたわ。ここは劇を鑑賞するための場であって、節度のない者が欲望のままに振る舞っていい場所じゃないのよ」
声は特段大きいわけではなく、怒鳴ってもいない。それでも、非難の色彩を帯びた声は静かに鋭く、周囲の者たちの耳に届く。
「出入り禁止対象で自分ではチケットが購入できないとわかっているから、誰かに代わりに買わせたんでしょう。喚けば劇場側が折れて入れてくれるとでも思っていたのかしら。いずれにせよ、そのような場合は返金できないからこのままお帰りいただける?」
明確な理由があって出入り禁止になり、その事実が覆らないことを一度で理解できない頭しか持ち合わせていないとは残念な男だ。アシュクロフト女公爵が所有者なのだから、子爵程度の権力すらも通じないのは常識だというのに。
「わたくしが所有や支援をしていてわたくしの庇護下にある劇場と劇団よ。あなたのような者に穢されたくないわね」