20.第二章八話
「マーガレット様」
学園の廊下を歩いていたマーガレットは聞き覚えのある声に呼ばれて振り返り、ペネロピを視界に捉えた。
「ご機嫌よう、ラウントリー伯爵令嬢」
「ご機嫌よう。あの、お話ししたいことがあるので、お時間をいただけますか?」
「申し訳ないのですけれど、そろそろ帰宅しなければなりませんの」
「お願いします、大事なことなんです!」
ペネロピはマーガレットの手をとってぎゅっと握り、懇願してきた。眉をひそめてしまいそうになるのを堪えて、マーガレットは微笑を浮かべる。
「……少しでしたら」
「ありがとうございます!」
安心した様子のペネロピに「談話室のほうへ」と連れていかれ、談話室に先にいた人物にマーガレットは目を瞬かせた。
「元気そうで何よりだ、ハズヴェイル公爵令嬢。突然呼び立ててすまない」
「ご機嫌よう、殿下」
談話室にいたのはフェイビアンだった。彼はすでにこの高等部を卒業しており、近くにある大学に通っている。本来ならこの学園にはいないはずの人間だ。
王子が待っているならさすがに事前に伝えておくべきだと思うのだけれど、ペネロピにそのような気遣いを求めるのは無駄なのだろう。
「掛けてくれ」
フェイビアンに促されて、マーガレットはソファーに腰掛ける。ペネロピはフェイビアンの隣に座った。
「早速だが……ハズヴェイル公爵令嬢。あなたはアシュクロフト女公と親しいが、彼女をどう見ている?」
「『どう』とは、どのような面においてでしょうか?」
「人間性だ。彼女が何をしているのか、あなたもある程度のことは知っているはずだ。獣人差別、他者を見下し軽んじる傲慢さ。あなたは友人だと思っていても、女公のほうも本当にあなたを大切な友人として見ているか定かではない」
フェイビアンを援護するようにペネロピが口を開く。
「女公爵様は婚約を解消されたあともスティーヴン殿下と親しくされていますよね。元婚約者が自分の友達と交際していたら、普通友達のことを考えて距離を置くと思いませんか? 恋人が元婚約者と親しくしていたら、……私なら、友達でもすごく嫌です」
ペネロピは悲しそうな表情を浮かべた。自分の立場に置き換えて想像しているらしい。
これは、マーガレットを煽っているのだろうか。
(デリカシーというものがありませんのね)
オフィーリアとスティーヴンが婚約していたことについて、マーガレットは本当に欠片ほども複雑な気持ちはない。所詮は過去のことであり、あの二人の間に恋愛感情が生まれた瞬間は一切なかったという事実が特に大きい。
気にしているかどうかにかかわらず、彼女の台詞は親しくもない相手に対するものとしてはなかなかに無神経ではないだろうか。あなたもそう思っているはずです、と決めつけている。そして、マーガレットの気持ちに寄り添うことができると、私は味方なのだと、言外にそう伝えている。
マーガレットはこれまでにも何度かペネロピと話したことがある。その度に、この子は普通に性格が悪い、そして己の性質を自覚していないと感じていた。
あらゆることにおいて、自分が正しいと驕っているのだ。
マーガレットとペネロピは学年が違うので、授業が重なることはほとんどない。友人でもない。マーガレットの中でペネロピは、「親しい相手」に分類されていないのだ。
しかし、ペネロピは妙にマーガレットに懐いている。マーガレットがスティーヴンと交際しているため、仲間意識のようなものを持たれているらしかった。
王子の恋人。どちらもそのまま結婚すればマーガレットとペネロピは親戚になるので、親しい相手として勝手に認識されているように見えてならない。
「女公は、あなたが庇う価値のある人間だと思うか?」
フェイビアンからそう問われて、マーガレットは目を伏せる。
この二人はどうやら、マーガレットが心の奥底ではオフィーリアに対して劣等感や恐れを抱いていて、仕方なく親しくしていると考えているようだ。そういう負の感情を刺激して、マーガレットを説得しようとしている。
拙いけれどそれなりにずる賢く、性格の悪いやり方だ。わかっているけれど仕方がない、と思っているのだろう。
「女公の罪を暴くことができる、確実な証拠がある。三週間ほど前に発覚した富裕層ばかりの闇オークションに、女公が参加していた証拠だ」
「勇気ある警察の方が証拠を提供してくださいました。警察内部には女公爵様を恐れ、証拠隠滅を図る者がいてもおかしくないからと私たちに」
「……そうなのですか」
「証拠があっても安心はできない。女公ならその場で証拠を消してしまえるだろうから、なるべく人目が多い場所で問い詰めて、言い逃れができない状況を作らないと厳しい」
真摯な眼差しで、フェイビアンはマーガレットを見据える。
「だから協力してくれないだろうか。あなたからの誘いであれば、女公も油断するはずだ」
「……」
「本当に友人のためを思うのなら、正しい選択をするべきだ」
「正しいこと……」
マーガレットは深呼吸をして、背筋を正した。
「三日後、我が家で夜会が開かれます。招待客は主に侯爵家以上の方々で、お忙しいオフィーリア様はお誘いしていなかったのですけれど、お声をかけてみますわ。オフィーリア様がご参加してくださるようでしたら、お二人にご連絡いたします」
舞台は提供する。そういうことだ。
「感謝する、ハズヴェイル公爵令嬢」
理解したフェイビアンが頭を下げ、ペネロピも嬉しそうに「ありがとうございます!」とお礼を口にした。
「それでは、わたくしは帰宅の時間ですので」
「ああ。付き合わせてすまない。本当にありがとう」
すでに達成感を覚えているかのような二人を置いて、マーガレットは談話室を出た。廊下を進みながら息を吐く。
(緊急性があるわけでもないのに突然の呼び出しといい、まるで礼儀が身についていない子供のよう)
オフィーリアとスティーヴンの関係についてマーガレットが気にしていると決めつけていることに始まり、あの二人はどうも誤解が好きらしい。
マーガレットはオフィーリアを心の底から慕っている。尊敬しているし、大事な親友だ。姉のように思ってもいる。オフィーリアがどのようなことをしているか、すべてではないけれど把握しているうえで、だ。
オフィーリアの行動原理がアシュクロフトという凄惨な環境で生まれ育ったことにあるということも、もちろん承知している。
(王太子殿下。お気づきではないようですけれど……わたくし、とても怒っているのですよ)
正しい選択をするべきだと、フェイビアンは言った。彼の言う正しいこととは、彼らにとって都合の良い正しいことでしかない。
オフィーリアのことを何も知らないくせに、オフィーリアが完全なる悪で、自分たちは善人だと疑いもしない傲慢さ。獣人奴隷制度を廃止するために裏でどれほどオフィーリアの貢献があったかも知らず、自分たちの手柄だと過信する未熟さ。すべてが厚かましい。
あの二人が目の当たりにした死はどれくらいだろう。地獄と呼ぶに相応しい光景が日常である環境が想像できるだろうか。
そのような環境に身を置いて、「正しいこと」に疑念を抱いた経験などないはずである。
別に、オフィーリアが正しいとはマーガレットも思っていない。自身が正義とはほど遠いことを、オフィーリアは自覚している。確かに彼女は悪だ。
けれど、その辺にいる悪党と同じように扱われていいような人ではない。ただ私利私欲のために悪事に手を染めるような有象無象と同等に見なすのは安易と言わざるを得ない。
オフィーリアは先代のアシュクロフト公爵夫妻とは違う。いつか自分が裁かれる可能性があることも覚悟して、信じる道を進んでいる。そのような事態に陥るということは、自分を負かすほどの優秀な人間が現れた証拠だから面白いと、そう微笑む人である。
その強さに、マーガレットは敬意を持っているのだ。
「オフィーリア様にご連絡しなくてはいけませんね」
この状況、フェイビアンとペネロピの行動まで、すべてがオフィーリアの計画どおりに進んでいる。
あの二人がそのことに気づくのはきっと、もう後戻りもできない頃だろう。
◇◇◇