02.プロローグ 後編
青年は確かに、酒の席で友人にそのような話をしていた。それがどこから漏れてしまったのか。
娘しかいない子爵家に婿入りして爵位を継ぐ。その計画は保険であり、欲をかいて公爵という地位も求めていた。何より、あの子爵令嬢よりオフィーリアのほうが美人で、体つきも好みなのだ。それに、アシュクロフトは今や国一の資産家なのだから、結婚してその財産が手に入れば仕事などせずとも遊んで暮らせる。
その生活が眼前にあると、手に入れた気でいた。オフィーリアが部下に対応を任せるのではなく直接話を聞くのは、投資先として最有力の候補だけだと耳にして、このプレゼンの場が設けられたことで浮かれていた。
すべて知られていたことなど当然予想もしていなかった青年は、先ほどから驚愕の連続に思考が停止しかけている。
「わたくしを利用したうえ身の程知らずにも誑かそうとした愚者には、相応の罰を受けてもらわないと。見逃すという選択肢をとるほどわたくしの名は安くないの。どれほど愚かで罪深い所業だったのか、これから身に染みて理解することになるわ」
少しのんびりとした口調でそう紡ぎながら、オフィーリアは相変わらず美しい、しかし不穏な色を帯びた微笑を見せる。
「お客様がお帰りよ。ご案内してさしあげて」
これ以上話を聞くつもりはないという態度で立ち上がりながら、オフィーリアは執事に命じた。執事は「かしこまりました」と頭を下げる。
「アシュクロフト女公爵様、お待ちください!」
ドアに向かったオフィーリアを引き止めるため、回らない頭を必死に働かせてなんとか青年は駆け出した。けれど、従者が立ち塞がって青年は足を止める。
冷然とこちらを見下ろす従者の相変わらずの迫力に息を呑む。敵意がふんだんに込められた真っ赤な瞳がこちらを射抜いている。
「主人の名を勝手に利用しておきながらまだ無礼を重ねるか。弁えろ」
従者に批難されて、青年の頭に血が上った。
オフィーリアの従者は有名だ。現在オフィーリアが最も気に入っている、絶世の美貌を持つ従順な従者。完全に人間の姿に擬態できる獣人らしく、確かに獣の耳などの特徴が外見にはない。
それでも、獣人は獣人だ。いくら見た目を誤魔化したところで、中身はただの人間に似た形をした獣。どんなに恐ろしい空気感を持っていようと人間より下等な生物で、人間に逆らうことなど許されない存在。
「っ獣人ごときが邪魔をするな、引っ込んでろ!」
「――あら」
青年が怒鳴ったあと、綺麗な声が響いて静寂が訪れる。コツ、コツとヒールの音が近づき、従者の隣でオフィーリアが立ち止まった。
「あなた今、このわたくしの虎に暴言を吐いたの?」
異様な空気を感じて、青年はヒュッと息を吸い込む。
悠然と笑みを浮かべているオフィーリアの目は、身が竦むほどの殺意を宿していた。先ほどまでは、静かな怒りはあったかもしれないけれど、下に見ている人間に対するような甘さから来る、ある意味寛容な部分があった。しかしそれが完全になくなり、比較するまでもないほどの不快感と憤怒が窺える。
「わたくしの名前を無断で使ったことといい、本当に肝が据わっているのね。実業家として成功したいなら度胸は確かに必要だけれど、越えてはいけない一線を自覚できないのなら身を滅ぼすだけよ?」
オフィーリアがすっと手を振ると、ドアも窓も閉まっている室内に突風が吹き荒れた。テーブルに放置されていた資料が風に飛ばされ、一直線に青年の顔に直撃する。
「何を――」
青年が文句を言う前に、資料の紙が一瞬で細かく切り裂かれた。風で青年の顔に張りついていた資料が、である。
風が収まり、ひらひらと資料だった紙吹雪が舞い散る。どの切り口も鋭利な刃物を使用したかのように綺麗な直線だ。しかし、使われたのは刃物ではなく魔法だった。
オフィーリアは魔法で資料を細かく切り刻んだのだ。一歩間違えば青年の顔にも傷がついていたであろう状況で、一切の躊躇いもなく。
これは、それほどオフィーリアが卓越した魔法技術と自信を持っていることを示している。もしくは、青年に傷を負わせても――万が一首を切り落とすようなことになったとしても構わない、と考えていたか。
その可能性に思い至った途端、青年の体から力が抜け、その場に座り込んだ。全身が恐怖で震えている。
威圧感だけとは異なる、あまりにも明確に死を予感させる脅迫。仮に彼女から危害を加えられたとして、彼女にはその事実を握りつぶすほどの力がある。躊躇などしないだろう。
「わたくしが誰なのか忘れたのかしら。それとも、まだ自分の立場がわかっていないの?」
頭上から落とされた声に、よろよろと顔を上げる。
淡い青色の双眸には、慈悲など一切ない。
気に入ったものを手に入れるためには手段を選ばない。気に入らないものはその権力と財力、そして実力をもって潰す。鷹揚な振る舞いから受ける印象とは裏腹に、やることは容赦がなく過激。彼女の不興をかえば、社交界に君臨していた者でさえその瞬間に立場をなくすと言われているほどの絶対的な影響力を持つ人物。
それがオフィーリア・アシュクロフト=シアーノクスという女。麗しき悪女公爵、アシュクロフト女公爵閣下なのだ。
わかっていた。いや、わかっているつもりだった。
所詮は十九歳の女だと、これまで手玉に取ってきた女たちのように簡単に籠絡できると、愚かにも驕っていたことを青年は正しく自覚する。
「一度子爵家に引き渡そうと思っていたけれどやめるわ。さっさと逮捕してもらって、裁判も速やかに終わらせてもらいましょう。ああ、死刑にはさせないから安心してね。世の女性たちのためにもなるし、今後あなたにはまともな自由が与えられることは一生なくなるけれど、生きていられるだけありがたいでしょう? ――アシュクロフト女公爵を利用するって、こういうことよ?」
アシュクロフトに目をつけた時点で、青年の未来は決まっていたのだ。
屈強な使用人に青年を警察に連れて行くよう任せたオフィーリアは、自室で優雅に紅茶を飲んでいた。
「イケメンだって噂の男だったのに期待外れだったわね。実業家としての手腕が残念すぎてつまらないだけじゃなくて、顔も目の保養にすらならないなんてがっかりだわ。わたくしのものに暴言を吐くなんて尚更」
あの青年は以前から若い実業家として新聞でも取り上げられており、その容姿から女性のファンが多い。だから気になって招いたわけだけれど、実物は本当に期待外れだった。
オフィーリアは紅茶を淹れてくれた従者――ブラッドの顔を見つめる。
「あなたを見慣れているせいで目が肥えちゃってつまらないのよね……」
美の神がその手で直接創造したかのようにあまりにも美しすぎる顔立ちのブラッドに、オフィーリアがため息混じりに不満をぶつける。
「目が肥えてるのはあんた自身のせいでもあるんじゃないのか」
「自分の顔なんて鏡を見ないと視界に入らないものだから、あなたの顔を眺める時間のほうが長いの」
ブラッドに負けず劣らずの容姿だと自負しているオフィーリアは謙遜などしない。自分の顔はもちろん好きだ。
「なら、普段は獣の姿になっておくか?」
「それとこれとは話が別に決まってるでしょう」
「わがままなご主人様だな」
軽く笑ったブラッドに、オフィーリアも「今更ね」とにっこり笑う。
「わたくしのわがままになんでも応えるのがあなたの役目よ。そうでしょう?」
「ああ。わかってるよ、ご主人様」