17.第二章五話
「兄上」
ノクシア王国の第一王子スティーヴンは、王宮の廊下で後ろから呼び止められて振り返った。そこにいたのはスティーヴンを兄上と呼ぶ唯一の人物、弟のフェイビアンと、フェイビアンの恋人ペネロピだった。
「二人揃って、やけに真面目な顔でどうかしたのか?」
父王譲りの同じ緑の目を持つ弟に、スティーヴンはそう問いかける。
「アシュクロフト女公のことについて、お聞きしたいことがあります」
予想どおりの内容だった。
アシュクロフト女公――オフィーリア。一歳年下の友人の名前だけれど、なるべく聞きたくない名前である。
「兄上なら、女公の犯罪行為の証拠がどこにあるか、お心当たりがあるのでは?」
「お願いします、殿下。殿下と女公爵様は長いお付き合いですから庇いたいお気持ちもわかりますが、それでは女公爵様のためになりません。罪を正しく償わせる必要があるはずです」
そんなことを訴えられてもなぁ、とスティーヴンは後頭部を掻いた。
「別に、友人だとか元婚約者だとかのよしみで彼女を庇うつもりはないが……」
スティーヴンはかつて、オフィーリアと婚約していた時期がある。政略による婚約だった。
しかし、当時からスティーヴンもオフィーリアもお互いに恋愛感情は一切なく、むしろスティーヴンはオフィーリアにとって使い勝手のいい駒という位置づけであった。おかげで多大な苦労を強いられる羽目になったのは、人生最大の不幸と言っても過言ではないかもしれない。
オフィーリアが公爵位を継いで間もなく婚約は解消されたけれど、スティーヴンは解放されたわけではなかった。婚約者という肩書きが友人に変わっただけで、振り回される環境は変わらなかったのだ。
マーガレットと恋人関係に発展したのはオフィーリアがきっかけなので、そこは感謝している。ただ、それすらもオフィーリアの計画のうちだったのではという疑念は常に付きまとっている。
オフィーリアの恐ろしさをスティーヴンほど理解している人間が、果たしてどれほどいるだろうか。それこそ、眼前にいる弟とその恋人より、スティーヴンは遥かに承知している。
「お前たち、よくあれを敵に回そうと思えるな」
本当に不思議で仕方がない。呆れを通り越して感心に近いかもしれない。
オフィーリアがこの二人を泳がせているせいで「アシュクロフト女公爵が丸くなった」などと徐々に誤解されつつあるけれど、あれは間違いなく、どんな瞬間も「触るな危険」だ。スティーヴンからすると人間兵器とすら呼べる。喧嘩を売っても無事で済むと勘違いできる能天気さが羨ましい。
(……いや、無知だと確実に破滅するのだから、やはり羨ましくはないか)
不興を買ってはいけない存在をしっかり認識できる自身の危機察知能力には感謝すべきだろう。スティーヴンの場合、オフィーリアにはわからせられたと表現するほうが正しいけれど。
長い付き合いだ。本当に色々あった。本当に。
「陛下からこっぴどく叱られなかったのか? あいつには触らないほうが身のためだ」
「ですが、女公爵様が獣人を虐げていることは間違いないのです!」
「間違いない、ねえ……」
何度も忠告しているのにこれである。
「私には心当たりなどないな。そんなに確信があるならお前たちで頑張ってくれ」
「兄上!」
二人には申し訳ないけれど、スティーヴンは軽く手を振ってその場を去った。
(手のひらで転がされているとなぜ気づかない)
廊下を歩きながら、何度目かもわからないそんな疑問が湧く。
二人の心意気は素晴らしいと思うものの、色々と拙いのが事実だ。正義感に酔いしれている、とまでは言わないけれど、盲目になっているのは間違いない。現実を直視する冷静さや客観性が足りない。
焦っているのは一目瞭然だった。王太子とはいえフェイビアンの立場が不安定なのと、ペネロピの出自が要因だろう。
今度こそ王妃には相応しい身分の者を……という声は多い。それを抑制するだけの力が、現王にもフェイビアンにも、そしてペネロピの実家にもないのだ。
(……あ。しまった)
しばらく歩き、ふと顔を上げて視界に映った人物に、スティーヴンは心の中でそう零す。考えごとをしていたせいで気づくのが遅れてしまった。
「ご機嫌よう、スティーヴン様」
「ご機嫌麗しく……はなさそうですね、殿下」
その人物はフェイビアンと同じ琥珀色の髪の女性――王妃だった。スティーヴンは家族での食事の席等にあまり同席しないので、こうして顔を合わせるのは何日かぶりになる。
正直に言うと、王妃は少し地味な見た目だとスティーヴンは思う。幼い頃に出会ったオフィーリアやブラッドの印象があまりにも強いのでそう思うようになってしまったのかもしれないけれど、とにかく派手ではない。
美人ではあるし、見た目は実年齢より若く見える。伯爵家の出身ながら、王妃としての役割を果たすために日々努力を重ねており、性格は真面目で責任感がある。
愛を貫いたがゆえに父に振り回され、王妃になってしまった可哀想な人。
スティーヴンの感想としては、そんなところだろうか。
「スティーヴン様。あなたからも、あの子たちをどうか説得していただけませんか」
見るからに悩みを抱えているという表情をしていたけれど、普段はスティーヴンを避けている王妃からの突然の頼みに、スティーヴンは目を瞬かせる。王妃とともにいる侍女も驚愕して王妃を見つめていた。
「フェイビアンとラウントリー伯爵令嬢がオフィーリア、……あー、アシュクロフト女公を追いかけ回してる件ですかね」
「はい。私と陛下の説得はどうも効果がありませんので……」
「私に頼み事とは、よほど切羽詰まっているようですね」
王妃は瞠目して、気まずそうに視線を落とした。
「まあ、我が弟とその恋人がアシュクロフト女公を目の敵にするという自滅まっしぐらな選択をしているようなので、当然ですかね」
あの二人が自覚していないだけで、周りの認識が正しい。
どうにかしたいという気持ちはわかるけれど、残念ながら母子揃って頼る相手を間違えている。
「申し訳ありませんが、私はそんなに堂々とアシュクロフト女公の邪魔はできませんよ。ご存じだと思いますが、あれは恐ろしい女ですから」
特にスティーヴンにはほとほと容赦がないのだ。こちらは一応王子だというのに、そんな肩書き、アシュクロフト女公爵には通用しない。
「陛下と王妃殿下のご子息です。そちらでどうにかなさってください。私は自分が可愛いので、どちらにも加担しません」
「……そうですか。時間をとらせてしまいました。ありがとうございます」
「いえ」
お礼を告げると侍女を連れて遠ざかっていく王妃を眺めて、スティーヴンは短く息を吐いた。