10.第一章八話
オフィーリアから睥睨され、ピアース子爵も狐の獣人も、恐怖を感じたのか肩を揺らす。
ここで大人しく引き下がっておけばいいものを、ピアース子爵はまだ悪足掻きをするようだ。
「し、しかし、女公爵様も私の気持ちがわかるはずです! あなたも、観劇だけが目的ではないでしょう?」
ピアース子爵の視線が一瞬、ブラッドに向いた。言いたいことがわかりやすい。
「人生には刺激というものがなければ退屈ではありませんか!」
「あなたと一緒にしないでくれる? 不愉快だわ」
アシュクロフトの名につきまとう獣人好きのイメージ。亡き両親と同じだと考えられているオフィーリアなら、この程度のことはさして問題ではないと判断してくれるとでも思っていたのだろう。
取りつく島がないオフィーリアの断固とした姿勢に、ピアース子爵は顔を青くさせる。
「奥様はご存じなのかしら。あなたとその女性の関係」
「!」
「わたくしが手を下すまでもないでしょうね。男爵家の末子が結婚で運良く遠縁の子爵位を継ぐことができたのに、結末は哀れなことになりそうねぇ、ピアース子爵」
更に顔色が悪くなるピアース子爵に、オフィーリアはにっこりと笑った。
「目立つ場所で問題は起こすものじゃないわ。わたくしに関わる場所なら尚更、ね?」
見物人は多い。火消しは不可能だ。
何より、オフィーリアがみすみすそれを許すわけがない。
愕然とするピアース子爵に、オフィーリアは容赦なく追い打ちをかける。
「それで、いつまで出入り口前でぼーっと突っ立っているつもり? とっても邪魔なのだけれど、今すぐ消されたいのかしら」
ヒュッと息を吸い込んだピアース子爵より、狐の獣人のほうが反応が早かった。「申し訳ありませんッ!!」と謝罪して即座に走って逃げる。ピアース子爵も弾かれたように駆け出した。
静まり返るその場で、オフィーリアはパン、と手を叩く。注目を集め、声を張った。
「公演前に不快なものを見せてしまったわね。お詫びとして、今この場にいる皆様にはのちほど、今後この劇場で公演される舞台のチケットの引換券をお渡しするわ。どの舞台のチケットと引き換えても、代金はわたくし、オフィーリア・アシュクロフト=シアーノクスがお支払いしましょう」
笑顔で告げると、周囲の緊張感が一気に解ける。
「まあ。さすがアシュクロフト女公爵様ね」
「どうなることかと思ったが、機嫌はそれほど悪くなさそうだから安心だな」
安堵した様子の周囲はひとまず置いておき、オフィーリアは改めてフェイビアンとペネロピに向き直る。
「もちろん、殿下とラウントリー嬢にはお詫びをするつもりはありませんので」
「っ」
「当然でしょう? 子爵の一方的な主張のみでわたくしと劇場、劇団を、獣人差別者と誹謗したのですもの。証拠とやらを楽しみにしていたのに、期待はずれでしたわね」
オフィーリアはあくまでゆったりと、余裕を持った優しい笑みをたたえていた。
「本日の観劇をお断りすることはありませんので、どうぞお楽しみください。居心地が悪いようでしたら、どなたかにチケットをお譲りくださっても構いませんわ。せっかくの素晴らしい公演に空席は悲しいですものね」
そう勧めれば、フェイビアンはぎゅっと拳を握る。
「収拾はついたようだが、アシュクロフト女公に正面からあのような態度を……あの二人、命が惜しくないのか」
周りの貴族たちの話す内容が、フェイビアンとペネロピに関するものに変わる。
「王太子殿下とは言っても、女公の怒りを買えばその座から引きずり下ろされてもおかしくないというのに」
「さすがの悪女公爵も現王のお子相手なら慎重になるしかないでしょう。殿下の恋人であるあの娘が女公に突っかかったのは初めてではないと聞きます。それでラウントリー伯爵家が未だに潰されていないのが何よりの証拠ですな」
「しかし、先ほどの態度は明らかに王太子殿下を見下していた」
「女公爵様自身が王家の血を引くお方ですものね。影響力も今の国王一家より遥かにありますし」
「彼女にとっては王族もそこらの貴族とさほど変わらんのではないか? 見逃しているのはただの気まぐれだろう。いつ粛清されるか」
「そもそも王太子殿下は第二王子ですからな。陛下の一存で立太子されたが、やはり第一王子殿下のほうが相応しいのでは――……」
針のむしろ状態のフェイビアンとペネロピは、しばし思案したのち、「今日は失礼する」と言い残して去って行った。
ペネロピは最後までオフィーリアを睨むように見ていたけれど、迫力も何もない、なんとも可愛らしいものであった。
「支配人、引換券の準備を」
「かしこまりました」
ブラッドから命じられた支配人がスタッフに指示を出すと、スタッフが準備に向かう。
「何かあった時のために用意しておくようにと以前からオフィーリア様が仰っていたので、すぐに配布できる状態ではありますが……まさか半年前から、こうなることを予想されていたのですか?」
支配人に問われたオフィーリアは、「それはさすがに買い被りすぎよ」と笑う。
オフィーリアが今日の舞台を観にきたのは、確かにピアース子爵がチケットを入手したという情報を耳にして、追い返すためだった。彼の性格ならほとぼりが冷めた頃にまた来ると予想できていたからだ。
大体は予定どおり。ただ、フェイビアンとペネロピまで参戦するような状況は、半年前の想定にはなかった。それでも結果は満足できるものであった。むしろ、あの二人にも恥をかかせることができたので僥倖だ。
「今後は遠慮せず、厄介なお客様がいればわたくしの名前を使ってね。国王が相手だろうと効くわ。ここはこのわたくしのものだもの」
「頼もしい限りです。感謝いたします、オフィーリア様」
とはいえ、基本的に揉め事の心配はないのがこのアシュト劇場だ。持ち主がオフィーリアであることは周知の事実なのだから、問題を起こすような者は滅多にいない。今回は例外中の例外である。
「本当に、さすが麗しき『悪女公爵』ですわ」
騒動が完全に終結したので、マーガレットがオフィーリアのそばに来て賞賛を贈る。
「面と向かってわたくしをそう呼ぶのは、抵抗して暴言を撒き散らすタイプの粛清対象以外だと、アシュクロフトの子たちとスティーヴンとあなただけね」
「褒め言葉ですのに、遠慮する必要がありまして?」
「いいえ? その呼び名、気に入っているもの」
ふふふ、と二人の上品な笑い声が交わった。
その後、ピアース子爵と夫人は離婚することになる。子爵は入婿で子爵位を継いだので、強制的に追い出されたらしい。子爵の不倫が原因なので、財産もほとんど与えられなかったとか。
不倫相手の獣人は子爵家の使用人で、彼女も子爵共々追い出されることになる。慰謝料という借金まで背負って。
追い出された二人は子爵、いや、元子爵の実家である男爵家に頼ろうとしたようだけれど、男爵家がアシュクロフト女公爵と揉めた厄介者を受け入れるはずもなく、平民暮らしでまともに働くこともできずに更に落ちぶれる――のは、もう少し先のこと。