逮捕された男
みすぼらしい服を着た男がのれんをくぐり、格子ドアを開けて店の中に入ってきた。
「らっしゃい!」
モール氏は、カウンターの中から威勢よく男を迎えた。
「何人様で!」
男は、手の甲をモール氏の方に向け、「二人です」とピースの形をつくって答えた。
「あいよ! お二人様ね!」
モール氏は威勢よく言った。
店の中は、比較的狭かった。十人ほど座ったら満席になるような小さな建物だったが、今日はまだ午前だからか、中には誰もいなかった。
男は、カウンター席の真ん中辺りへと進んだ。男が着席すると、目の前に広がる光景を見て一瞬で目を輝かせた。ガラス張りの陳列棚の中身は、男にとって、まるで宝石箱のように見えた。
「どうだい、お客さん。今日は特にいいネタが揃ってますぜ」
男は、はやる気持ちを抑え、あくまで紳士的な態度でこう答えた。
「ほう、いいネタばかりですな。実に素晴らしい。さすがは老舗店だ。これなんかは新鮮と高級の代名詞とも呼べる品ですな」
男は、脂たっぷりの最上級のトロを指差してそう言った。
「おっ。いきなりそっちの方に目をつけちゃいましたか。いやあ、まいっちゃったね。これね、競り落とすのにかなり苦労したんですよ。なんたって今日一番の大物。本日の最高級品なんですから」
「ほほう、それは凄いですな。通は青物から……と言いますが、私はいつも、敢えて最上級のものから食べることにしているんですよ」
そう言うと男は、もう一度最上級のネタを指差して「これ、炙りで握って頂けますか」とモール氏に注文した。
「お客さん、その身なりでいきなりこれを……。しかも炙りでだなんて……」
言い終えた後で不適切な発言があったことに気づいたのか、モール氏は慌てた表情をして、おっと失礼と付け加えた。
しかし、男は気にも止めずに「さあさあ、お願いしますよ」とモール氏を促した。
「あいよっ! トロ炙り一丁!」
それからトロの炙りが一貫握られ、上品な板に載せられて男の前に差し出された。
男は、黙ってそれを醤油皿に浸け、一口でたいらげた。
「お客さん、それを一口で食べちまうなんてかなりの大物だね。いや、そうに違いない」
横目で見ていたモール氏は、男の目の前に移動して皮肉を言った。
モール氏は、いかにも貧乏そうな、みすぼらしい男がそのようなことをするのが気に食わなかった。だが、男はやはり気にも留めない表情で「いや、実に素晴らしい。最高ですよ。次は炙りではなく、そのまま生で二貫お願いします」と言った。
その時、ふとモール氏の脳裏に、食い逃げの四文字が過った。
「お客さん、アンタこんな高価なものを立て続けに頼んで大丈夫なのかい?」
男は、その言葉の真意を汲み取ったのか、胸の内ポケットから財布を取り出して中身を見せつけた。
「お金ならきちんとあります。安心して下さい」
財布の中身は、百万円はあろうかというお札がぎっしり詰め込まれていた。
それを見たモール氏はすっかり安心した。
「いや、変なこと言って悪かったよお客さん。最近ね、この辺りで食い逃げが横行してるって聞くもんでさ、つい……」
「お気になさらないで下さい。私がこんな身なりなものですから、勘違いされるのは当然のことです。それに、こういうことは慣れてますから」
「そ、そうかい? でもお客さん、よく見ると貴族のような顔立ちをしてるよ。アンタ男前だ。うん」
大金を目の当たりにしたもので、その作用としてモール氏は急に男の機嫌を取り始めた。
男は手を横に振って、「お世辞はやめて下さいよ」と言った後、「それより次、この上物もらえますか」とまたもや高級ネタを注文した。
無論、モール氏は威勢よく、あいよっ! と答えて機嫌よく腕を振るった。
その後も、男は上物の高価なネタばかりを注文し続け、いつの間にか十数万円分ものお寿司をたいらげていた。
「ところでお客さん、相方の方はまだ来ねえんですかい」
「なかなか来ませんね。ちょっと連絡を取ってみます。失礼」
男が携帯電話を取り出そうとした瞬間、携帯電話に着信が入った。男はさっと電話を取り、小声で話し始めた。
「はいもしもし。ああ、もうそこまで来ているのか。了解した」
そう話して、男は電話を切り、携帯電話をズボンのポケットにしまった。
「で、どうだったんだい?」
「相方はもうそこまで来ているそうなんですが、道に迷ってしまったようで……。ちょっと、店の前に立ってきます」
「おうよ、行ってやんな」
モール氏は、完全に男を信用していた。
男は席を立ち、外に出ていった。だが、それから数分経っても男は戻ってこない。もしや、やはり食い逃げだったのかとモール氏が考えていると、ガラッと扉が開いた。
そこには先ほどの男が、相方の中年男性を引き連れて立っていた。
「お客さん、遅いですよ。てっきり食い逃げかと――」
男はモール氏の話を遮り、身分証明書のようなものを取り出して、モール氏に見せつけた。
「我々は密輸取締局のものだ。貴様を地球人肉取締法違反の罪で逮捕する」
これを聞いたモール氏は「えっ」と呟き、身に覚えがないといった風に「ちょっと待ってくださいよ、お客さん。一体私が、いつそんなことをやったと言うんだい。ええ?」と慌てた。
「では、さっき私に度々提供していたトロは、何だというのかね?」
「地球人の刺身だけどよ……」
男の隣にいた相方が、「こいつ、吐きやがったぜ」と呟くように言った。男は頷いて、「ああ、録音もした。これで証拠を集める手間も省けたな」とニヤついた。
モール氏は何がいけないのかイマイチわからなかった。
「地球人の肉がダメだって言うのかい? いつからそんなことになったのか説明してもらおうか」
男は、胸ポケットから何かの紙を取り出し、それをモール氏に見せつけた。
「昨日から、同盟関係を結ぶことになった地球人の肉は輸入禁止になったのだ。なので貴様を逮捕する」
「そんなこと、聞いたこともないんだけどよ。新聞やニュースでも報道されていないことを突然言われてもなあ」
男の相方は、とぼけんなと言いたげな顔でこう言い放った。
「昨日の夕刊に書いてあったはずだぞ。それを見逃した貴様が悪い。署に来てもらおうか」
「けっ。どこにでも連れて行きやがれってんだ。身の潔白を証明した暁には、てめぇらを訴えてやらあ」
かくして、モール氏は手錠とアイマスクをかけられ、車両へと乗せられた。
「このアイマスクはなんでえ」
「それは最近定められた法令により、被疑者はアイマスクをかけて連行されることになったのだ」
「へーえ。そいつも知らなかったよ」
モール氏は苦笑いした。
やがてエンジンがかけられ、車は発進した。
車が動き出してから一時間あまりが経った頃、モール氏は不審に思った。もうとっくに警察署は過ぎているはずだと。
「おい、まだ着かねえのか」
モール氏は叫んだ。が、どういうわけか返事がない。こいつはおかしいと思ったモール氏は、手錠をかけられた手でアイマスクをめくり上げ、絶句した。
「こいつはどういうことだ。誰も乗ってねえじゃねえか。それにどこ走ってんだ。山の中じゃねえかよ」
しかも驚くことに、乗っている車は見事なほどにボロかった。内装から見ても廃車寸前の車だと分かるくらいに。モール氏の座っている椅子だけが、唯一まともらしかった。
ここに来て、モール氏は全てを悟った。
「あいつら、やはり偽刑事だったんだな。デタラメばかり言いやがって、俺は見事に騙されたわけだ。奴らは食い逃げを働くどころか、俺を殺して強盗も働くつもりだったのか。そのためにこんなリモコン操作だか何だかの車まで作りやがってよ、けったくその悪い。おお、崖が見えてきやがった。俺の命も後数十秒ってところか。だけどよ、あいつらもツメが甘いぜ。俺が、最近横行している食い逃げ犯を捕まえるために警察署から送られた、超高性能囮捜査特化ロボットだということも知らずに……。あいつらの顔写真と動画音声はしっかりと記録しておいた。後はこのデータを警察署に送信すれば、あいつらの人生もおしまいだ」