3章 第1話『聖女の仮面と記憶の片鱗』
王妃エリザは、美しかった。
その一歩、その所作、その言葉のすべてに、気品が漂っていた。
誰に対しても乱れず、優しく、凛として──
まるで王宮に咲く、冬の白薔薇。
(……だが、冷たい)
「用件は、三行以内でお願いします。宰相殿」
その声に、拒絶の気配すら滲ませず、ただ事務的な静けさがあった。
レオニスは彼女の前に立ち、わずかに目を細める。
「王政の調整に伴い、第一王妃殿にご報告とご相談が。
と申しますのは形式でして……、本音を言えば、少しお話をしてみたかったのです」
エリザの眉が、わずかに動く。
「……不躾な宰相ですね。わたくしに雑談を持ちかける方は初めてです」
「光栄です。ならば、最初の例外にでもなれれば」
会話は静かに、しかし確実に弾かれていく。
壁。冷たく、滑らかな、高潔の仮面。
レオニスは観察する。
言葉の間、視線の微妙な揺れ。呼吸のテンポ。指先の硬さ。
(……やはり、他の二人とは違う。スキルが効かない)
彼女には“感情の鍵”がかかっている。快楽に染まる隙間が、まだ見えない。
だが──その心の奥に、微かな“懐かしさ”があった。
「……一つ、お尋ねしても?」
「何でしょう」
「あなた、以前……その指の癖、使われていませんでしたか?」
「……癖?」
「ええ。話すとき、右の人差し指を少しだけ擦る。無意識でしょうが……それを、以前見た気がするのです」
エリザの言葉は、本人すら不思議そうだった。
(……来たな。無意識の記憶の揺らぎ)
それは、レオニスが前世“まさき”だった頃──
彼女と過ごした日々、よく指を擦りながら話していた癖だった。
意図的に、それを再現したのだ。
「気のせいでしょう。私は、記憶に残るような人間ではありませんよ」
「……そうですね。けれど、なぜでしょう……懐かしい夢を見たような気がするのです」
レオニスはそこで、あえて何も言わず、深く一礼した。
「また参ります。ご機嫌よう、王妃殿下」
「……ええ。ご苦労様でした、宰相殿」
その瞳の奥。
冷たく張り詰めた仮面の奥に、一筋の戸惑いが揺れていた。
***
その夜。
エリザは眠りの中、夢を見ていた。
雪の積もる庭園。
夜の帳の中で、あたたかな腕に抱きしめられる感触。
背中を撫でる指。囁かれる声。
「俺は、お前が幸せになれるならそれでいいと思ってた」
「……いや。わたくしが、欲しかったのは──貴方だけだったのに……」
声が震える。頬に触れる掌が懐かしい。
その顔は──
「……まさき……?」
名前を呼んだ瞬間、彼の姿が、レオニスと重なってゆく。
ゆっくりと、唇が重なる。
身体の奥が、蕩けるように痺れた。
快楽というには優しく、
愛というには切なく。
(ああ、あのときの夜に……似ている)
夢の中で、かつての彼女は、男の腕に包まれていた。
誰にも見せなかった涙を、そっと預けながら──
***
翌朝。
鏡に映る自分の頬が、わずかに赤い。
唇には、なぜか微かな痺れが残っていた。
「……おかしいわ。こんな夢、なぜ……」
その日の廊下。
エリザは無意識に、遠くに立つ黒髪の青年──レオニスの姿を目で追っていた。
理由も、意味も、わからない。
けれど確かに、心の奥がざわめいた。
第一王妃攻略:進行度 10%(記憶の片鱗、夢の快楽)
──聖女の仮面に、初めて生まれた亀裂。