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始まり

1歳11ヶ月。俺は、ますます“この世界での楽な生き方”に磨きをかけ始めていた。毎朝、ミリアが着替えを手伝いに来るときも、赤子らしい無力感を装いながら、ほんとは自分でできることも「うー、あー」と甘えてやってもらう。「坊ちゃま、今日は足をじっとしていてくださいませ~」なんて、優しく言われるのが心地よかった。



本当は、前世ならこの歳にはもう“自分のことは自分で”なんて言われていた。だけど、この世界は違う。俺が“幼すぎて何もできないかわいそうな子”という立ち位置にいる限り、誰も難しいことは期待しないし、ちょっとでも何かできれば「すごい」と褒められる。



だから、俺は必要以上に“できないフリ”を徹底した。靴下も、甘えた声で「ミリア、てつだって」と言えばすぐに履かせてくれるし、ごはんも「ミリア、たべさせて」なんて言えば全部してくれる。そのくせ、妹のリリアが頑張ってオムツを自分で替えようとしてるのを見ると、ちょっとだけ優越感を覚えたりした。


そして、そんなズルさを誰にも見破られない――どころか、「坊ちゃまは人の助けを素直に借りられる、ええ子や!」なんてミリアが本気で褒めてくる始末。こういう“評価”も、俺のようなカスにとっては都合のいい環境だ。



リリアは正直すぎて、なんでも自分一人でやろうとする。「ライネもやろう」「だいじょぶ、できる」と張り合ってくるけど、俺は適度にサボり、失敗したフリをして“大人の好意”を受け取ることで、この家で一番ラクなポジションを守っていた。



ただ、そんな自分を時々、ものすごく情けなく感じる時もある。ミリアや母さん――セレナの優しさを“上手に利用している”って自覚が、胸の奥でずっと重たくのしかかる。なのに、やめられない。


だって、前世の俺は、がむしゃらに頑張って疲れ果てて、誰にも甘えられずに一人で潰れた。今は違う。弱いフリをすれば、誰かが手を差し伸べてくれる。それに慣れてしまえば、もう手放せない。特に母さんの柔らかい手で頭を撫でられながら「偉いわね」と言われるたび、変な安心感と同時に、妙な優越感までセットでやってくる。



それでも、リリアやミリアと庭で追いかけっこをするときだけは、思いきり笑って走った。リリアがコケたら、誰よりも先に「だいじょうぶ?」と手を差し伸べてやる。そこだけは曲げない決まりごとみたいなものだった。ズルはする。でも嫌われるのは嫌だ。これが、俺の生き残り戦略だ。



そうやって小さいカスな自分に苦笑しながらも、庭で魔法を練習する時間だけは、誰にもバレずに努力した。光の球が上手く作れても「できなーい」と甘えて見せる。でも目の奥の方では、母さんやミリアが「この子はきっと大きな力を持っている」と信じているのを、半分わざと裏切るような心地良さまで感じてしまうのだった。



1年12ヶ月、ずる賢いちびっこ貴族の俺は、今日も甘え上手な“賢い子”の仮面を被って日々をやり過ごしている。

でも、時々ふと、大人たちの会話の端々で、俺とリリア――特に俺、について“何か大きなこと”を期待しているような響きを感じ取ることがあった。

「……アーク様の血は、やはり強いのでしょうかね」

「ええ、それに……光の御力も……」

意味は分からないが、家の中の空気が、ごくたまにピリッと張り詰める瞬間――俺の知らない“何か大きな役割”が自分に伸びてきている気配。けれど俺は、あえてそれを知ろうとしなかった。だって、面倒ごとは全部、大人たちに任せたい。俺は自分の思うまま、できるだけ楽に、できるだけ人に好かれて生きていたい。ただ、それだけなんだ。


2歳を迎える頃には、俺の“賢しい生存術”はさらに洗練されていた。大人たちが集まるサロンの端で、俺はわざと無邪気に椅子によじ登ろうとして転げ落ち、すぐに泣き真似をする。そうすれば十中八九、誰かが飛んできて抱き上げてくれるし、「坊ちゃま、危ないですわ」「さすがにご自身でやろうという意欲が素晴らしい」とか、まったく逆の意味で持ち上げられる。



ミリアの差し出すミルクをわざと溢して、さも不器用な幼児らしく「あー…」と困った顔で見上げると、「あれまぁ、坊ちゃま、お手伝いしましょか?」と彼女がすかさず駆け寄る。「ごめん」と下を向いて小さく呟けば、それだけで不思議なくらい優しくしてもらえた。



自分でも、この“うまいこと生きてる感”が小気味よく思える瞬間がある。前世では傷つきたくなかったがために人と距離を置き、ついには何者にもなれなかった。“気づかれずにラクをする”――これが俺の身に染みついた習性だ。しかし、時々ふと、ミリアが俺の顔をまじまじと覗き込む瞬間がある。


「坊ちゃま、何考えてますの? 自分、ほんま天使みたいな顔して…」


その度に、心の奥底がピクリとする。俺の意図を少しは見透かしているんじゃないか――そんな気配がするのだ。でも、エルフのメイド、ミリアは笑って撫でてくれるばかりだ。

妹のリリアは、相変わらず正面突破タイプだ。何でも自分で片付けようとしては失敗して泣き、すぐに立ち直って俺の所に駆けてくる。「ライネ、あーそぼ!」リリアは俺が“弱いフリ”を決め込んでいるのを、子どもなりに全く疑わない。だが二人で遊んでいると、ときどき妙に鋭い顔をして「ライネ、おとなっぽい」とぽつんと言うこともあって、ドキリとした。


大人たちの会話は、相変わらず俺の理解できない単語が混じる。「御印」「先代」「契約」「未来」……。俺にはわからないが、時折アークの名と並んで俺の名前が語られている気がして、何となく背中が冷たくなる。“普通の子ども”として甘えているフリをしながら、妙な緊張感だけが体のどこかに居座り続けていた。



それでも俺は、地味な自己防衛を続ける。何か新しいことが始まりそうな空気――特別な学びや訓練の提案が出たときは、絶妙なタイミングで転び、「痛い」と大袈裟に泣いてみせる。大人たちは「まだ早いわね」「焦らずゆっくり育てましょう」と納得して、俺から大事な責任や期待を遠ざけてくれる。まるで一流の詐欺師だ。

本当は知っている。俺の両手には、母さん譲りの強い魔力の気配が宿り、他の子ども以上に光を操れることも。けれど、それを誇示すれば、この「ぬるま湯」は終わるかもしれない。リリアと談笑しながら、俺は今日も「できないフリ」と「少しの罪悪感」、そして奇妙な居心地のよさの中で、静かに時間をやり過ごしていくのだった。


2歳2ヶ月。冬の終わり。


朝、目覚めると微かな甘い香りが部屋に満ちている。麻のカーテン越しに射す陽の光が、煉瓦の壁を淡い橙色に染めていた。まだ自分の体は小さくて、両手を思いきり伸ばしてみても、ベッドの端には届かない。そんな朝には、必ずミリアが最初にやってくる。


「坊ちゃま、おはようございます。朝ですよ」


俺は眠そうな顔で「うー」とだけ言う。手を伸ばせば、ミリアがそっと抱き起こしてくれる。ミリアはこのとき、必ず体温の高い掌で俺の背中を優しく撫でる。


――このタイミングで自分から「もう自分で着替える」なんて言うヤツはバカだ。


ミリアに着替えさせてもらうほうが断然、楽。彼女はエルフで人間よりも手先がずっと器用だから、ひとつも無駄なく、あっという間にシャツを着せてくれる。やや濃い緑髪を耳の後ろで結んで、鏡越しに微笑む顔は、朝日を受けるとますます異世界感が増す。


俺はわざと片方の腕だけ動かさずに力を抜く。「あー」と半端な声を出し、困った顔をしてミリアを見上げると、「坊ちゃまはお寝坊やなあ」と呆れ顔で笑って、袖に腕を通してくれる。俺はただ、ぼんやり頷いて見せるのだ。


こんなふうに、意図的に“幼さ”を演出するようになったのは、ごく自然な成り行きだった。前世で優等生に徹し、どこかで張りつめていた自分には想像もできない「甘ったれの天国」。


例えば朝食だって――


「ライネ、ごはんですよ。口、あーん」


セレナ母さんの透きとおる指先。匙に盛られた蜂蜜パン。俺はすぐ「自分でやる」と言わない。リリアに「ライネだけずるい」ってムスッとされても、その夜にはちゃんと一人で食べてみせて「ほら、ぼくもできる」とドヤ顔して家族の笑いを誘う。


こんなふうに、家の誰よりも長く赤ん坊の特権を握りしめて生きていた。嘘はつかない。ただ、必要な弱さや無能さを演出する。


もちろん、何か新しいことが要求されそうになった時、「こわい」「むずかしい」と一歩下がるのも忘れない。


ある日、ミリアが「そろそろお手洗いも、自分で行きましょうか?」と言い出した時があった。俺は、ぱっと顔色を変えてうつむき、ほんのわずかに唇を震わせる。


「こわい……」


するとミリアは、慌てて「坊ちゃま、無理せんでええんです」と、すぐに諦めてくれる。


俺は“やらない”ことで失うものより、“やらなくて済む安心”を本能的に優先した。


だけど、決して母を悲しませたりはしない。母さんの前では、もう一段階、いい子の仮面を被ってみせる。母さんが「あなたは何でもできるんだから」と肩を叩いてくれた時は、ほんの少しだけ、“成長の成果”を見せる。杖を握った瞬間だけ、真面目な顔をしてみせたりするのだ。


それだけで母さんの目の奥がときどき潤む。“期待されてる。でも多分、俺は期待に応えるつもりはない――今はまだ、ぬるい温度の心地よさに溺れていたい”。


一方で妹・リリアは、俺のことを不思議そうに眺める。


「リリア、やる。ライネも、いっしょにやる?」


彼女はいつも、できないことも自分で抱え込む真っ直ぐな妹だ。俺は首をかしげて、おどけてみせる。「リリアのほうが、はやいもん」と言って、勝ちを譲る。リリアは素直に喜んで「やったー!」と笑う。その純粋さが、時に羨ましくも、少しバカにも見えた。だが、ハグするとあったかくて、一瞬だけ本気で“守ってやらないとな”と思う。


こんな生活の合間にも、大人たちのヒソヒソ声は絶えない。ミリアが洗濯物を干しながら、使用人頭がぽつりと。


「お坊ちゃまは、ようさん世渡り上手やなあ。ほんに先代の小さい時とよう似とる」


別のメイドが、「やっぱりアーク様の血筋は違いますね」と、どこか遠巻きな目で俺を見ていた。


俺はその言葉を聞くたび、軽く受け流すふりをしつつも、腹の底がじわじわ冷えるのを感じていた。自分の“要領の良さ”が、この家の血なのだと――そう思われることには、不可思議な居心地の悪さを覚える。しかし、何も知らない“仮面の幼児”でいる方が、圧倒的に安全だ。何も疑われず、特別視されない範囲で甘やかされていたい。そのためには、今のままの「少しだけ抜けていて、でも褒められやすい良い子」を保つ必要があると、どこか計算していた。


だが、自己保身ばかりに頼る日々にも、ちょっとした綻びは現れてくる。


ある日のことだ。サロンで大人たちの集まりがあり、大きな花瓶に飾られた花の香りが部屋中を満たしていた。四方から伸びる日差しの帯の中を、妹のリリアがよちよち走って転んだ。涙目のリリアが俺を見上げる。正直、面倒な空気には関わりたくない。けれど――

「ライネ、いたい……」

俺は内心ため息をつきながらも、咄嗟に「リリア、だいじょうぶ?」と歩み寄る。わざと大きな声で大人たちの注意を引き、リリアの膝をそっと撫でる。「ミリア、リリアいたいー」と少しだけ大袈裟に声を張り上げる。するとすぐ、ミリアがやってきて「まぁまぁ、坊ちゃま、お優しい!」と、なぜか俺が妹を気遣った“素晴らしい兄”として絶賛される羽目になる。


本当は俺だって、突き放してもよかった。でも、“優しさアピール”は人当たりをよくするし、何より周囲が手厚く世話を焼いてくれる。損はない。大人たちが俺に微笑む度、「良い子ね」「将来有望だわ」なんて褒め言葉が積み重なっていく。


俺は、世渡りが身についてしまった二歳児のフリをしながら、この仕組まれた舞台で“楽な役得”を謳歌していた。妹のリリアと遊ぶ時間は、時おり競争ごっこへと発展した。でも、俺は本気を出しすぎない。わざと転び、“リリアの勝ち”にすることで妹も大喜びだし、大人も「お優しい坊ちゃま」と口を揃える。


魔法の練習だって、同じだ。


セレナ母さんの前では、まだ不器用なフリをして“できない、難しい”と言い張る。だが一人きりのときは、杖の先に指を添えて光球を生み出し、小さな蝶のような形に変化させる技を密かに磨いている。時には、花びらに沿って光を踊らせては、リリアにだけこっそり見せたりもした。


リリアが嬉しそうに声を上げるのを聞いて、「まあ、たまにはサービスしてやんなきゃな」と心の中で呟く。妹の素直な笑顔に和まされつつも、常に心のどこかに「本気の自分を見せるのはまだ早い」という慎重さと、面倒ごとを避ける用心深さの影が宿っていた。


ときどき屋敷に来る貴族子息たちにも、俺は「やや引っ込み思案で、でも大人の目の前だけ意外と度胸がある子」を演じた。彼らと争わない、突飛なことはしない、でも「坊ちゃま意外としっかりしてる…?」と思わせる一言を必ず残す。その態度は、大人たちから「やはり只者ではありませんね」と妙に感心されることになる。


こうして、俺の“ずる賢い演技”は、誰にも見破られぬまま、「将来は一族の柱」と期待される評価へと変わっていく。それが息苦しくもあり、悪くない気分でもあった。


だが、ふとした夜――母さんがリリアを寝かしつけている部屋の扉越しに、ミリアと話していたのが聞こえた。


「ライネ坊ちゃまが、あんなに甘えんぼうとはしらなかったですわ、ほんまに」などと言っていた。


二歳と三ヶ月を迎えた頃、俺の自己保身スキルはますます研ぎ澄まされつつ、その裏で魔法の練習にも本腰を入れ始めていた。実際、周囲の大人たちは「まだ子どもだから」と俺の手に杖を握らせるだけで満足している感じだったので、その油断に付け込むのは簡単だった。


ミリアが庭の見回りから戻るちょっとの隙間、母さんとリリアが午睡している昼下がり……俺は誰にも気づかれないよう、こっそり杖を手に温室の片隅に忍び込んだ。本当は「魔法の練習をしたい」と正直に言っても許されたかもしれない。でも今、万が一その片鱗を大人たちに見られたら、たぶん「凄い子」「訓練よ!」と期待がエスカレートするに違いない。そんな面倒には付き合いたくない。


杖を握って、そっと目を閉じる。心臓の奥で、光がふわっと舞い上がるような感覚が生まれる。呼吸を整え、脳裏に前世で見た光魔法やエフェクトを思い描く。


小さな球体――いや、もっと、蝶の形を作るイメージ。指先に力を集中すると、杖の先端が淡く輝き始める。それだけで、妙な高揚感が胸を満たしていく。前世では、失敗するのが怖くて何も挑戦できなかった。でも…今の俺には時間がある。


目を凝らして見ると、ふわりとした薄黄色の光が蝶になった。庭のラベンダーの花すれすれを漂い、やがてゆっくり消える。


——やった、成功だ。


「こういう時だけは、ちょっと真面目になる自分がいるんだよな……」


そんな呟きを誰にも聞かせないのが、今の俺流だ。もちろん、家の者には「難しい、わかんない、まだできないよ」と困った顔しか見せない。自己保身と本気の隠し練習。その二重生活のスリルに、どこかクセになりつつあった。


そんな日々の中、母さんの口から「そろそろ魔法学校の話もしないといけないかしら」なんてワードが漏れ聞こえて、ヒヤリとした。俺はしばらくのあいだ、ますます“大人に甘え、頼りきる幼児”を繕うことに忙しくなった。


二歳半を過ぎた頃には、俺の隠れた魔法の腕前は、もはや子どもの遊びの域をゆうに超えていた。魔法の蝶を複数同時につくり、花壇の周囲を飛ばせたり、陽射しの木漏れ日に光の粒を重ねて、夜には小さな星のように瞬かせたり。ときには、ミリアが水やりをしている隙に、水面に淡い光を滑らせて、「妖精や!」とリリアが歓声を上げる――それだけで十分楽しかった。


だが表向き、俺はあくまで「よく転ぶ、甘えん坊で好奇心旺盛な子ども」に徹している。


大人たちは、俺が一番端っこの庭で独りごとをつぶやきながら杖を振っているのを見て、「ライネ坊ちゃま、精が出てえらいねぇ」とほほえましく受け止めている。まさか、その杖の一振りで小動物くらいなら追い払える光の波動を出せるなんて、誰も気づかない。



夜、誰もいない時間、寝室のカーテンの端にうずくまり、そっと指先に魔力を集めて掌に球を作る。小さく集中し、回転させてみたり、色を混ぜたりする。手の中で光がパチパチ弾け、「虹色の魔法玉」まで作れるようになった。



ある晩、母さんがたまたま寝言まじりに部屋を覗き、小さな光を見て「夢かしら?」と笑顔で去った。その表情に妙な罪悪感を覚えながら、俺は“本当の自分の手札”を絶対誰にも晒すものか、とますます保身本能に火がつくのだった。


一方、リリアは炎の魔法がどんどん上達していた。こっそり二人だけの秘密の時間に、焚き火みたいな小さな炎を手のひらに灯し、「ライネ、見て!」と、誇らしげに火花を散らす。「すげぇじゃん」と褒めてやると、リリアは満面の笑みで「でも、ライネの光、リリアすき」と言い返してくる。



正直、単純で真っ直ぐな妹の顔を見ると、発奮するより、ちょっとだけ胸がチクっとした。「俺もまだまだ隠し技あるしな」と思いつつも、リリアには“本気の十分の一”くらいしか見せない。「すごいー!」と目を輝かせてくれるその純粋な信頼――どうしてか、ちっとも裏切る気にはなれないのだ。



そんなある日、ミリアが何気なくこんなことを言った。


「坊ちゃまは、不思議なくらい魔法覚えるの早いですなぁ……昔の、偉い魔法使いさんみたいや」


俺は受け流すように笑った。「リリアの炎もすごいからだよ」と軽くかわすが、ミリアの横顔はやけに真剣で、「……大きな力いうんは、知らんまに人の人生を決めてしまうこともあるさかい。坊ちゃまは、ほんま賢い子……やから、変な大人には見せんでええんですよ」と、ぽつりと言った。


俺はその言葉に、小さく肩をすくめた。自分の力を隠し続けること――それだけは、誰よりも上手くやってみせる。少しの後ろめたさと、ほんの少しの誇らしさ。三歳の誕生日が近づくにつれ、俺の魔法の中の“本物”は、ますます誰にも悟られない深い場所に積み上がっていった。


夜、ベッドに横たわりながら、俺はふいに思う。もしかしたら自分は、この家の中でも特別に“大きな何か”を背負っているのかもしれない、と。でも、知らないふりがいちばん楽だ。明日もきっと、幼いふりして甘える。ひそかに、小さな魔法の進化を誰にも気付かせず、手の中で転がしながら。



三歳になる日が、もうそこまで来ている。


光の球、蝶、星屑のような魔法――だけど、俺がこっそり練習している魔法には、まだ特別な名前をつけていなかった。


リリアは自分の炎を「ぽっぽ火」とか「ちび火花」と呼んで、本気で楽しそうにしている。俺もたまに名前を考えようとするけれど、浮かんだアイディアはどれも「いまいちピンと来ない」と思ってしまう。


「……まあ、どうせ大人にも見せてないし、今は“光のやつ”とかでいいか」


他人(ひと)には何でももっともらしく見せながら、本当のところは自分だけの秘密――まだ名前すらない、俺だけの光の魔法。いつかぴたりと来る名前を、自分の中でふっと思いつくその日まで、しばらく保留にしておくことにした。


きっと、三歳になったら……少しは呼びたくなる何かが現れるかもしれない。今はただ、掌に灯る淡い光を、そっと眺めておくことにする。


こっそり手のひらで練習している魔法は、光を球や蝶に変えるだけじゃない。最近は星の形にもできるようになってきた。薄暗い寝室の窓辺、杖の先からふわっと放たれた小さな光が、五芒星や六芒星の輪郭を描きながら宙を漂う。


昼間は庭の草の上に、夜にはベッドの天蓋に、きらきらと星屑が流れるみたいに光を並べてみる。何度もイメージを重ねて練習しているうちに、星が尾を引いて舞い上がる動きまで再現できるようになった。


リリアが「きらきらー!」と手を叩いて喜ぶたび、俺はちょっとだけいい気になってしまう。でも、名前はまだ付けていない。


星も蝶も、光も――全部、自分だけの秘密。まだ“呼び名”を与えないまま、俺は魔法に次々と新しい形と遊び心を覚えさせていく。そのうち一つくらい、本物の星みたいに夜空まで飛ばしてみせたくなる日が来るかもしれない。


二歳十ヶ月になった頃、俺の魔法はさらに密かに進化していた。星の光の群れを夜のベッドの天井に映し出し、三つ、四つ……と動きを複雑にして連ねていく。ときには星屑を指先でまとめて、小さな流星のように走らせる。


妹のリリアは、それを見ると目を丸くして「ライネ、星つかまえた!」と笑いながら手を伸ばす。彼女が無邪気に星の粒を追いかけているあいだ、俺はひとりで得意げな気分を味わう。大人にはまだ“偶然みたいに”しか見せない。たまに母さんが部屋に入ってきて「まあ、きれいね」と微笑むけど、俺は「なんかできちゃった」とだけ答えておく。本当は、心の中で何十回もイメージして練習した成果なんだけど。


最近は、星形の光たちを合体させて“文字”や“記号”に並べてみる遊びも増えた。小さな☆の列で、リリアのイニシャルみたいな模様をこっそり作ってみせたり、窓辺に流すと夏の夜空みたいにきらきら光るのが嬉しい。


でも、ミリアには勘付かれている気配がある。俺が天井をぼんやり見つめていると、ミリアが布団を直しながら小さく囁いた。


「坊ちゃま、自分だけの魔法、じょうずやなあ。でもな、ほんまに大事な時は、誰にも見せたり、知らしめたりしたらあかんよ」


俺は「うーん」と笑ってごまかしてみせる。ミリアはそれ以上深く踏み込んでこない。彼女のやさしい距離感に、ほっとしつつもどこか背筋がぞくりとした。


屋敷では、最近しきりに「三歳のお披露目」、「格式ばった集まり」、「アーク様直伝の儀」などといった大人の話題が飛び交うようになってきた。


なにかが――大きな変化が近づいている。それを、誰にも顔に出さないまま、俺はただ自分の星の魔法に熱中するふりを続けていた。


冬が終わり、三歳の誕生日が間近に迫る季節となった。館の空気には、年長の使用人たちでさえぴりりとした緊張が宿っている。でも俺は、ひたすら「普通の子ども」を演じるのに忙しかった。


星の魔法はさらに洗練され、今では手のひらの上で小さな銀色の星座を並べて軌道まで描けるほど。その一方で、食卓では「まだスプーン下手なんだぁ」と泣き真似を交え、ミリアや母さんに世話を焼かせる。


ある夜、寝苦しさで目覚めた俺は、不意に窓から淡い月明かりが差し込んでいることに気づいた。そっと起き上がって、杖を握りしめる。部屋のなかで、ごく控えめに星の粒を光らせていると、ふいに扉の外から人の気配がした。


ミリアが静かに入ってくる。彼女は俺にそっと微笑みかけて、肩越しに呟いた。


「明日な、坊ちゃまにとって、大切な日になるはずや。……怖い人や、変な期待する大人は全部、うちらが守るさかい」

その声は、妙に胸に沁みた。ミリアの考えぬいたようなまなざしに、ふと、この家のなかに隠された“期待”の重さを思う。


屋敷中、大人たちの会話には近頃いつも「覚醒」や「血脈」「勇者の証」「運命」といった単語が混じっている。父・アークの名と、俺の名前が同じ文脈で囁かれる時には、まるで自分が“何か大きな役割”を背負わされる予感が色濃く漂う。


俺はあえて考えないようにしている。面倒なことも、期待も、全部“他人事”みたいな顔でやりすごす。それでも時折、廊下を歩く貴族らしい男たちがちらりと俺を見て、低く「やはり…勇者の息子だ」と呟く声が聞こえ、心の奥のどす黒い不安が膨れる。

そんな大人の思惑や熱が、リリアにも薄く伝わっているらしい。彼女は最近、前より少し甘えるようになり、星の魔法をねだる回数が増えた。「ライネ、いっしょがいい。こわい、おとな、やだ」

俺はリリアの頭をそっと撫でて「だいじょうぶ。お兄ちゃんがいるから」と、嘘みたいな満面の笑みで応える。けれど本当は、その“お兄ちゃん”だって、波風立てるのを必死に避けているカスなのに。

けど、星の光で部屋に銀色の軌跡を描いてやると、リリアは本当に安心した顔で眠る。俺自身も、光の星座にほんの少しだけ勇気をもらうのだった。


三歳の誕生日前夜――この家に生まれた理由も、知らず知らずに守ってきた秘密も、そのどれもが明日から本当に意味を持ち始めるのだと思い知らされながら、俺はランプの灯りの下で、もう一度小さな星を作り、「名前くらいは……明日、思いつくかな」と呟いた。



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そこは「 」だった。

虚無というのも違う、無という言葉で表すこともできぬ骸のような世界。

「 」に一人の男がいた。その世界は男にこれがお前の結末だと見せつけるように。

だってこれは、英雄なら必然的に立ちはだかるもの

英雄の終着点。




これは、英雄の物語ではない。

これは、悪役の物語ではない。

これは、いずれ何かになる男の物語。



遠く遠く離れたところ、目眩がするような遠いところ。

天頂から見捨てられた、名もなき遊星の彷徨。

ただ遠くから微かに聞こえる。

白鐘の音。

それは世界を、変える開放の音だった。



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