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果たして美しさとは本当に素敵なものなのかと

作者:

一部胸糞表現がありますので、何でも許せる方のみお願いします。

 少女は、その屋敷で冷遇されていた。

 よくある話だ。

 爵位持つ貴族の当主が市井の美しき娘を見初めて心を通わせ、その娘が己にそっくりな美しき娘を産み落としてこの世を去っていくという、ありふれた物語。

 しかし産み落とされた美しき少女は、屋敷の人間には歓迎などされるはずもなく、おそらく市井に暮らすよりも辛い目にあっているのだ。

 歓迎しているのはただ、当主の男だけなのだから。


 その屋敷には、二人の娘が暮らしていた。

 一人はベロニカ。貴族の父と貴族の母を持つ、尊き身分の可愛らしい娘。

 もう一人はアイシャ。貴族の父と平民の母を持つ、天使のような美しさを持つ娘。

 ベロニカは貴族である母からアイシャは忌むべき存在であると教えられ、母をはじめとした大人たちが皆アイシャを虐げるものだから、アイシャは“そういうもの”なのだとして育った。

 アイシャは幼いころに貴族家の当主である男に母とともに屋敷に引き取られたが、母はその屋敷の女主人に執拗ないじめをうけ、結果的には命を落としてしまった。そうして今、アイシャはその屋敷の中でうっぷんを晴らす相手として過ごすことを余儀なくされているのだった。

 ベロニカは、最初こそ屋敷の大人たちに倣ってアイシャを扱っていたが、いつからか己の意思を持ってアイシャを虐げるようになった。理由は単純だ。

 ーーーだってアイシャは、父に愛されているから。

 父である当主は、己の妻である女主人をはじめとした屋敷の人間たちがどんなにアイシャに辛く当たっても、表立ってアイシャを庇うことはなかった。だが、アイシャはアイシャの母が亡くなるか亡くならないかの頃から毎晩父の部屋に呼ばれて過ごすことが多くなった。

 その頃から、母がアイシャを見る目は今まで以上に憎悪に満ちたものになり、ベロニカもまたそんなアイシャを憎らしく思った。

 ベロニカは、父親に話しかけられることはなかった。母からは慈しまれている自覚はあるが、父は登城して帰ってきて食事をして休む、そんな日常を延々と過ごすような人で、父に何か言葉をかけられたような記憶もなければ、部屋に呼ばれることなどただの一度としてなかったのだ。

 なのにアイシャは、”妾の子”であるはずのアイシャは、毎晩父の部屋に呼ばれている。羨ましい、羨ましくてたまらなかった。父に愛されているだろうことが。あの部屋の中で、きっとアイシャは母やベロニカたちに虐げられているよりはるかに幸せな時間を過ごしているのだろうと思った。父と語らい、もしかしたら夜食を食べたりしているのではないか、と。ベロニカが欲しくてほしくてたまらない父からの愛を一身に受けているであろうアイシャが、憎くて憎くてたまらなかった。

 だからその日も、ベロニカはアイシャをいじめてうっぷんを晴らしていた。

 だって仕方がないじゃない。あなたは美しいからお父様に愛される。私は美しくないからお父様に愛されない。お父様に愛されるべきは、貴族である私のはずなのに、と。


「なんであなたみたいな妾の娘が、美しいだけの、顔だけで頭の中は空っぽな女が、どうしてお父様のお部屋に呼ばれるのかしら」


 ベロニカの言葉に、アイシャの表情がさっと曇った。しかしベロニカはそれには気づかない。

 おそらく、部屋のことを話題にしたのは初めてだったのだ。


「なんであなたみたいな子がお父様のお部屋に呼ばれて、お父様に愛されているのかしら。なんで、お母様もわたくしも、お父様に愛されないのよ!!」


 母がいつかに泣いていた。息子を産めなかったことで父に責められたらしいというのは使用人の噂話で知っていたが、母は決してそれをベロニカに当たることはなかった。それでも、母は父からもう愛されていないのだとなんとなく思った。

 だからアイシャという存在がいるのだ。アイシャの存在が母が愛されていない証拠であり、ベロニカが愛されていない証明をし続ける。

 ベロニカはアイシャを睨みつけ、次は何を言ってやろうかと考えていた。憎いと、父に愛されているお前が憎いと言ってやろうかと。だが、ほの暗い表情をしたアイシャが、うすぼんやりと口を開いた。


「部屋に、呼ばれるのを、愛されているからだと思っているんですか」


 その言葉を聞いた瞬間、ベロニカはアイシャの頬を叩いた。初めてだった。乾いた良い音がした。叩いた掌が、燃えたように熱を持った。

 だって、愛されているから部屋に呼ばれるに決まっているんだもの。私は愛されていないから部屋に呼ばれないの。見向きもされないの。お父様から視線を向けられるあなたが憎いの。なのに、あなたは愛されているわけじゃないというだなんて、なんて傲慢なの、と、思ったのだ。


「そうに決まっているじゃない!!今やお父様はあなたしかお部屋に呼ばないのに!お母様も私もお部屋に入れてもらえないのに!!なんであなただけお父様の特別なの!!」


 羨ましくてたまらなかった。父の視界に入れることが。


「お父様に愛されるべきは、大切にされるべきはわたくしのはずなのに!!お母様のはずなのに!!貴族である、わたくしたちのはずなのに!!!あなたみたいな妾の娘じゃないのよ!美しいだけの娘じゃなくて、尊き血をもつわたくしのはずなのよ!!!」


 その言葉を聞いてアイシャは振り返ったかと思えば、自分が叩かれたよりも強い力でベロニカの頬を叩いた。

 ベロニカは産まれてこの方叩かれたことなどあろうはずもなく、吹き飛ぶように壁際に飾られた花瓶に突っ込んだ。

 花瓶はがしゃんと大きな音を立てて床に落ち、飾られていた花を破片が散らばる。

 ベロニカは瞼の裏に星が散るような衝撃にしばらくその場に倒れたまま動けなかった。幸いにも破片でけがをすることはなかったが、こぼれた水が美しいドレスにしみこんで色濃くなっていく。

 何をするの、と金切り声を上げようとしたら、それより先にアイシャの声が響いた。


「何も知らないくせに、自分の世界だけ見てあたしを決めつけるな!!!」


 初めて聞いた、アイシャの大きな声だった。

 いつも母が上げるような金切声とは違う、不快に感じることのない大声だった。


「何も知らないくせに、あの部屋で一体何が起きているか!!」

「な、によ……」


 何とか絞り出せたのはそんな言葉だった。

 そこでようやく気付いたが、口の中は血の味がした。


「美しいだ?当たり前なんだよそんなこと!!美しかったせいで母さんはあの野郎に手籠めにされてあたしを産んだんだ!!美しくなけりゃ母さんはこんな屋敷に来ることもなかった、あんな男の娘を産むこともなかったんだ!!」


 アイシャは叫ぶ。それまでたまっていたすべてを吐き出すかのように、叫び続けた。


「あんたは美しいことがいいことのように言うが、美しくてよかったことなんて一つもない!!」


 そんなこと、ありえないはずだった。アイシャは屋敷中から疎まれているけれど、市井にいるときには食べられないようなものが食べられるし、切れないような上等な布で作られた服が着れる。それは美しくて父の目に留まる母親を持っているからで、その母親そっくりの美しい顔をしているからのはずだった。


「あんたも奥様も、みんなみんなあたしを責めるけど、一番はあんたの父親だろうが!あんたの父親が母さんを見初めてあたしを産ませたんだ!!母さんは頼んでなんかいないのに!!それで娘がいるって知ったら引き取って、母さんの美しさが出産で陰ったからって屋敷中からいじめられてても見て見ぬふりで!!」


 アイシャは涙こそ流していなかったが、おそらくは泣いていた。

 今は亡き母は、市井でアイシャと暮らしているときには寝ることができなかったようなふかふかのベッドに横たわって、市井にいる時とは比べ物にならないほどやせ細って死んでいった。

 アイシャにとっては、ふかふかのベッドなんていらなかった。ただふくよかで美しい母がいれば、硬いベッドでも幸せだったのだ。アイシャにとっての幸せとはそういうものだった。

 おいしいものを食べることでも、やわらかい寝具で寝ることでも、上等な絹をまとうことでもなければ、夜ごと当主の部屋に呼ばれることなのであるはずもない。

 ただ母と暮らしていたかった。それだけだ。

 そしてその幸せは、母が美しかったから奪われてしまった。

 母が美しかったせいで自分が生まれた。でも母はアイシャに惜しみない愛をささげてくれた。

 母の美しさによってアイシャはこの世に生を受け、母に娘がいる幸せというものを教えたけれど、母は美しさによってその命を全うできないままに死んでいったのだ。

 だからこそ、アイシャにとって美しいということは呪いでしかない。


「美しい美しい美しい!それが何だっていうんだ!!こんな顔、こんな顔でさえなければ、あたしは、あんな苦しい目に合わなくて済んだっていうのに!!!」


 アイシャの叫びに、ベロニカは起き上がることもできないままだった。

 アイシャは倒れたベロニカに近づいて、それでもなお叫ぶ。


「それで、それで愛されてるだって!?大事にされてるだって!?それなら愛なんてもらえない方がましよ!!!大事になんてされない方がましだ!!!不幸な方が何よりいいに決まってる!!!」


 その瞬間、ベロニカはカァっと頭に血が昇るのを感じた。先ほどアイシャに叩かれた頬が、先ひどより熱を持って痛く感じた。だから咄嗟に手のひらに触れた花瓶の破片を手に取り、アイシャの顔に向かって振り切っていた。

 破片は、アイシャの命を刈り取ることは無かったものの、綺麗な弧を描いて鼻の横から頬を切り裂いた。ぱっと鮮血がはしって、そのままぶわりと溢れる。

 しまった、と思った。頭に血が昇ったからといって、顔に傷をつけてしまうなんてと。同じ女であるからこそ、その後悔に顔が歪みそうになる。

 アイシャは一瞬傷を認識してぐっと顔を歪めた。悲しそうな、苦しそうな顔だった。しかし次の瞬間にはほの暗い笑みを浮かべながらベロニカを見ていた。


 そこからは、ひどいものだった。

 駆けつけてきた使用人は濡れたベロニカに対応し、頬から鮮血を溢れさせるアイシャを手当てした。帰宅した父が烈火のごとく怒って、アイシャの頬の傷をつけたのがベロニカだと知ると、父はベロニカをひどく打った。

 それでようやくベロニカは、自分が愛されていないことだけでなく、アイシャも愛されていないことを知った。

 なぜなら父はアイシャを傷つけたことではなく、アイシャの顔を傷つけたことを怒鳴り散らしたからだ。アイシャの体調を心配するのではなく、アイシャの顔に傷が残るのかを医者に執拗に聞き続けていたからだ。

 ああ、だからアイシャは美しさを呪っていたのだ。要らないといっていたのだ。

 そうして、様々なことが変わった。

 アイシャは父の部屋に呼ばれなくなり、母はアイシャをなじらなくなり、父はベロニカに会うたびに軽蔑するような視線を浴びせた。いっそ、無視されていたほうがましだった。

 それだけではなかった。ベロニカは、嫁に出されることになったと、無感情に言われたのだ。


「どういう……ことですの、あなた」


 母も初耳だったようだった。


「言っただろう、ベロニカを嫁にやり、アイシャに入り婿を迎える。本当ならばアイシャを嫁にやる予定だったが、傷物になっては嫁にやれん」

「そんな、でも、ベロニカは私の娘なんですよ!」

「その娘がアイシャの顔に傷をつけたんだろうが!!!あの美しい顔に!!!」


 父の怒鳴り声に、母もベロニカもびくりと肩を震わせて何も言えなくなった。


「せっかく金持ちの好事家を見つけていたというのに……」

「あ、あなた、もしかして、嫁にやった後も……あの娘を……」

「うるさい!!!美しくなくなったアイシャに何の価値がある……あの母親だって子を産んだらしぼんでしまったというのに……よもや傷をつけるとは……」


 父の視線は、ベロニカに憎しみを向けていた。

 そこからどうやって部屋に戻ったのか覚えていない。いつの間にか部屋にいて、部屋にいることに気付いたら涙がぶわりと溢れた。

 どうして、お父様。たしかにアイシャの顔に傷をつけたのはわたくしが悪い。けれどもどうして憎むような目を向けるのですか。アイシャが美しくなくなったら私が愛されるのだと思っていた。そうであったらいいと。でも実際は、アイシャが愛されていないのにベロニカが愛されるわけがなかったのだ。


「お嬢様」


 いつの間にか、部屋の中にアイシャがいた。


「何を入ってきているのよ!!!」

「聞いてしまったんですよ、お嬢様が嫁に出されるって。使用人が噂してましたけど、好事家の豚のような貴族らしいですね」


 ああ、そう、そうなのだ。父はベロニカを道具として送り出す。アイシャを道具として手元に置く。それは本当は逆だったが、逆だったとしても道具であることは変わらなかった。


「わたくしは、お父様に愛されたかっただけよ。お父様に愛されたくて、だからあなたが羨ましかっただけなのよ」

「あたしも愛されてなんていないですけどね」

「あんまりよ、あんまりだわ、愛を求めたのがよくないことなの、どうして愛してくれないのお父様……どうして……」

「ああ……可哀そうな人なんですね、お嬢様は……」


 憐れむな、と言ってやりたかった。でも、アイシャの表情は本当に苦しそうで、きっと今自分の顔も同じなはずで、おそらく二人は今この瞬間、二人にしかわからない感情があったのだ。

 ベロニカがアイシャを羨んでいたように、アイシャもベロニカを羨んでいた。互いに互いを羨んで、でもその羨望の的は、互いにとってはなんでもないことなのだ。

 アイシャには父からの愛はいらなかったし、ベロニカにとって自由は当たり前だったから。


「逃げますか、お嬢様」

「……な、にを……」


 ベロニカは、かすれたような声しか出せなかった。

 かろうじて出た言葉は、奇しくもベロニカがアイシャに叩かれた後に発した言葉とそっくり同じものだった。


「あたしはね、ずっと準備してきたんです。いつか逃げ出してやるって。あの野郎のスケジュールを逐一記憶して、逃走経路を探して。逃走後はどうやって生きていくかもずっと考えてた。あの野郎が片手間に与えてきた宝石類を怪しまれない程度に小まめに換金して、貯えも作ったんです」


 そんなことをしていたのか、とベロニカは目を丸めた。本当にアイシャはこの屋敷にいるのが嫌だったんだと、そこでようやく思い知る。


「一緒に逃げますか?わかったでしょう、あんたの……いや、あたしのでもあるけど、父親とかいう存在は、誰のことも愛してないんだ。愛しているのは自分だけなんだ。自分が悦ぶこと、自分が得をすることしか考えていない」


 毎夜の部屋の中で何が起きていたのか、ベロニカはまだ知らない。だが、それがアイシャの逆鱗に触れたということは、おそらく和やかな語らいでなかったことはわかる。

 傷ついたアイシャが部屋に呼ばれなくなったのも、アイシャがあてがわれるはずだったらしい貴族の豚のような男に、顔が傷ついたからという理由だけでベロニカがあてがわれることになるのも、それによって得られる利益を逃さないためだ。

 この家はアイシャに入り婿でも迎えて存続させればいいのだ。何故ならアイシャにも自分の血は流れているから。自分にとって都合のいい親戚筋の男を迎えれば、家督の存続もできる。


「お、かあ、さまは……」

「奥様は……それでも、帰る家があるでしょう。でもお嬢様、あんたは違う。あんたはきっと逃げられない」


 そう、そうかもしれない。


「でも、あたしと逃げたらもう今のような暮らしはできません。お嬢様として色んな人に傅かれて、何でもやってもらえる生活はもうできない。自分で立って、自分で稼いでいかないといけないんだ。それでもいいなら、連れてってあげますよ」


 す、とアイシャは手を出した。それは、ベロニカの頬を叩いた時と同じ手だった。


「どうします?」


 アイシャの手を見つめ、アイシャの顔を見る。月明かりに照らされたアイシャの顔は、引き攣れた傷があるのにまるで月の女神のように端正で美しくて、自分にも半分同じ血が流れているのかということを疑いたくなる。


「わたくし、いやよ、結婚なんて、したくないわ、あんな、ひとと」


 泣いていたから、途切れ途切れにはなったけれど、ベロニカは否やを口にした。アイシャはにっと笑って、ベロニカの手を取る。


「そうじゃないでしょう、ベロニカ」


 端正な顔立ちでいたずらっぽく笑いかけられて、ベロニカはなんだか胸の奥がむずむずとくすぐったいような気持になった。


「連れてって、アイシャ。わたくし、あなたとここを逃げ出したいわ」

「うん、逃げよう、ベロニカ。逃げ出そう。こんなところにあたしたちの幸せはないんだよ」


 そうかもしれない。いや、きっとそうだ。


「頬の傷、ごめんなさいね……」

「ああ、いいんですよ。……本当ですよ。美しい顔なんていらなかったんだけど、この顔は母さんにそっくりすぎて、自分ではどうしても傷つけられなかったんだ」


 ああ、だからあの時アイシャは一瞬悲しそうな顔をしたけれど、すぐに笑みを浮かべたのかと、ベロニカは思った。アイシャには分かっていたのだ、傷がつけば父からの関心がなくなるであろうことが。


「だからこれは、ベロニカから私への贈り物なんですよ。やっとあの野郎の部屋に呼ばれなくなって、逃げ出す算段がつけられたからね。まぁ……それでベロニカが嫁に出されることになるとは思ってもみなかったんですけど」

「本当ね、わたくしはなんてことをしてしまったのかしら」

「でも、おかげでベロニカも気づいたろ?あいつは父親なんかじゃないんだよ」

「そう……そう、かも、しれない」


 愛がほしいと、アイシャを憎む気持ちはもうない。けれどずっと愛してほしかった父に対して、すぐに見切りがつけられるほどの衝撃もまたなかった。

 貴族であれば政略結婚が当たり前だ。それが、アイシャが出されるはずだった相手というのはいかんともしがたいものがあるが、だからと言って父親に見切りをつけられるほどのものでもない。


「あいつは、人間の屑だよ」


 アイシャはぼそっと言った。その言葉には、この世の深淵かと思わせるような暗さがあった。


「さてベロニカ。あの野郎はね、2日後に城で開かれるパーティーに出席するんだ。奥様も一緒にな。デビュタント前のベロニカは出席しない。あたしは妾の子だからもちろん出席しない。ということは、屋敷には使用人しかいなくなる」

「その日に決行するのね?」

「そうだよ。だからお嬢様、必要最低限のものをまとめて、すぐに持ち出せるようにしておいて。間違ってもドレスなんか持っていこうとしちゃだめだよ。なんなら服はあたしのを着たほうがいいかもしれないな。そして、宝飾品もダメだ。逃げ出した後に売ったら怪しまれる」

「じゃあ……明日、怪しまれない程度に売ってしまうわ。飽きたからって、お嫁に行く前にもっといいのを買いたいからって」

「そりゃいいや。金はなるべく細かいほうがいいんだけど、まぁそんなことも言ってられないか」


 アイシャはベロニカの手を握ったまま、ぐいと顔を近づけてくる。


「後悔しませんか?」

「わからないわ」

「正直だこと」

「だってそうでしょう。でも大丈夫よ、あなたのせいにはしないわ。私が決めたの。いったでしょう、『あなたとここを逃げ出したいの』って」

「そうでしたね」


 にかっと、アイシャが笑った。アイシャの笑顔を、ここ最近はたくさん見ている気がする。


「じゃ、2日後の夜、部屋に迎えに来ます。いいですね、もし怖気づいたらやめにしてもいいですよ」

「そうなったら、あなたのことは見逃してあげるわね」

「そうしてください」


 顔を見合わせて、二人で笑った。これで二人は、共犯になったのだ。


 2日後、当主と妻が主たる使用人を連れて城のパーティーに出かけた後、アイシャはベロニカの部屋に訪れた。

 ベロニカは持っている服の中で一番地味な服に身を包んで、その上に黒の外套を着て待っていた。その姿を見て、アイシャは笑うと、また手を差し出す。ベロニカは、今度は迷うことなくその手を取った。

 そうして二人は、屋敷から逃げ出した。アイシャは本当にしっかりと下調べをしていたようで、屋敷の塀の抜け穴から外へ出て、そのまま街を突っ切って街道へ出て、そこからは森に入り川沿いに川下を目指した。夜の森は恐ろしかったが、アイシャとベロニカは二人なのでなんとか歩き続けることができた。

 日が明けるころには港町に出ることができたので、そのままそこで隣国行の船の切符を買って船に乗り込む。女二人だから危険はあったが、同じく女だけの集団と寄り集まって、全員で警戒し続けることでなんとか危険なく隣国まで行くことができた。

 その時に一緒だった一人が、親戚が亡くなった後の空き家があるからということでしばらく貸してくれることになり、それから二人はそこで暮らしている。


「ちょっとアイシャ!ねぇ、火がつかないわ!」

「もうお嬢様じゃないんだから、身の回りのことは自分でやらないといけないんですよ、約束したでしょう」

「わ、わかってる、わよ……。でもやり方がわからないんだもの、仕方ないじゃない!」

「だから?」

「だ、だから、その……お、教えなさいよ!!」

「仕方ないですねぇ……。甘々に判定しての及第点ですからね、オジョーサマ」


 生意気、と小憎らしく思うが、その頬にある傷を見ると心臓のあたりがずんと重くなる。

 未だにベロニカはアイシャの頬の傷になれなかった。アイシャは人当たりがよく、傷があっても朗らかで町の人たちに好かれていて、軽い任されごとをしてはお金だったり野菜だったりの食べ物を得て帰ってきた。けれどベロニカはそういうことができず、それが不甲斐なくもある。


「へたくそだなぁベロニカ」


 けらけらと、アイシャは笑った。火をつけてご飯を作るのに、何度やっても包丁はなれなかった。


「う、うるさいわね!仕方ないでしょう!!」

「仕方ないですねぇ、うんうん。こんなんじゃいつになったら一人でできるのかわからないですねぇ」

「ぐっ……わ、わたくしにだってきっと、できることが、あるはずよ……」


 そんなものはないと、わかっている。

 逃げ出してこっち、ベロニカはアイシャのお荷物でしかなかった。


「じゃあ、文字を教えてください。あたしは教養ってもんを与えられなかったんで、文字が読めると多分仕事の幅が広がるんですよね」

「あ、あら、それなら、できるわ」

「よかったねベロニカ、できることがあって」

「あなたなんでそんなに意地悪な言い方しかできないのかしら!」

「からかいがいがあるからだよ!」


 憎らしい、と思った。でも、アイシャと笑いあうのは楽しかった。

 楽しかったからこそ、知りたかったことがあった。父親が本当はアイシャに何をしていたかってこと。知らないといけないような気がしていたけれど、怖くてずっと聞けなかったことだ。

 とある日の夜、ベロニカはようやくアイシャに切り出した。

 

「あなた……お父様の部屋に呼ばれて羨ましいっていった時に、中で何が起きてるか知らないくせにって言ったじゃない?」

「ああ……」

「何をしていたの?わたくしは、愛されているから、甘やかされているのだと思っていたの。わたくしはお父様と必要以上に言葉を交わすこともなかったから、毎晩お父様ときっと楽しくおしゃべりしているのだろうって」

「オジョーサマは世間知らずですねぇ……。そこは奥様も絶対に知られないようにしてたんだとしたら、奥様も立派な方です」


 自分がやられたことを棚上げて母を褒められるだなんて、ベロニカであれば考えられないことだ。


「話してもいいけど、後悔しない?」

「しないわ。聞かないといけないと、ずっと思っていたの」


 アイシャはぽりぽりと頬の傷を掻くと、すっとベロニカから視線を外して、口を開いた。


「視姦されていたんですよ」

「……は?」


 しかん、という音の並びは、意味ある単語に変換されなかった。しかしアイシャが続けたことで、それが一体どういう言葉だったのか、ベロニカでも理解できた。


「部屋に入って、あの気持ち悪い目で見られていたんです。自分で服を脱いで裸になる過程を。裸になった後、やつの目の前で満足するまで立たされるんです。舐めるように全身を見られて、そうして満足したら解放される。もう少し肉付きが良くなったら、きっとそのまま手籠にされていたんでしょう」


 視線を外したまま、アイシャは続ける。


「奥様が私に憎悪を向けていたのはそのせいですよ。奥様にとってあたしはあの男の関心を奪った売女の娘であり、またしてもあの男の関心を奪っていく存在だったから。二重の意味で憎らしかったでしょうね。一つも望んだものじゃ無かったですけど」


 その、言葉を、起きていた行為がどういうものだったかを認識した瞬間、ベロニカにとって今まで欲しくて欲しくてたまらなかった父親からの愛情というものが、触れるのも悍ましいほど腐った生ゴミのように感じられた。

 私は、血のつながった娘に対しても欲情するような悍ましい怪物からの愛を欲していたのかと思うと、その怪物と自分も血が繋がっているのかと思うと、吐き気がするほど忌々しい。

 そこでようやく、父に結婚を言い渡された日の母の言葉を思い出した。きっと母は、アイシャを嫁にやった後も好事家と回そうとしていたのかと言いたかったに違いない。それを、ベロニカがいるから言わなくて、それでも何が言いたいか分かったから父へ激昂したのだ。


「だから、美しさなんて要らないって、言ったのね……」


 どういう気持ちなのだろう。血のつながった父親が、情欲の相手として己を見ているというのは。いずれ手籠めにされる日まで、舌なめずりしながら毎夜毎夜見られている状況というのは。

 母はそれを知っていたからより憎悪を向けていたのだろうし、使用人たちもおぞましいと思ってアイシャに当たっていたのだろう。当主に当たることなんてできようはずもないから。


「わたくしは、何も知らなかったのね……」

「いいんですよ、知らなくて。まぁ、詰られた時は頭に来ちゃいましたけど」

「ごめんなさい……」

「受け取りましょう。でも、もういいんですよ」


 美しかったからアイシャはつらい思いをした。美しくないから愛されないのだとベロニカはずっと思っていたが、美しくても愛されていたわけではない。所有物として、手元に置かれていただけなのだ。

 ここへきてようやく、ベロニカは父親に対して見切りをつけることができた。貴族の男に嫁に出されそうになっても、政略結婚が当たり前の世界でそこまで思わなかったが、よもや己の血を分けた娘に欲情するような男だったことに、ようやく侮蔑の感情を向けることができた。

 さら、とアイシャはベロニカの頬をなでる。アイシャの傷ついて引き攣れた頬と同じ右側を。

 そうして、とても美しく微笑んだ。

 思考の波に揺れていたベロニカは、ざぁっと思考が整理される感覚を覚える。父親だったものが波にさらわれてどこかへ消えていき、目の前にはアイシャがいる。


「別に、オジョーサマも可愛らしいと思いますけどね」

「あなたに言われると嫌味だわ」


 己がつけてしまった頬の傷をもってなお、アイシャは美しかった。きっとそれは造形だけではなく、アイシャの内面が、強く凛とした内側からあふれる美しさなのだろう。


「じゃ、嫌味ついでに言いますけど、オジョーサマが私のように美しくなくて良かったです」

「喧嘩売ってるのかしら」

「だって、あのクズは実の娘にすら欲情するようなゴミ以下の人間なんですからね、オジョーサマが美しかったらきっと、毎晩呼ばれていたのはオジョーサマでしたよ。そうなると私は、この世に存在していたかも怪しいですが」

「吐き気がするわね」


 本当に、吐いてしまいたかった。己の中に流れる血の半分を捨てられないその事実に、吐き気が止まらない。ーーーでも。


「ねぇベロニカ、あたしあんたに会えてよかったって思ってるよ」

「わたくしも、あなたに会えてよかったと思ってるわ。虫がいいと思われるかもしれないけれど」

「そうだね。でも、もういいんだ」


 アイシャもベロニカも、互いに互いを羨んでいた。それはきっと二人にしかわからない感情で、だからきっと二人は特別なのだ。


「一緒に逃げてくれてありがとうベロニカ」

「連れ出してくれてありがとうアイシャ」


 ふたりはあの日からずっと共犯で、それはこの先もずっと変わらない。

よく見る妾の子を正妻と正妻の子たちがいじめる奴、一番責められるべきはそんなことをした当主では?と思ったところで「あんたの父親が勝手に見初めた娘に私を産ませたくせに、頼んでないのに!」という叫びを思い付き、このような作品になりました…。

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