第八章
「記憶喪失……ですか……」
ジュースの入ったコップを両手で持ちながら、向かい側に座るブライへと、詩織は聞き返した。
「そう。それに気付いてから今まで、いろいろなことを試してはみたけど、特に効果はなかったよ」
小さなちゃぶ台を囲むように、五人が畳の上に腰を下ろしている。台の上にはノートパソコンと、その周りを埋め尽くす多種多様なお菓子たち。
「おいおい……。んじゃあ今もお前は自分が何者か、全然わかってないままってことか?」
詩織の、向かって右側に座るマシャドからの問いかけに、ブライは黙って頷く。水を打ったような静けさに、空気が一段と重くなった。
「……そんなに重く考えないで。なにも思い出せなくても、こうやって立派に生きてこれた。それに、僕はもう、『ブライ』として生きていくと決めたんだ」
「あれ? じゃあブライって名前は、どっから来たんスか?」
左隣で首を傾げる浜崎を見ながら、ブライは答える。
「アレットだよ。何日経っても僕の記憶が戻らないからと、彼女が新しく名付けてくれたんだ。それからはその恩返しのためにも、この名前に恥じないよう生きてきたつもりだよ」
「ハハ、お前にピッタリじゃねえか。アレットさん、センスあるなぁ」
「ど、どんな意味なんですか……?」
前のめりに、興味津々といった様子の詩織。
「こっちの言葉だと、『勇気』とかかな。もう少し意味は広いけど……」
「ほぇー。じゃあ名付けの理由とかは、本人には聞いてみたんスか?」
「……ああ、その……彼女が言うには、僕からたくさん、勇気をもらったから……と……」
恥ずかしそうに、口元を手で隠しながらブライは言った。その様子を見た浜崎は、満足そうにニヤケていた。
「なるほろねぇ……」
詩織と浜崎に挟まれ、黙々とスナック菓子を頬張っていたルシエラが呟いた。
「……よくそんなの食べれるっすね……」
「か、辛いですよね、ハバネロ君……あ、もう無い……」
ルシエラは空になった袋をくしゃくしゃに丸め、ちゃぶ台の下にあったビニール袋の中に突っ込んだ。
「大体わかったわ。要するにあなた、自分は実はこっちの世界の人間じゃないのかって、そう思ってるってことでしょ」
「あ、ああ、そうだよ。よくわかったね」
目を丸くして驚くブライ。ルシエラは当然といった顔をしている。
「ほとんどの記憶を無くしても、話す言葉だけは失わなかった。そんな唯一の手掛かりだった言語が、ついに通じる場所を見つけたんだから、そりゃ誰だってそう思うでしょ。……でもまあ、可能性は高いわよね。魔力無しでも生きていけるのも、もともと魔力の存在しない世界で生まれてたんだとしたら、おかしくはないし。こっちの世界の物に全く驚かないのも、道具の扱いが手慣れているのも、脳じゃなく体が覚えてるからなんじゃないかしら?」
「な、なるほど……」
「異なる世界同士を繋ぐ謎の穴……実際に体験した身としては、信じざるを得ないのよね……。ていうか、勿体ぶり過ぎなのよ。なんで今まで黙ってたわけ?」
「……いや、大した理由じゃないんだ。途中から頭には浮かんでたんだけど……それでも自分が、別の世界の人間かもしれないだなんてこと、簡単には信じられなくて……。それに自分が、どこから来たかもわからないような状態だったことも、ちょっと忘れてたというか……」
ばつの悪そうな顔で話すブライの顔を、ルシエラは唖然とした表情で見つめていた。その様子を見てマシャドが、腹を抱えて笑い出す。
「ダッハッハッハ! マジかよ! 最高だなオイ!」
「……信じらんない。記憶力ぶっ壊れてんじゃないの」
「そ、それほど濃厚な五年間だった、ってことですよね……!」
詩織からの咄嗟のフォローに対し、ブライは苦笑いで返した。
「……ブライさんって、今おいくつなんスか?」
顎に手を当て、ちゃぶ台の上のどこか一点を見つめたまま、浜崎が問う。
「あっと、記憶ないんスよね、大体でいいっスよ」
「大体……か、どうだろう……。たぶん、ルシエラと同じくらいだとは思うんだけど……」
腕を組み、首を傾げたブライに代わり、ルシエラが答える。
「そうね、同年代ではあるはずよ。三年くらい前……あたしが十五のときに初めて会って、そのときはまだ声変わりもしてなかったはずだから」
「……十八!?」
「わ、私の二個上ですか!?」
二人の視線が、一斉にルシエラの胸元へと注がれた。慌てて腕で隠しながら、彼女は二人の顔を交互に睨み付ける。
「な、なによ……! なんか文句ある……!?」
「い、いえ! その、お……大人っぽいなぁって……」
「二十代前半くらいだと思ってたんスけど……」
申し訳なさそうに縮こまる詩織。浜崎は訝しげに、ルシエラの体をじろじろと眺めている。
「ちゃんと大人ではあるわよ! うちの国では十六で成人だし……!」
ルシエラは膨れっ面でそう言った。
「……まあとりあえず、ブライさんも十八くらい、ってことで……」
浜崎は呟き、その場に座り直したあと、ノートパソコンに向かって声をかける。
「松さん、聞いてました?」
「聞いてるよ、当たり前だろ」
画面内の松島が不服そうに答える。
「行方不明者の一覧、作ってもらえないっスか? 範囲は……そうっスね、六年前から今までに届け出があったもののうち、現在十五歳から二十歳とみられる人の分で」
浜崎の言葉に、詩織は不思議そうな顔で口を開く。
「一覧……ですか?」
「そっス。五年前、おそらくブライさんは『神隠し』に遭っちゃったんスよ。どこかに開いたあの穴、それに飲み込まれたブライさんは、あっちの世界へと飛ばされてしまった。であればこっちの世界では、いなくなったブライさんを心配した誰かが届け出を、『行方不明者届』ってのを出してるはずっス。そしてそれには、その人の名前と、その時点での顔写真が紐付けられてるんス。つまりそれを見つけることができれば、ブライさんがいったい何者なのかがわかる! ……はずっス!」
「お、おぉ……!」
得意げに、意気揚々と主張する浜崎。目を輝かせながら、詩織が彼女を見つめていた。
「仮にそれっぽい届け出があったとしても、記憶が無いんじゃ確かめようもないだろ」
松島がピシャリと言い放ち、浜崎の顔から笑みが消える。
「……まあ、そうなんスけど……」
「え、えぇ……」
詩織の目から光が消えた。
「はは。まあ、気持ちは嬉しいよ、ありがとう」
「ブライさぁん……!」
ブライからの助け舟に、浜崎はすがるように彼を見つめる。
「それに僕も、自分の過去に興味が無いわけじゃないからね」
「ま、折角だから手の空いてるやつにでも作らせますよ。出来上がったらそいつに送るんで、明日まで待っててくれますかね」
そう言って、画面の中の松島はスマホを取り出し、操作し始めた。
「ブライの本当の名前か、どんな名前なんだろうな?」
「そんな期待するほどの事かしら」
期待に笑みをこぼすマシャドに対し、ルシエラは興味なさげに目を逸らす。
「……本当の、か……」
一方ブライは、何かを考え込むように目を伏せていた。
「さあて、午後の部始めるっスよぉ」
昼食を終え、五人は再び詩織の部屋へと集まった。
「あたしたちの世界の事なんか、知ってどうするの?」
ノートパソコンの前を陣取ったルシエラが、浜崎に問いかける。
「どうする……とかはないっスけど、まあせっかくなんで……」
浜崎が横から手を伸ばし、キーボードを操作しながら答える。そしてまた、画面上に松島の姿が映し出された。
「はいはい、すいませんねどうも。ご協力お願いしますよ」
ペコペコと、画面内で頭を下げながら松島が言う。
「っと。その前に浜崎、お前タイピング早かったよな? そっちで調書作っといてくれ」
「うえぇ……。マジっスか……? それってパワハラっスよぉ……」
心底嫌そうな顔で、浜崎はちゃぶ台に突っ伏した。
「ここは涼しくていいな、俺は寝ててもいいか?」
エアコンの前でマシャドが寝転がっている。
「……まあ、あんたから出てくる情報なんて、筋肉のことぐらいしかないだろうから、別にいいんじゃない?」
「良いトレーニング方法ならいくらでも教えるぜ」
辛辣なルシエラにも全く動じず、マシャドは目を閉じた。
「あはは……。なんか、漫才みたいですね……」
「いつものことさ」
微笑むブライと、苦笑いの詩織。
「んじゃ改めて……次は魔法についてなんですが、今は魔法で会話ができるようにしていただいているわけですが……」
「そうね。正確には魔道具……適当な物に魔法を込めたものを使ってるわけだけど」
「ではその、魔道具とやらであれば、我々にも使えたりするんですかね」
「無理ね」
キッパリと言い切ったルシエラを、詩織と浜崎が露骨にガッカリとした様子で見つめる。
「いちいち詠唱しないで済むようにしてるだけで、魔力は当然必要だもの」
「あぁ、やっぱりっスか……」
「そうですよね……」
「はは、残念だったね」
肩を落とした二人を、ブライが笑って慰める。
「それにしても便利な魔法だね、五年前にあれば僕ももっと楽だったんだけど……」
「統一言語がある以上、翻訳の魔法なんて必要ないもの。そりゃ開発もされないわ」
「あれ……? じゃあブライさんは、どうやってあっちの言葉を……?」
顔を上げた詩織が問う。
「アレットに教わったんだ。大体一年くらいはかかったかな……」
苦労した日々を頭に浮かべ、ブライは遠い目をしている。
「……ウチらが外国語勉強するのと違って、テキストとか無いはずなのに、どうやったんスか……?」
「最初のころは、アレットが指差しながら物の名前を言ってくれたり、何かをしながらその動作の名前を言ってくれたり、そういうのをひたすら覚えていったんだ。片言の会話ぐらいはすぐにできるようになったんだけど……」
彼は目を閉じ、過去を思い出しながら話す。
「文字の読み書きができるようになってからは、ずーっと本を読んでたな。わからない言葉が出るたびにアレットに聞いて、一ページ読むのに何十分もかかってた。あれはアレットも、きっとキツかっただろうな……」
「た、大変だったんですね……」
「まあ、話せるようにならないと生きていけないからね。それこそ死ぬ気で覚えたよ。アレットも全力で付き合ってくれたから、おかげでなんとか今までやってこれたよ」
そう言って彼は目を開け、微笑んだ。
「……あっ、す、すみません! お仕事の邪魔しちゃって……!」
「いえいえ、いいんですよ。淡々とした聞き取りよりも、楽しみながらお話ししていただけるほうが、こちらとしても気兼ねなく聞きやすいんでね」
「ブライさんの視点からだと、二つの世界の細かい違いもわかりやすいと思うっス。それにぶっちゃけ、ブライさんの思い出話のほうが興味あるっていうか……」
「そう? そんな大したもんじゃないと思うけど……」
「わ、私も気になります! ブライさんの思い出……!」
身を乗り出し、詩織はブライへ視線を送る。
「そ、そこまで言うなら……」
そしてまた、ブライは自らの過去を振り返り始めた。
「……ふぁっ……んー……」
いつの間にか眠っていたみたいだ。あくびをしながらソファの上、体を起こして伸びをする。窓の外は夕焼けで真っ赤に染まっていた。
「……どこまで読んだっけ」
手元の本をパラパラとめくってみたけど、内容に見覚えがない。また後で初めから読み直そう。そう思って立ち上がり、本棚へと差し込んだ。
僕がアレットに拾われてから、もうすぐ一年が経つ。僕が来たころはスカスカだったこの本棚も、今では様々な本で埋め尽くされていた。
外で何か音がした。カーテンの隙間から玄関の方を見ると、アレットが誰かと話をしているのが見える。鎧を着てるってことは、騎士団の人だろうか。買い物とかのときに、街中で騎士団の人はよく見かけてたけど、あの人は初めて見るなぁ。アレットよりももうちょっと、髪の短い女の人。目つきが鋭くて、なんだか少し威圧感がある。いちおう挨拶しといたほうがいいかな。そう思って廊下に出て、玄関の方へ――。
「――ごめん」
ドアが開いて、アレットが中へ戻ってきた。俯いたまま、彼女は後ろ手にドアを閉める。そのまま、大きく深呼吸をした彼女の息が、少し震えていた。
「どう……したの?」
声をかけるのも少しためらうぐらい、様子が変だった。僕に気付いた彼女がはっと顔を上げて、すぐに目を逸らす。
「あ、ああ、えと、なんでもないよ……」
目を伏せてそう言った彼女の顔が、なんだかとても辛そうで……。
「……そろそろ晩御飯の時間だね」
けれども、僕が気遣う言葉をかけるよりも先に、彼女は笑ってそう言った。その笑顔には、いつもみたいな柔らかさは無かった。
「今日の当番は私だったよね? 何を作ろうかなー」
彼女が僕の横をすり抜ける。無理してるんだって、すぐにわかった。それでも僕に心配かけたくなくて、必死で強がる彼女を見ていると、それ以上何も聞けなくなってしまった。
「それにしても、上手になったよね」
買い物袋を抱えたまま、アレットが言った。
「上手……? 何の話?」
市場からの帰り道。空は灰色で、真上にあるはずの太陽の場所がわからなくなるぐらい、分厚い雲に覆われている。
「言葉だよ。今はもう、何の違和感もなく喋れてるでしょ?」
向かい風が冷たくて、中にもう一枚着てくるんだったかなと、少し後悔していた。
「ああ、なるほど。まあ結構頑張ったしね」
アレットのおかげだよ。口に出すのは恥ずかし過ぎるから、心の中でそっと付け足す。
「あはは、そうだね。毎日朝から晩まで本を読んで、ずーっと頑張ってたね」
いつもみたいに頭を優しく、ポンポンと叩かれる気がした。少し距離を離しておこう。
「同じくらい、剣術も頑張ってくれると嬉しいんだけど……」
「……頑張ってはいるよ……」
実際、自分の中では死ぬ気でやってるつもりだ。万が一魔物に襲われることがあっても、無事に切り抜けられるようにと、アレットが毎朝つけてくれている剣の稽古。初めのころは優しく、丁寧に教えてくれていたのに。
「アレットが強すぎるのが悪いと思う」
「そんなこと言っても、手加減しちゃったら意味ないでしょ?」
踏み込みが浅いだとか、動きが単調過ぎるだとか、殺気を出し過ぎだとか……。今では怒鳴られてばかりで、優しさの欠片も無くなってしまった。
「そろそろ次の段階に進みたいんだけどなー」
アレットに利き手を使わせたらクリア。それを聞くと簡単に思えるけど、腐っても相手は世界最強の剣士。左目を失ったとはいえ、剣を習って一年ちょいの僕にはまだまだ、達成できそうにない。
「ま、それは置いといて……。元々使ってた言葉は、まだ覚えてるよね?」
「え? 覚えてるけど、なんで?」
隣を向いて答えた。今でも驚いたときや、ひとり言を言うとき、こうやって何かを考えてるときも、出てくるのは元の言語だ。
「よかった。いつでも喋れるように、しっかり覚えておいてね。君がどこから来たのか、本当は何者なのか、それを探すための、大切な手がかりの一つなんだから」
「……わかったよ」
そう呟いて、また顔を前に向けた。未だに記憶は戻らないけど、別にいいやとも思ってる。何も思い出せない不安で眠れない日もあったけど、今はもう平気だ。それもたぶん、アレットがずっとそばで見守ってくれてたからだと、そう感じていた。
「……ん、騎士団だ。遠征帰りかな」
そう言ったアレットの目線の先を見ると、東門の方から馬に乗った騎士が、何十人もの隊列で街へ入ってくるのが見えた。銀色に輝く鎧を着て、背筋をピンと立てたまま馬を歩かせるその姿が、とてもかっこよくてつい見とれてしまう。
「先頭の人、見たことある気がする……。あれが団長さん?」
どこで見たんだろう。髪はピンクで短くて、目つきが鋭くて、確か……。
「……うん、彼女が今の団長。フェムっていって、真面目でまっすぐな子だよ」
苦笑いでそう言った彼女を見て、思い出した。半年ぐらい前にうちの前で、アレットと話をしてた人だ。あのときのアレットの様子が頭に浮かんで、余計なことを言ったかもと後悔する。
「……なんだか寒くなってきた。早く帰ろう、アレット」
気まずさを振り払いたくて、変な嘘をついた。
カンカンカンカン、北門の方で警鐘が鳴り響く。強烈な日差しの下、汗だくになりながら僕は、急いで鐘の鳴る方へ走っていた。閉ざされた門の前には何人かの騎士が並んでいて、目の前の人だかりを制するように声を張り上げていた。街を囲う高い壁、その向こう側を見たくて、僕は近くの路地に入った。この建物の裏の壁に、顔を出せるくらいの穴が開いてることを知ってたからだ。
「うわっ! でかっ!」
穴から外を覗いてみる。そこにいたのは、僕の何倍もの大きさの人型の魔物。丸太のような太さの手足に、でっぷりと太った腹を揺らしながら、気持ちの悪い笑みを浮かべている。そいつはすでに、門のすぐ近くまで迫ってきていた。
「新兵は下がってな! 動きはトロいが当たると死ぬぜ!」
魔物の正面で剣を構えた男の人が、周りに指示を飛ばしていた。彼を含めた五人ほどで、魔物を囲んで様子を伺ってるみたいだ。
「さてと! とっとと終わらせて昼飯にすっかぁ!」
そう叫びながら、彼は走り出した。すると魔物が大きく腕を上げて、そのまま彼目掛けて思いっきり振り下ろした。ドゴンッと大きな音がして、土煙が舞う。
「当たるかノロマ!」
「グオオオオ!!」
いつの間にか、彼は魔物の背後に移動していた。そして同時に魔物が、地鳴りみたいな叫びを上げて膝を突く。魔物の左足からは、赤黒い血が吹き出していた。
「グオァ!」
背後の彼を攻撃するために、振り向きざまに右腕を振り払った魔物だったが、そこにはすでに誰もいなかった。
「どこ見てんだよ、ウスノロ!」
今の一瞬で、彼は魔物の左肩へと飛び移っていた。叫ぶと同時に彼は剣を振り抜くと、そのまま地面へ向かって飛び降りた。
「グガアアアア!!」
魔物が雄たけびを上げながら、彼に向かって手を伸ばした。その瞬間、魔物の首から大量の血が噴き出した。
「はい終わり! 被害状況は?」
地面に倒れこんだ魔物の体が、ボロボロと崩れ去っていった。そんなことは気にも留めないまま、彼は周りの騎士へ声をかける。
「商団の団員が二名、追われている間に負傷したようですが、いずれも軽傷です」
「了解。あとは適当に警戒しといて。じゃお疲れぇ!」
そう言って後ろ手に手を振りながら、彼は門の向こうに消えていった。
「か、かっこいい……!」
あまりの興奮に、鳥肌が止まらなかった。自分がもし騎士になったら……そんな妄想に浸っていたせいか、買い物の途中に余計な物を買いそうになったり、何度も道を間違えたり……そんなこんなでぼーっと家に向かって歩いていると、向こうから見覚えのある人がやってくるのが見えた。
「……おや? 君は確か……」
「あっ、えと、はじめまして……」
騎士団の団長さんだ。フェムさんって言ったっけ……顔を合わせるのは初めてのはず。
「ブライ君……でしたっけ。直接会うのは初めてですね」
「はっ、はい……!」
ビビりながら返事をした。無表情で、目つきが鋭くて威圧感があって、ちょっと苦手かもしれない……。僕のことを頭のてっぺんからつま先まで、見定めるようにじろじろと眺めたあと、彼女は目を閉じた。
「だんちょ……アレットさんを、よろしくお願いします」
そう言って彼女は、街に向かってスタスタと歩き去っていった。僕の興奮はすっかり冷めてしまっていて、妄想の世界に戻る気にはなれなかった。なんだったんだろう……。
「も、もうダメ……! 限界……!」
そう言って僕は仰向けに倒れこんだ。地面に大の字になって、ぜえぜえと息をしながら、太陽のまぶしさに目を閉じた。
「まったく、そんなんじゃ合格できないよ? 寒期試験が一番厳しいんだから」
いろいろあってなんとか、騎士団への入団試験を受ける許可をもらえたわけだけど、その日から稽古はさらに激しくなってしまった。
「そ、そうは言ったって、全力のアレットに勝つより……げほっ! はぁ、難しい試験なんて、誰も受からないよ……!」
「……私はべつに全力とは言ってないよ」
「うっそぉ……」
信じられない、これ以上強くなるってこと? 今ですら攻撃をさばくのでいっぱいいっぱいだってのに……。
「それに君も、まだ全力を出し切れてるわけじゃないしね」
「いやいや……僕は、もうとっくに、全力だよ……! アレットに、ついて行くのが、やっとで……」
腕も足も疲労でプルプルだ。攻撃を受けすぎてもう握力もない。
「そうじゃない、まだ使えてない力があるんだ」
僕の隣に、アレットが腰を下ろした。
「さ、座って。私の真似をしてみて」
言われるままに体を起こすと、彼女が僕に向かって開いた手を突き出している。同じように片手を彼女に向かって、合わせるように突き出した。
「どう? 何か感じる?」
「……あれ? なんか、押されてるみたいな……」
僕と彼女の手の間には何もない。にもかかわらず、柔らかい何かが挟まっているような、そんな感じがする。
「いま私は、自分の魔力を手に集中させてるんだ。薄い膜のように纏った魔力が、君の手に触れてる。不思議な感触でしょ?」
彼女が手を前後に動かすのに合わせて、ぷにぷにとした感覚が手に伝わってくる。
「普段は体を動かすために使われてるけど、他にもいろいろ使い方があるんだよ」
彼女の手のひらを覗き込んでみたけど、何もおかしなところはない。けれど僕の手のひらには、確かな感触とほんのりとした温かさが残っていた。
「たとえば……」
彼女はその辺に落ちていた、卵くらいの大きさの石を手に取った。
「これ、握って砕ける?」
「……いや、無理だけど」
「あはは、そうだよね。私も無理だと思う」
笑いながらそう言って、彼女は石を力いっぱい握りしめた。
「ふっ……! ぐっ……! くはぁ! ……やっぱダメか」
「……何やってんの?」
「いやいや、本番はこれから。普通なら砕けそうにない石だって、こうやって魔力を纏えば……」
また、彼女が石を握り締め――。
「おりゃっ!」
「うぇ!?」
ボコンッ! そんな音とともに、彼女の手の中にあったはずの石が、跡形もなく砕け散ってしまった。
「とまあ、こんな感じかな。今のは魔力で握力を――」
目を見開いたまま、僕は動けずにいた。彼女が何か言ってるけど全然頭に入ってこない。
「――って感じで、魔術師じゃなくても、余った魔力を使って肉体を強化するくらいはできるんだよ。……聞いてる?」
「え? あ、うん、聞いてない……」
「ちょっと! 正直なのはいいんだけど……」
それぐらい、僕にとって今の光景は、信じられないものだった。
「まあやってみたほうが早いでしょ。ほら、立って」
彼女に手を引かれ、呆然としたまま立ち上がった。
「はい、目を閉じて。剣を構えたまま大きく深呼吸してー」
戸惑う僕のことなんてお構いなしらしい。まださっきのを受け止めきれてないんだけど……。
「体中を、魔力が巡ってるのを感じて。心臓から頭へ。頭から腕、腰、足へ降りたあと、また心臓へ戻っていく……」
言われるがまま、目を閉じて深呼吸をした。心臓が脈打つのを感じて、そこから頭へ足へと、意識を流していく。
「魔力の流れを掴めたら、今度は両手に意識を集中させてみて。ゆっくり、温かくなっていくはず……」
魔力の流れ……はまだよくわからないけど、剣を握る両手に意識を……。
「……あれ?」
なんだか両手がぽかぽかしてきた気がする。これは果たして魔力によるものなのか、それともただ日差しで温まっただけなのか。
「よし、それじゃあ私が実験台になってあげるから、そのまま切りかかって来てみて」
アレットの気配が隣から前方へと移動した。とりあえず、彼女の言う通りにしてみよう。そう思いながら剣を振り上げて、そのまま思い切り剣を振り下ろした。
「……なっ!? ちょっ!!」
アレットに受けとめられるはずが、なぜか手応えが無い。彼女の慌てたような声が聞こえたが、勢いを止められず、地面へ剣が――。
「どわぁ!!」
「え!?」
ドゴンッ!! 何かが爆発するような音がした。慌てて目を開けると、倒れ込んでいるアレットの、横の地面が大きくへこんでいた。
「な、なにが……どうなったの……!?」
「どうって……やったのはキミなんだけど……」
目の前の光景に驚き、思わず剣を落としてしまった。
「これを……僕が……!?」
「いやぁ、すごいね……。私も本気でやればこれぐらいの威力になるけど……」
手に残った確かな感触。あまりの衝撃に、両手は小刻みに震えていた。
「とまあこんな感じで、魔力で強化すればもっと強くなれるーって話だったんだけど……力加減の仕方も早急に覚えたほうがよさそうだね……」
国内外から三十人近くが集まったにもかかわらず、入団することができたのは、たったの六人だけだった。最後に団員との手合わせを通して、各々の適性を見たうえで所属する隊を決めると言われ、僕は一番隊隊長さんと戦うことになった。
「よ、よろしくお願いします!」
「おう、お前か? 今期の首席合格者」
練習用に刃引きされた剣を肩に担ぎながら、隊長さんがやってきた。
「あ、えと、そうみたいです」
「お前、年はいくつだ?」
僕のことをじろじろと、品定めするように眺めている。
「あ、えと、十六です、たぶん……」
「たぶん? ……まあいいや。それにしても、こんなガキが首席とは。今期の新人も期待できそうにはねぇなぁ」
「す、すみません……」
ひどい言われようだ。ちょっと感じ悪いな……。
「ほら、さっさとかかってきな」
「は、はい……!」
ろくに剣も構えないまま、彼は手招きをした。なんかムカつく、本気でやってやろう。
「行きます!」
剣を構え、魔力を足に集中させて、訓練場の地面がえぐれるくらいの勢いで一気に飛び出す。
「……ん?」
防御が間に合うように少しだけ攻撃を遅らせて……。
「おわぁ!?」
なんとかギリギリで受け止めた隊長さんが、焦った顔で僕を見る。
「て、てめぇ! やるじゃねぇか!!」
彼が叫ぶと同時に、剣が弾かれた。木刀とは違う金属製の剣の重さに、まだ慣れない。
「これならどうだ!?」
横なぎに振り払われた剣を、下から突き上げるように弾いて受け流す。
「面白れぇ!! だったらこっちは――」
「そこまで!」
女性の声が辺りに響いた。ピタッと、お互いの動きが止まる。
「だ、団長……!? なんでこっちに……?」
驚く隊長さんを見て、僕は後ろを振り返った。
「失礼、連絡漏れがあったようです」
団長のフェムさんが、こっちに向かって歩いてくる。
「連絡漏れ……? いやいやそんなことより団長! こいつすげえぞ! 本気の俺の剣を軽々弾きやがった! ぜひうちの隊で――」
「その子は五番隊に配属となります」
「……は?」
彼の言葉を遮り言った団長さんの言葉を聞いて、僕はいきなり自分の配属先を知ることとなった。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ! こいつは逸材だぜ!? バンバン前線に出して鍛えたほうが――」
「彼は直接私が指導します」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。団長さんが直接……? 僕を……!?
「とにかく、この子は私が預かります。ブライ君、ついて来てください」
「わ、わかりました……」
ポカンと口を開けたまま固まってしまった隊長さんを横目に、歩き出したフェムさんについて行った。
「……悪い人ではないんです。ただちょっと、口が汚いだけで」
「そ、そうなんですね……」
隊長さんには申し訳ないけど、そんなことはどうでもいい。直接指導するってどういうことですか……!?
「あ、あの――」
「今朝だんちょ……アレットさんに会いました」
「えっ?」
独特な威圧感のある雰囲気に、声をかけるのをためらっているうちに、話を被せられてしまった。
「『あの子は絶対に合格するよ、それも首席でね』と、自信たっぷりにそう言っていました。よほどあなたのことを信頼しているんでしょうね」
「ほ、ほんとですか……!?」
朝、家を出るときは『落ちても慰めてあげるから大丈夫だよ』だなんて、そんなことを言ってたのに。
「中へどうぞ。適当に掛けてください」
誘導されるままに部屋の中へ。すぐそばにあった椅子に座って辺りを眺める。
「ここが団長室です。他の施設については、またのちほど」
言いながらフェムさんは、奥の少し大きな椅子に腰かけた。
「……久々に見ました。あの人の笑顔」
軽く俯いた彼女の顔は、少しだけ微笑んでいるように見えた。
「アレットの……ですか?」
「ええ。昔はよく、私にも笑いかけてくれていたのですが」
「そう、なんですね……」
「……ふふっ、そんなにかしこまらなくてもいいですよ」
少しだけ、雰囲気が柔らかくなった気がする。
「実は、ついさっきまでずっと、彼女と話していたんです」
「……あ、朝からですか……!?」
窓の外はすっかり夕焼け色に染まっていた。
「三年近くまともに話もできていませんでしたから」
椅子に体を預けてもたれかかるように、彼女はどこかを見上げる。
「二度ほど直接、会いにも行ったんです。一度目は、彼らの命日に。戻ってきてくれと言いに行ったんですが、返ってきたのは欲しくもない、謝罪の言葉だけでした」
覚えてる。アレットの様子がおかしくて、それでも必死に強がっていたから、理由が聞けなかったあの日だ。
「その一年後に、また。そのときは帰りに、君と会いましたね」
「あっ、はい、覚えてます」
確か、街の外に魔物が出た日だ。いま思い出したけど、あの日魔物と戦ってたの、さっきの隊長さんだったな……。
「その日は、ほんの少しだけですが、世間話もできました。肝心の復帰については断られてしまいましたが……それでも、他愛のない会話を交わせたことがなによりも嬉しかった」
目を細めながら、彼女は話し続ける。
「あれもきっと、君のおかげなんでしょうね」
「……僕、ですか?」
「ええ。あなたと過ごす日々が、あの人の心をゆっくりと癒していった……。私はそう思っています」
まっすぐな眼差しで、彼女はじっと僕を見つめる。照れくさくて思わず目を逸らした。
「そ、それで、その、あ、アレットとは、どんな話を……」
「そうですね、いろいろな話題がありましたが……あの人から出てくるのはほとんど、あなたについての話ばかりでしたよ」
「うっ……!」
からかうような言い方で、微笑みながら彼女は言った。慌てて話題を変えたのに、行きつく先は結局一緒なのか……。
「ふふっ、すみませんね。私も、柄にもなく舞い上がってしまっているようです。何せ、願いが一つ叶ったようなものなので……」
そう言って彼女は立ち上がり、部屋の隅に置いてあった鎧に手を触れた。
「あの人が、剣術の指南役としての復帰を受け入れてくれました」
「……えぇ!?」
指南役!? アレットが!?
「ってことは、明日から僕、アレットに教わるんですか!?」
「剣に関しては、そうなりますね。それ以外の馬術や戦術、医術等については私が――」
終わった……最悪だ……。朝の数時間ですら耐えられない、あの地獄の稽古が騎士団でも……。
「ぐおおぉ……」
「どうしたんです? 頭を抱えて」
「なんでも……ないです……」
入団が決まったその日にいきなり、入団を後悔することになるとは……。
「……ひどい有様だ」
容赦のない日差しが照りつけ、ジメジメとした空気が肌にまとわりついている。気候が違うせいか、それとも立ち込める異様な雰囲気のせいか、体を流れ落ちる汗が止まらなかった。
「小さい子供も……お構いなしか……」
南方都市への街道沿いにて目撃された、獣型の魔物の集団。周辺村落への影響を考え、即座に決定された討伐遠征だったが、どうやら一歩遅かったようだ。
「ルシエラ、そっちはどう?」
民家の裏に回った彼女に声をかける。本隊到着までの先遣隊として、僕を含めた六人の団員に加え、治療師が二人。そして、後方支援の魔術師として選出されたのが彼女だった。
「……死体しか……見当たらないわ……オエッ……」
口元を手で覆いながら、彼女は塀の影から姿を現した。
「大丈夫? 顔色悪いけど……」
「平気よ……これくらい……どうってことないわ……」
嘔吐をこらえ、荒い呼吸を繰り返すルシエラ。この光景を前にすれば無理もないだろう。辺りに散らばるのは、いくつもの遺体。手足の無いものや、鋭い爪や牙で腹部を切り裂かれたうえ、内臓を引きずり出された無残なものもある。腐敗が始まっていないところを見ると、襲撃からそんなに時間は経っていなさそうだ。
「無理しないでいいよ。本隊が来るまでその辺で――」
ガサガサっと、茂みが揺れる音がした。剣を構え、彼女の前に出る。
「ルシエラ、下がってて。迎撃の用意を」
「え、えぇ……わかったわ……」
とはいえ、体調の悪い彼女に無理はさせられない。ここはあえてこちらから突っ込んで……!
「誰か……助けて……!」
草をかき分け現れたのは、魔物ではなく人間だった。僕と同年代らしき女性。手や顔には擦り傷が目立ち、その服のあちこちが泥や葉っぱで汚れている。
「ルシエラ、合図を! キミ、大丈夫!?」
女性に駆け寄り、今にも倒れてしまいそうなほどふらついた体を支えた。背後で甲高い笛の音が聞こえる。これで周囲を探索しているはずの団員たちが集まってくるはずだ。
「安心して、僕らは中央聖王国の騎士団だ。他に誰か――」
「わ……わたしの……村が……!」
気遣う僕の手を取り、すがるように彼女が声を絞り出す。
「まだ……彼が……一人で……!」
「なっ……!? そ、その村はどっちに!?」
僕の問いかけに、彼女は震える指で森の奥を指した。
「ルシエラ! この人を頼む!!」
「ちょ、わわっ!」
僕の肩越しに、心配そうに覗き込んでいたルシエラへ彼女を任せ、近くに繋いでいた馬の背へ飛び乗った。
「た、頼むって……! あんた一人でどうすんのよ!」
彼女の叫びを背に受けながら、僕は勢いよく馬を走らせた。木々の間を縫うようにすり抜け、ひたすらまっすぐ向かうその道すがら、地面に残された無数の足跡に気付く。
「なんて数だ……これじゃあ……!」
暑さによるものではない汗が、首筋を伝う。体の強張りを振り払うように、大きく息を吸い込んだ。
「……ぉぉぉおおお!!」
「近い……!」
地響きのような低い唸りが聞こえる。剣を引き抜き、光の差す方へ飛び込んだ。
「……こ、これは……!?」
「オラァ!!」
慌てて馬を止めた僕の目に飛び込んできたのは、十数匹の魔物に囲まれ、それでもなお大立ち回りで奴らをなぎ倒していく、一人の大男の姿だった。
「……い、いや! 見とれてる場合じゃない!!」
木こり用のものだろう斧を手に、鍛え上げられた肉体を返り血で染めながら、彼は暴れまわっていた。
「加勢するよ!」
馬上から飛び降り、背を向けていた魔物を切り伏せながら、僕は声を上げた。
「そぉら!! あ!? おお、騎士団か! 助かるぜぇ!!」
叫びながらも、彼は魔物を切り裂いていく。このほんの数秒のやり取りだけで、魔物の数は残り五匹にまで減っていた。
「キミ!! 名前は!?」
四匹、三匹。
「俺か!? 俺はマシャドってんだ!!」
二匹。
「わかった! マシャド! 後ろだ!!」
残り、一匹。
「へっ! 了解!!」
振り向きざまに振り上げた彼の斧が、魔物の体を真っ二つに切り倒した。
「ふーっ! さっすがに疲れたぜぇ……!」
「いやぁ、すごかったよ」
その場に座り込んだ彼に声をかけ、血を振り払った剣を収める。
「さっき、女の子を保護したんだけど、キミの知り合い?」
「ユウサか!? あいつは無事か!?」
「だいぶ疲れてたみたいだけど、怪我は軽いものばかりだったから大丈夫だよ」
「そうか、よかった……」
そう言って彼は俯き、背中を丸めた。
「……結局、生き残ったのは俺とあいつだけか……」
「そ、れは……」
「ああ、いや、いいんだ。俺はそこまで気にしちゃいねえ、もともと一人だったしな。ただ、あいつは家族を……」
言葉が途切れる。そして彼は大きく息を吐いた。僕はその場に膝を突き、彼の肩を叩く。
「……向こうの村に僕の隊が控えてる、彼女もそこだ。行こう」
「……そうだな。あいつは体も弱いんだ、俺が支えてやらねぇと」
立ち上がった彼の目には、強い光が宿っていた。
「ところでお前、名前は?」
「ああごめん、名乗ってなかったね。僕はブライ。中央聖王国騎士団、副団長のブライだ」
ゴトン、奴の首が落ちた。
「化け物……め……」
肉体がボロボロと崩れ去っていくなか、奴は最後にそう呟いた。その場に倒れ込んだ僕は空を見つめながら、荒い呼吸を繰り返す。ひらひらと雪が一粒、僕の額に落ちた。
「はぁっ……! はぁっ……! ひ、一人はちょっと……! 無理があったか……!」
知性を得た魔物たちは自らを魔族と呼び、まるで人間のように振る舞った。最も勢いのあった北方魔族は各諸国との衝突を起こし、瞬く間に戦争へと突入した。その支援のため派遣された遠征だったが、まさか北方将軍まで出てくるとは。
「いつっ……! 結構、食らっちゃったな……」
加勢した我々に驚き逃げ出した奴を追いかけ、なんとか一騎打ちに持ち込み、今ようやく一息ついたところだ。
「ブライ!!」
こっちへ近付いてくる馬の足音に混じって、アレットが僕を呼ぶ声がする。ゆっくりと体を起こし、手を振った。
「なんでこんなこと!! 勝てたからよかったものを……!」
馬から飛び降り、駆け寄ったアレットに怒鳴られた。泣きそうな表情で僕の顔を見たあと、彼女は僕を抱きしめた。
「よかった、無事で……。怪我は……?」
「左足が折れてるぐらいで、大したことはないよ」
多少の無茶はしたが、それでも十分勝てると思っていた。自分の強さに対して、思い上がりではない確かな自信があった。
「なんて無茶を……!」
フェムさんが馬上から、驚き戸惑ったような顔で僕を見つめている。
「団長、戦況はどうなりました?」
「……先ほど魔族は全て撤退しました。こちらの被害も少なくはないですが、死者はありません」
「そうですか……よかった……」
思った通り、一番厄介な奴を僕が引き受けさえすれば、被害は小さくできるんだ。
「戻ろう、ブライ。手当てをしないと……あれ、馬は?」
「ああ、走って来たんだ。後ろに乗せてくれる?」
とはいえさすがに一人はキツかったな。せめてあと一人……魔法対策に魔術師も必要か。三人いれば、楽にはなるかな。
残った瓦礫もすでに撤去され、露出した地面からは青々とした植物が生え始めていた。
「南方将軍を倒したの、キミなんだろ?」
少し後ろを歩くルシエラを挟んで、マシャドと隣同士、歩きながら会話を交わす。
「いやぁ、それが覚えてなくてな……」
傾げた首筋を手でさすりながら、彼は言う。
「魔物やら魔族やら、懸賞金目当てに片っ端から倒してたら、いつの間にかな」
「はは、めちゃくちゃだな、キミも」
軽く答えたマシャドの後ろで、ルシエラは信じられないといった表情で彼を見ていた。
「おかげで、この辺も平和になったみたいだね。この距離を戦闘無しで来れるなんて思わなかったよ」
「そうだなぁ、そりゃいいことなんだろうが……」
「何か、不満でも?」
彼の家が見えてきたところで、マシャドの足取りが重くなる。
「……もともと病気がちだったところに、あの襲撃だ。あいつも相当参っちまったみたいでな、厄介な病にかかっちまった。南の首都から治療師を呼んだり、薬を調達したりで結構かかるんだ」
彼はまっすぐ家の方を見つめている。
「将軍とやらの懸賞金のおかげでしばらくは持つが、狩る相手がいなくなっちまったら稼ぎようがないからな。俺も、いつまで戦えるかはわからねぇ。今後のことを考えるとどうも……」
「……治せない病気ってわけか」
「……ああ。でかい街に行けば多少はマシになるとは思うんだが、『家族や村のみんなが眠るこの土地を離れたくない』と泣くもんでな」
そして彼は家の前で立ち止まった。
「……俺は、あいつのためならなんだってしてやるつもりだ。だがあいつはそれに対して、どうしても負い目を感じちまってる。ここまで聞かせといてなんだが、あいつの前では何も知らないふりをしてくれるか?」
「わかった、気を付けるよ」
彼の目をじっと見つめ、しっかりと頷いた。
「すまねぇな。……ユウサ! 気分はどうだ?」
ドアを開け、声をかけるマシャド。彼に続き、僕らは家の中へと入っていく。
「マシャド、おかえりー。朝よりはマシに……」
そこまで言って、彼女がこちらに気付いた。
「あれ? ブライくんに……ルシエラちゃんも!」
ベッドに腰かけたまま、彼女は花が咲いたような笑顔を見せた。
「ユウサ、久しぶり。一年前は世話になったね」
「世話なんて! 助けてもらったのは私なんだから、そのお礼をしただけよ?」
「ユウサぁ……」
ふらふらとした足取りで僕の横を通ったルシエラが、そのままユウサに抱き着いた。
「ど、どうしたの? ルシエラちゃん……」
「……疲れたぁ……」
「えっ……?」
膝を突き、彼女にもたれかかったまま、ルシエラが小さくぼやいた。
「ああ、手前の町に馬を預けてきたからね。歩き疲れたんだと思うよ」
「もうダメ……足の骨が折れた……」
「しっかりしてルシエラちゃん! そんなことで骨は折れないよ! 私じゃないんだから!」
抱きかかえるように、ユウサはルシエラの背中を撫でる。
「二人とも、何か飲むか?」
「そうだね、せっかくだからいただこうかな」
「あっ、それならいいのがあるわ! ルシエラちゃん、ちょっとごめんね」
ルシエラをベッドの上に座らせたあと、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「手伝うぞ」
「大丈夫! 今日はすごく調子がいいの!」
マシャドの提案を笑顔で断った彼女は、しっかりとした足取りでキッチンの方へと向かった。
「……ずいぶん楽しそうだ。お前らが来てくれたおかげだな」
「はは、だと嬉しいな。さて……」
ユウサの鼻歌が聞こえなくなったのを確認した僕は、ルシエラの方へと目をやった。
「ルシエラ、どうだった?」
「……あら、よくわかったわね」
ベッドに腰かけたまま、彼女が驚いた顔を見せる。
「キミにしては、ずいぶんと大胆な触れ合い方だったからね」
「なんだ? 何かあったのか?」
困惑した表情で、マシャドが僕らを交互に見る。
「結論から言うわ。あの子、治せるかもしれないわよ」
「な、治せるって……どういうことだ……!?」
「そのままの意味よ。あの子の病気、治せる可能性があるってこと」
足をぶらぶらと遊ばせながら、淡々と彼女は続ける。
「抱き着くと同時に、魔力を使って体を診察してみたの。気になるところはいくつもあったけど、一番の原因はおそらく、肺の中ね。魔力の流れがせき止められている部分があったから。厄介な病気よ、誰に見せても不治の病と診断されるでしょうね」
「お、おう、そうなんだ……。首都の治療師も、治せる見込みがないからせめて薬で苦しさを和らげてやれと……」
「でも、今は違う。研究院で新たに開発された治療法なら、その病気も治せるかもしれないの」
「ほ、本当か!?」
驚き、声を上げたマシャドは慌てた様子で、口元を押さえながらキッチンの方を見る。
「確実に治せると決まったわけじゃないわよ。それに、現状それを試せるのは研究院の中だけ。しかも治療には何ヶ月もかかるから、ここを離れてもらうことにもなるわね。あなた、彼女を説得できる?」
「できるさ! いや、あいつが納得しなくとも、引きずってでも連れていくぞ!」
「いや死んじゃうからやめてあげなよ」
町で顔を合わせたときから、彼の表情にはどこか影があった。僕らには見せないよう気を張っていたようだが、それでも隠しきれない暗さがあった。だがもう、大丈夫だろう。
「っと。その治療にはいくらぐらいかかるんだ? どれだけかかろうと払うつもりだが」
「……マシャド。それについて、僕から一つお願いがあるんだ」
さてと、ようやく本題に入れる。
「キミの力を借りたい。僕らと一緒に戦ってくれないか?」
「いやぁ、遅くなってすまんな」
扉が開き、マシャドが顔を出す。
「遅かったわね、何かあったの?」
「いや、大したことじゃないんだ。これが焼けるまで待てって、ユウサがな……」
彼は持っていた袋を机の上に置き、中から何かを取り出した。
「あら、焼き立て? いいじゃない」
クッキーだ。甘い匂いが部屋を包みこむ。
「日頃のお礼だとさ」
「お礼なんて、別にいいのに」
治療のため、ユウサが魔術研究院の近くに引っ越してから半年が過ぎた。完治まではまだかかるが、それでも順調に快復へと向かっているらしい。自由に動き回れるようになった彼女から、お礼としてこうやって手作りの何かをもらうことが多くなった。どれもプロ顔負けの美味しさで、いつも驚かされている。どうやら彼女には料理の才能があったみたいだ。
「要らないならあたしがもらうわよ」
「いらないとは言ってないよ!」
袋ごと全部持っていこうとしていたルシエラの手を慌てて掴んで止めた。
「……お? これか? 俺の新しい斧は!」
僕の背後に立てかけてあった斧を見つけ、マシャドが手に取った。
「ああ、そうそう。この前言ってた通り、全体的に重くなるように作ってくれたらしいけど、どうかな」
斧を両手で構え、その場で何度か振り回したあと、彼は満足そうに笑った。
「最高だ。これなら、あのときみたいなヘマはせずに済みそうだ」
四魔将と呼ばれる、魔王直属の強大な魔族たち。その最後の一人、西方将軍オーサー。今まで戦ってきた魔物や魔族の中で、最も硬い相手だった。奴との戦いで、マシャドは愛用の斧を砕かれてしまっていた。
「……木こり用の斧で戦ってたのが間違いだと思うよ」
「あれが一番手にしっくりくるんだ」
まじまじと、彼は掲げた斧を眺めていた。
「……これもダメね。どこかで見たような記述ばっかり」
クッキーを片手に、読んでいた本をパタンと閉じ、ルシエラは背もたれに体を預けた。
「結局、魔王について一番詳しく書かれてたのは、あなたの持ってた児童書だったってことになるわね」
「じ、児童書? これって子供向けのやつだったの?」
机の上に積まれた本の山から、一つを手に取る。
「知らなかったの? だからアレットさんも、最初に読ませたんでしょ?」
「そ、そうだったんだ……」
言葉の勉強のため、一番初めに読ませてもらった本。内容が面白くて何度も読み返したせいか、ページがよれよれになっている。
「『一説によると、魔王によって虐げられていた当時の人々によって、せめてもの心の拠り所として作られたおとぎ話だとされている』……であれば、現実の魔王をそのまま登場させたと考えてもおかしくはないわね。だとするとこの、『鋭き爪と牙を持ち、天を黒く染め上げるほどの翼を広げ、岩をも溶かす豪炎を操る巨大な姿へと変貌した』って部分、本当だとすると相当厄介よ。それほど高度な変身の魔法を扱えるってことだし、対策を考えておかないと……」
頬杖を突き、手元のメモを指でトントンと叩きながら、彼女はため息をついた。
「こんな化け物相手にどうやって勝てっていうのよ……」
そして彼女は頭を抱えてしまった
「……本の中では一人で戦ってるみたいだけど、僕らは三人いるんだ。きっと勝てるよ」
そう言って僕は彼女に微笑みかけた。
「はぁ……期待してるわよ。『勇者』さん」
『勇者』。この本の主人公であり、宿敵である『魔王』と戦い勝利した男。このおとぎ話になぞらえ、世界最強と謳われるようになった僕のことを、国中のみんなが口を揃えて勇者と呼ぶようになった。憧れの人物と同じように呼ばれるのは素直に嬉しいが、まだ魔王を倒したわけじゃない。奴を倒し、世界に平和をもたらしてこその勇者なんだ。……僕はなれるだろうか、この本のような『勇者』に。
力強く僕を抱きしめるアレットの体は、少しだけ震えていた。
「ブライは、怖くないの?」
城の外が騒がしい。僕ら三人を送り出すために、王国中の人間が集まってくれたみたいだ。
「私は怖いよ。このままキミが戻ってこなかったらって、想像しただけで震えが止まらないんだ」
今にも泣きだしてしまいそうな声で、彼女は呟いた。
「……怖くないって言ったら、嘘になるかな」
僕は初めて、自分の本心を彼女に伝えようと思った。
「五年前のあの日、僕を襲ったあの魔物の姿が目に焼き付いてる。今でも、魔物と戦うときは怖くてたまらないんだ」
耳元で、彼女のすすり泣く声が聞こえる。
「だからこそ、こんな思いはもう誰にも味わってほしくない。誰も怖がらないでいられるように、僕は戦うんだ」
城門が開いていく音が、外の歓声にかき消されていく。
「大丈夫だよ。絶対無事に帰ってくるから」
アレットがそっと僕から離れる。そして彼女は目に涙を浮かべたまま、いつもみたいな柔らかい笑顔で、僕の頭を優しくポンポンと叩いた。
「……いってらっしゃい、気を付けてね」
「わかってるよ、いってきます!」
笑顔でそう言って、僕は振り向いた。外から差し込む光が、僕の仲間を照らし出している。まぶしそうに目を細める彼らの方へと、僕は駆けていった。