第七章
土と草の匂いがする。サァーっと風が通り抜けていく音と、揺れた葉っぱがこすれ合うような、そんな音が聞こえる。目を開けてみると、景色が横向きになっていた。地面に倒れてるみたいだ。体を起こそうと力を入れたとき、後頭部でズキッと、鈍い痛みが走った。
「いたっ! ……うわ! なんだこれ!」
慌てて手で押さえると、ベチャッという音と一緒に、手のひらに嫌な感触が広がった。恐る恐る確認してみると、左手は真っ赤に染まっていた。
「どこかでぶつけたのかな……」
その場に座り込んで、周りを見渡してみる。木がたくさん生えていて、森の中……なのかな。向こうの木の間から、低い位置に太陽が見える。朝なのか、夕方なのかはわからないけど……。
「……なんでこんなところに?」
何とか思い出そうとしてみても、頭の中からゴンゴンと、ハンマーで叩かれてるみたいな頭痛が邪魔をしてくる。
「ダメだ、なんにも思い出せない……。どうしよう……」
ゆっくり立ち上がってみる。体全体が重くて、どうしても足元がふらついてしまう。頭痛はひどいし、なんだか吐き気がする。どうしたらいいかわからなくて、不安で泣きそうになっていたとき、後ろの方でガサガサっと音がした。
「だ、誰かいますか!」
急いで振り返った僕の目に飛び込んできたのは、どこかで見たことのある生き物だった。
「グゲゲ……」
全身緑色で、髪の毛が生えてなくて、腰には茶色い布を巻いていて、耳と鼻が長くて、先が尖っている。僕の半分くらいの背丈のそいつが、背中を丸めてこっちを見つめながら、舌なめずりをしてる。
「ギギャガガガ……」
気味の悪い声を出しながら、ゆっくりこっちへ近づいてくる。そいつの右手をよく見ると、太い木の棒……こん棒みたいな物を持っていた。
「ご、ゴブリン……?」
あの見た目、きっとそうだ。何度も見たことがある、気がする。どこで見たのかはよく思い出せないし、なんだか違和感がすごいけど……。
「ガギャギャガァッ!!」
いきなり、ひどい叫び声を上げたと思ったら、そいつは右手に持ったこん棒を振りかざしながら、こっちへ向かってとびかかってきた。
「え!? う、うわあああ!!」
とっさに背中を向けて、転げるように逃げ出した。後ろから、何か固い物で地面を叩くような音が聞こえた。
「に、逃げなきゃ! やばい!!」
後ろを振り返る余裕はまったくないけれど、追いかけられていることだけはわかった。耳障りな鳴き声が、ピッタリ後ろをついてくる。頭痛も吐き気も、体のだるさも、感じている暇がない。怖い、助けて、殺される。頭の中は恐怖で埋め尽くされていた。せめてあいつが、僕よりも足が速くありませんように。祈りながら死にものぐるいで逃げ続けた。
「ごめんなさい!! 助けて!! 来ないで!!」
木と木の間をすり抜けながら必死で走り続けていると、目の前の景色が突然開けた。左右にまっすぐ、土でできた道みたいなところに出たみたいだ。
「誰か!! 誰かいませんか!! 助けてください!! 誰か!!」
道に沿うように進路を変えて、声を張り上げながらまた走り出す。体力に自信があったわけじゃないけど、叫びながら走るとこんなにキツいんだ……。
「助けて……! ……だっ!! うわあ!!」
息が上がって、心臓が痛くて、足が重くなって、つい目を閉じてしまった。足元に転がっていた枝か何かに気付かず、足を引っかけてしまって、地面にそのまま倒れこんだ。思いっきり顔を打ったせいで、鼻の奥がツーンとして、鉄の味がした。
「ギャギャギャギャ!!」
あいつの声が聞こえる。すぐ近くだ。怖い、嫌だ、死にたくない。うつぶせのまま、首だけで後ろを振り返る。牙をむき出しにしたそいつの顔は、まるで笑っているように見えた。こん棒を振りかざしながら、勢いよく僕の方へ向かってとびかかってくる。
「ギャガァ!!」
「わあああ!!」
涙で歪んだ視界の中で、棍棒が振り下ろされるのが見えた。あんな棒で思いっきり叩かれたら、どれくらい痛いんだろう。ゴブリンって、人間を食べるのかな。そんなことを考えながら、ぎゅっと目を閉じた。もうダメだ、誰か助けて……!
「グギャア!!?」
喉の奥から絞り出すような、悲鳴みたいな鳴き声が聞こえた。恐る恐る目を開けると、あいつの代わりに、そこに誰かが立っていた。
真っ赤な髪の毛の、綺麗な女の人。耳にかかった短い髪が、風に揺れている。銀色の鎧を身に着けて、左手には剣を持っている。両方に刃が付いてるから、あれはたぶん、ロングソード、みたいな名前の武器だったはず。陽の光に照らされた横顔は、海外の人みたいに鼻筋が通っていて、まるでモデルさんみたいな美しさだった。
心配そうな顔でこっちを向いたその左目には、黒い眼帯のようなものが巻かれていた。僕の方へ右手を伸ばして、何か話してるみたいだけど、意味が全然わからない。
とりあえず返事をしないと、そう思って息を吸い込むけど、どれだけ吸っても息苦しくて全然空気が体に入って行かない気がする。立ち上がろうにもめまいがすごいし、だんだん手足がしびれてきた。わけが分からなくて、怖くて、せっかく助けてもらったのに、僕死ぬのかな。そんなことを考えているうちに、ゆっくりと目の前が真っ暗になっていった。
ガキンガキンっという、金属がぶつかるような音が、遠くの方から響いてくる。目を開けてみると、白い石造りの高い天井が見えた。少しだけ体を起こしてみると、掛けられていたブランケットがずり落ちた。ベッドの上に寝かされているみたいだ。
横から声をかけられて、声のする方を見ると、さっきの女の人が微笑みながら僕の顔を覗き込んでいた。さっきみたいな鎧姿じゃなくて、ゆったりしたワンピースみたいな服に着替えてる。ベッドの隣、椅子に座ったまま、彼女は僕の頭に手を伸ばした。
いつの間にか、包帯が頭に巻かれていたみたいで、彼女はそれのズレを直してくれた。優しく、なでるような手の動きがくすぐったくて、でもなんだか嬉しくて。相変わらず何を言ってるのか全く分からないけど、僕のことを気遣ってくれているのは分かった。
「あ、ありがとうございます……」
ちょっぴり、恥ずかしがりながらお礼を言う。それを聞いた彼女は手を止めて、困ったような表情になった。
「ごめんなさい、言葉がわからなくて……」
言葉が通じないことに気付いたのか、彼女は顎に手を当てて考え込んでしまった。僕もどうすればいいかわからず、向こうの窓の外を眺める。さっきは夕暮れ前だったみたいで、今は景色がオレンジ色に染まっている。鎧を着た人たちが何人もいて、それぞれ剣をぶつけあって戦ってる。金属の音はあそこから聞こえてたみたいだ。
何かを呟きながら、ふっと立ち上がった彼女は、数歩後ずさりをしてから僕に向かって、手招きをした。立てってことかな。そう思って僕は、手をついて体を動かして、ベッドのふちから足を出す。下を見ると僕の靴が置いてあった。それを取るために身を屈めて――。
「いつっ……!」
軽い頭痛が起きて、そこまで痛くはなかったけど、思わず声が出てしまった。びっくりした様子の彼女が、慌てて駆け寄ってくる。しゃがんで僕の顔を覗き込みながら、後頭部に左手を添えて、右手で僕のほっぺたを優しくなでてくれた。
「だ、大丈夫です!」
心配させたくなくて、恥ずかしさを我慢しながら、ぎこちない笑顔を作った。心配そうに僕を見つめたあと、彼女は立ち上がってまた、後ろに下がった。靴を履いてゆっくり立ち上がって、彼女の前に立つ。
僕よりも、頭一つ分背の高い彼女がその場に屈んで、僕の顔を見て何かを呟いた。きっとまた、僕を気遣ってくれてるんだ。そう思って、軽く頷いてみる。少しだけ、笑顔になってくれたような気がした。
建物を出て、歩き出した彼女の後ろについて行く。噴水のある広場を通り抜けて、左右にいろんなお店が並ぶ、市場のようなところに出た。果物や野菜が軒先に並ぶ店の前で立ち止まると、彼女は店の人と何かを話し始めた。彼女はなぜか苦笑いだけど、店の人は満面の笑みだ。そうこうしているうちに、なんだか店の周りに人だかりができていて、みんなが笑顔で彼女を見つめている。エプロンを付けた人から、大きな包みに入った何かをもらったり、人気者なのかな。そう思ってたら、突然彼女に背中を優しく、ぽんぽんと叩かれた。その瞬間、みんなの視線が僕に向いた。まじまじと眺められてびっくりしたけど、彼女が優しく背中をなでてくれていたおかげで、そんなに怖くはなかった。
また歩き出すと、少し先の店で同じように店の人に話しかけては、僕の背中を優しく叩く。その度に顔を見られて、また別の店へ。市場の端っこまでそれを繰り返したあと、彼女はなんだか難しい顔のまま、屈んで僕の顔を覗き込んだ。じっと、顔を見つめられて、恥ずかしさで思わず目を背けてしまう。そのうち彼女は、困ったような笑顔を見せたあと、立ち上がってまた歩き出した。
路地を抜けて、町の中を流れる小さな川を渡る。少しずつ民家が減ってきて、代わりに自然が多くなっていく。人通りが無くなったころ、さっきまで立ち並んでいた民家よりも、少し大きな二階建ての建物が見えた。
玄関の前で立ち尽くす僕に向かって、彼女は中から手招きをする。お邪魔します、心の中でそう言って、軽く頭を下げながら家の中へ入った。靴を履いたまま、廊下を進む彼女を追いかけた。
扉を一つ開けると広い部屋に出た。大きな窓から見えた外の庭は夕日で赤く染まっている。部屋の真ん中には丸い何かが天井から吊り下げられていて、部屋の左側には暖炉と、その前に大きなソファが二つ。壁際の本棚のような家具の中はいくつか本が入ってはいるけれど、スカスカだった。部屋の右側には木でできたシンプルなテーブルと、椅子が四つ。キッチンのカウンターのようなものを挟んで、奥には戸棚がいくつか並んでいた。
手前の椅子を引いて、彼女は座面をトントンと叩いた。僕は頷いて、その椅子に腰掛ける。そして彼女は、一番奥の戸棚を開けてガラスのコップを取り出した。手前の戸棚からは、ガラスでできたジョウロみたいな入れ物を手に取った。中には透明な液体が入ってる。たぶん、水だと思う。僕の前にコップを置いて、ゆっくり注ぎ込む。僕の向かい側に座って、自分の分も注いで、入れ物をテーブルに置いて彼女はコップを持った。僕も同じようにコップを取って、彼女と同じタイミングでコップを傾けて口を付けた。ゴクっと、冷たい水が喉を通り抜けていく。なんだかすごく美味しくて、つい飲み干してしまった。
入れ物を手に、彼女は笑顔で僕に声をかける。たぶん、美味しい? とか、まだ飲む? とか、そんな感じだと思う。頷いた僕のコップの中へまた、冷たい水が注がれた。
そして彼女は、自分の顔を指差しながら何かを言った。聞こえたまま、繰り返してみる。
「アレット……?」
僕の言葉を聞いて、嬉しそうな顔で彼女は、首を大きく縦に振った。自分の顔を指差しながら、彼女はまた言う。
「アレット。***、アレット」
「アレット……」
僕が呟くたびに、彼女は嬉しそうに頷く。アレット。それがきっと、彼女の名前なんだ。
今度は僕の顔を指差して、アレットが何かを言った。名前を聞かれてるんだ、そう思って僕は、自分の名前を……。
自分の名前が、思い出せない。慌てて頭の中を探し回るけれど、出てくるのはさっきまでの出来事ばっかり。森の中で目が覚めたあの時、それより前の事がごっそり、抜け落ちたみたいに思い出せない。
「記憶、喪失……?」
自分が誰なのか、どこから来たのか、なんにもわからない。どこかで頭をぶつけたせいで、記憶が無くなっちゃったんだろうか。ズキズキ、嫌な頭痛がまた戻ってきた。
「……はっ、はっ……はぁっ……!」
ダメだ、なんにも思い出せない。自分の好きな物も、両親の顔も……。頭痛がどんどんひどくなっていく。目を閉じて頭を抱えて、痛みをこらえながら無理やり思い出そうとするけど、どこまで探しても頭の中は真っ暗で、何も見つからない。それがすごく怖くて、どうしたらいいかわからなくて……。
ガタガタっという音と一緒に、アレットの声が聞こえた。すぐ隣で足音が止まったけど、そっちを見ることもできない。恐怖と不安で押しつぶされそうになった心臓が、痛いくらい僕の胸を叩いてる。もういやだ……そう思ったとき、僕の体が何か、柔らかいものに包まれた。
気が付くと僕は、彼女に抱きしめられていた。ふわりと、花のような良い匂いがする。彼女は僕の耳元で何かをささやきながら、肩をぎゅっと、力強く抱き寄せて、けれども頭をなでるその手は、すごく優しくて、温かくて……。
「ふっ……うっ……! ぐぅ……うぁっ……!」
ほんとうはずっと、怖くて不安だった。泣き出しそうになるのを必死に我慢してた。だけど今、抑えきれずにあふれ出した涙が、少しずつ僕の中の暗い気持ちを洗い流してくれている気がする。彼女に頭をなでられるたびに、心の中がちょっとずつ軽くなっていった。
僕が泣き止むころには、家の外はすっかり暗くなっていた。何度も深呼吸をして、息を整える。薄暗い部屋の中、アレットの方を見ると、彼女はニコッと笑って、持っていたハンカチで、涙でぐしょぐしょになった僕の顔を拭いてくれた。子供みたいな扱いに少し恥ずかしくなって、思わず首を振って避けてしまった。そんな僕の様子を見て、彼女はなぜかクスッと笑った。
その後、アレットがステーキを焼いてくれた。分厚くていい匂いがして、味付けはシンプルなのにとても美味しくて、夢中でかぶり付く僕のことを、彼女は笑顔で見ていた。
廊下の方で手招きをしていたアレットについて行く。階段を上がって、扉を開けて、部屋の中へ。さっきの部屋の半分くらいの広さで、窓が二つにベッドが一つと、小さな机と椅子。たったそれだけの、少しさみしい感じの部屋。窓を少しだけ開けた彼女は、くるりと振り返って、僕の頭を優しくぽんぽん、と叩いた。そのまま、すれ違うように部屋から出て、扉に手をかける。最後に、僕に向かって笑顔を見せたあと、ゆっくりと扉を閉めた。階段を降りる音がだんだん小さくなっていくのを聞きながら、ベッドに腰かける。振り返ると、肩越しに窓から、丸くて大きな月が見えた。
……どうして彼女は、見ず知らずの僕にこんなに良くしてくれるんだろう。危ないところを助けてもらったうえに、あんなに豪華なステーキも食べさせてもらった。それに、寝るところまで。僕のことをすごく気遣ってくれてるし、不安で泣きそうになったときは、ぎゅっと抱きしめてくれたり……。まるでお母さんみたいな優しさで、僕に接してくれた。
一人きりの部屋でそんなことを考えていると、少しさみしくなってきて……。靴を脱いでそのまま、ベッドの上へ倒れこんだ。ふわりと、花のような良い匂いがする。アレットに抱きしめられたときと同じだ、そう思うと途端になんだか眠くなってきて、大きくあくびをした。
目が覚めて、体を起こして、窓の外を見る。真っ暗な空の中に満月が浮かんでる。ほんのちょっとだけ眠ってたみたいだ。
水が飲みたくて、部屋を出た。アレットはもう寝ちゃったかな。起こしちゃ悪いと思って、ゆっくり静かに階段を下りていく。最後の段を降りきったとき、リビングの方から物音がした。ドタンッと、何かが落ちるような。気になって扉を開けて、間から顔を出して中を見回してみた。月明りに照らされた部屋の奥、ソファの前でアレットがうずくまっていた。
「あ、アレット……? どうかした……?」
声をかけてみたけど、聞こえてないみたいだ。足元にはブランケットが落ちてる。部屋の電気も消えてるし、ここで寝てたのかな。そう思いながらゆっくり近付いてみると、彼女は体をガタガタと震わせながら泣いていた。
「な、なんで泣いてるの!?」
慌てて隣に駆け寄った。自分自身を抱きしめるその手は、指が肩に食い込むくらい強く握られてる。恐る恐る触れたその手はびっくりするほど冷たくて、それなのに彼女の首筋は汗だくで……。怖い夢でも見たのかな……。
彼女が声を震わせながら、か細い声で絞り出すみたいに、必死に何かを呟いてる。初めて会ったときの凛々しい姿。ふにゃっとした、柔らかい笑顔。僕を抱きしめて、頭を撫でる手の優しさ……。さっきまでの彼女とは全然違う。なんだか、別人みたいな……。
「大丈夫だよ、僕がそばにいるから、安心して……」
まるで子供みたいに何かに怯えるようなその姿に、いてもたってもいられなくて、なんとかしてあげたくて、彼女をそっと抱きしめた。僕が彼女にしてもらったように、優しくささやきながら頭を撫でてあげた。しばらくの間そうしていると、少しずつ彼女の泣き声が、体の震えが、ゆっくりと収まっていった。
アレットがまた、さっきみたいな笑顔を見せてくれた。まだ少し心配だったけど、最後に見た彼女の顔は、なんだかすっきりしたような表情をしてた。だからたぶん大丈夫。扉の隙間から手を振って、僕は部屋に戻った。ベッドの上で寝転がって、大人もああやって泣いたりするんだな、そんなことを思いながら、僕はまた目を閉じた。
次の日の朝、起こしに来てくれたアレットの顔は、また昨日みたいに柔らかい笑顔で、僕は朝からなんだか嬉しくなった。