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第六章

 洗面所の鏡に映ったのは、ぼんやりした顔の私。ぴょこんと跳ねた寝ぐせが、あちこちから顔を出している。毛先はパサパサで、折れたり曲がったり……。いつにも増してひどい髪形をしていた。うんざりした気分のまま蛇口を捻り、冷たい水を手ですくっては、眠気が流れ落ちるまで顔を洗う。目を瞑ったまま手探りで横の棚を漁り、タオルを手に取った。ごしごしと顔の水気を拭き取って、スッキリとした気持ちで目を開け鏡を見ると、私の背後にルシエラさんが立っていた。


「ひゅおっ……!!」


 声にならない悲鳴を上げて、腰が抜けそうになるのをなんとかこらえながら、後ろを振り返る。


「……大丈夫?」


「す、すみません! ちょっとびっくりしちゃって……!」


 彼女は腕組みをしたまま、心配そうな顔で私を見つめていた。


「いえ、黙って後ろに突っ立ってたあたしが悪いわね、ごめんなさい」


 少し俯き、解いた右手で髪留めに触れながら、彼女は謝罪する。素直な態度に少し驚きつつ、私は慌てて応える。


「あっ、いえ、そんな……だ、大丈夫ですよ!」


 胸の前で小さく両手を振る。すると彼女は視線だけを動かして、私の顔をちらりと見た。ふっと、表情が優しくなった気がした。


「……シオリ、だったかしら。ブライの言う通り。優しいのね、あなた」


「えっ? あ、いや、そ、そう、ですかね、えへへ……」


 昨日もそうだったけど、褒められ慣れていないせいか、ついつい照れて変な笑い方になってしまう。


「それにしても、思ったよりスムーズに会話できてるわね。言語体系が似てるのかしら」


「……えっ?」


 会話? あれ? さっきから私、ルシエラさんと普通に喋ってる!?


「あれ? えっ!? あれ!!? 日本語?! なんで!??」


「ちょっと、落ち着きなさいよ」


 いたって冷静なルシエラさん。対する私の頭の中では、ハテナマークがたくさん飛び交っていた。


「えっ? 私の言葉がわかるんですか???」


「わかるわよ、さっきから普通に会話できてたじゃない。あなたも、あたしの言葉がわかってるでしょ?」


「あっ、そうですね。……えっ? なんでですか!?」


 彼女は髪留めを取り外して、手のひらの上に乗せた。


「魔法をかけたのよ。この髪留めにね」


「魔法……髪留め……」


 先端に星の飾りがついた、小さなへアピン。よく見るとピンが少し歪んでいたり、星の先が欠けていたりと、結構年季が入ってるみたい。


「説明が難しいのよね、こっちじゃ存在しない概念だろうし……。ブライもきっと、詳しくは説明してないんでしょ?」


「そ、そうですね……。えと、魔素っていうのがあって、それが体の中で魔力に変わって……。その魔力を使って、なんか……いろいろなことをする、んですよね……?」


「ずいぶんフワフワとした認識ね。でも、悪くないわ」


 私のぎこちない話し方に、ルシエラさんはクスっと笑って髪留めを付け直す。


「あなたの言う通り、魔力を使っていろいろなことをするのが魔法よ。で、今使ってるのは翻訳の魔法。帰るまで四日もあるし、その間ずーっとブライに通訳させるのも煩わしいと思って、昨日の晩に新しく作ったの。それから、同じ魔法を何度も発動しないで済むように、適当な物体に魔法を込めておくこともできるの。魔道具っていうんだけど……」


「あっ、それで昨日、ずっとそれを触ってたんですね……」


「そうね。ま、魔法が完成した途端気が抜けちゃって、発動する前に寝ちゃったんだけど」


 ルシエラさんは自嘲気味にそう言って、苦笑いしながら視線を逸らす。


「あはは……。で、でも、新しく作ったって言いましたよね……? それって大変なことなんじゃないですか……!?」


「ん。まあ、そうね。既存の魔法の応用とはいえ、そう簡単にできることではないと思うけど……」


「すごい……! ブライさんの言ってた通りですね……!」


「へえ、ブライがあたしのことを? なんて言ってたの?」


「あ、えと、たしか、王国一の魔術師だとか、魔法開発の天才だとか……」


「そ、そう……。ま、まあ、当然の評価ね……!」


 ちょっと動揺しながらも、さも当たり前というような表情で微笑むルシエラさん。頬がほんのりと赤みを帯びている。


「んー……おはようっスー……」


 廊下の角から、眠そうな顔をした浜崎さんがのそっと現れる。ほとんど目が開いてないけどちゃんと前見えてるのかな……。


「あっ、浜崎さん。おはようございます」


「あら、おはよう」


「ふあぁ……ねむ……。休みだってのに朝早いんスねぇ、詩織ちゃん……」


 私のときと同じく、日本語で挨拶をするルシエラさん。浜崎さんはまだ気付いてないみたい。


「そう、ですね、生活リズムはキッチリしなさいって、言われてたので……」


「ほえー、偉いっスねぇ……。ウチ、夏休みなんて毎日昼まで寝てたっスよぉ……」


 彼女はそう呟きながらトイレの方へ、のそのそと歩いていく。ガチャリと、鍵のかかる音がした。


「……フフ、言葉が通じることにいつ気付くかしら。反応が楽しみだわ」


「えへへ、そうですね……」


 ニヤリと笑いながら、ルシエラさんは囁いた。楽しそうなその表情に、私もつられて笑顔になる。


「……そうだ、ルシエラさん。お風呂、入ります?」


「風呂? ……そんなに臭う……?」


 眉間に皺を寄せながら、彼女はローブの胸元を摘んで引っ張り、においを嗅いでいる。


「あっ! す、すす、すみません! そっ、そういうことじゃなくて……! えと、昨日、そのまま寝ちゃったので、汗とかで気持ち悪くないかなって……!」


「ああ、なんだ、そういうこと。びっくりしたわ、遠回しに臭いって言われたのかと……」


「ち、違いますよ! ルシエラさんは臭くなんてないです!」


 誤解されないように、首をぶんぶんと横に振りながら慌てて否定する。


「ありがと。じゃ、せっかくだから……。と思ったけど、着替えが無いわね……。向こうの拠点に置いてきちゃったわ」


「あっ、えと、下着なら、新しいのを用意してます。服も、私ので良ければお貸ししますので……」


「本当? 悪いわね、何から何まで」


「大丈夫ですよ。困った時はお互い様、ですから」


 そう言って洗面所の隣、お風呂場の扉を開く。


「素敵な考え方ね、思いやりがあって……。あなたらしいわ」


「あっ、えと、私が作った言葉じゃなくて、そういうことわざ……言い伝えというか、その……」


「大丈夫、伝わってるわ」


 上手く説明できない私を、ルシエラさんは優しく受け入れてくれる。


「そういう格言、教訓のようなものなんでしょう? だとしても、それをきちんと飲み込んだ上で、自分の言葉にして、進んで行動に移せる。そういうところ、尊敬に値するわ」


「そ、そう、ですか……? あ、ありがとう、ございます……!」


 思いがけず褒められてしまった。嬉しくて、なんだか照れくさくて、もじもじとその場に立ち尽くす。


「じゃ、早速入らせてもらおうかしら」


 そう言ってルシエラさんはローブを脱ぎ捨てて、中に着ていた服を勢いよく……!


「わわっ! ちょ、ルシエラさん! 待って……!」


 この家は間取りが変わっていて、脱衣所と呼べるような場所が無い。広めの廊下に直接洗面所が設置されていて、その隣にお風呂場がある。必然的に、お風呂に入るときはその辺りで服を脱ぎ着しないといけない。引き戸を開ければすぐ居間だし、トイレもすぐそばにあるから、着替えるときはすごく気を付けないといけなくて、とても不便だと思う。


「なによ? 服を脱がなきゃ入れないじゃない」


「そ、そうですけど! ちょっと堂々としすぎ……って、わー!」


 私が止めるのも構わず、腕を交差させて掴んだ服の裾を、彼女は一気に引っ張り上げた。思わず私は自分の手で顔を覆い隠す。そして指の隙間から恐る恐る、彼女の様子を伺った。


「……ぅえっ!? そ、それ! ど、どうなってるんですか!?」


 ルシエラさんの生首が、ふよふよとその場に浮いていた。


「首から下を魔法で隠したの。これなら、誰かに見られる心配はないでしょ?」


 空中に浮かぶ、ルシエラさんのドヤ顔。何かを脱ごうとしているのか、上下左右に動き回っている。とても奇妙な光景だった。


「な、なんだかちょっと、不気味ですね……」


「フフ、やっぱりそうかしら」


 彼女は笑いながら、風呂場の中へと入っていった。


「あっ、えと、そっちの取っ手を回すと、ここから水がでて、向こうを回すと温度が調節できます」


「温度が? どういう仕組みなの?」


「仕組み、ですか……? たぶん電気……。あれ、ガスだったかも……」


「ふうん? やっぱり、魔素が無いなら無いなりに、人は暮らしていけるってことね」


 透明な腕で手に取ったのか、シャワーヘッドが空中に浮かんでいる。それを不思議そうに眺める、首だけのルシエラさん。


「そ、それから、足元にあるボトルなんですけど、一番右がシャンプー……えと、髪を洗うやつで、その隣が髪を保湿するやつ、その隣が髪を保護するやつです。一番左は体を洗うやつなので、そこに掛けてあるスポンジと合わせて使ってください」


「いろいろあるのね、ありがとう」


「あっ、いえ、ご、ごゆっくり……」


 そう言って私は、風呂場の扉をゆっくりと閉めた。魔法だとわかっていても、空中に首が浮かんでいる光景は、正直言ってちょっと怖かった。


「んー……。あれ、ルシエラさんはお風呂っスかぁ?」


 いつの間にか、トイレから浜崎さんが戻ってきていた。


「あっ、はい。今入られたところです」


「ふーん……」


 なぜか疑うような視線を私に向けながら、浜崎さんは洗面台の前に立って、顔を洗い始めた。違和感に気付いたのかな?


「あっ、浜崎さん。隣、失礼します」


 歯磨きがまだなことに気が付いた。タオルで顔を拭く浜崎さんの横をすり抜け、歯ブラシを手に取る。水で濡らして歯磨き粉を付けて――。


「ところで詩織ちゃん、ルシエラさんには上手く説明できたんスか?」


「ほぇ? へふめいれふか?」


「シャワーの出し方とか、シャンプーのこととか。ルシエラさんは先に寝ちゃってたから、知らないはずっスけど……」


 そのとき、お風呂場の扉が少しだけ開いたかと思うと、ルシエラさんが顔だけを、ひょっこりと出した。


「シオリ、髪を洗うのって、一番右のやつでよかったかしら?」


「……は?」


「ふぁい! ほうれふ!」


「ありがと。フフ、歯磨き中ごめんなさいね」


「……えぇ!?」


 他愛のないやりとりをする私とルシエラさんの顔を、浜崎さんは大きく目を見開いたまま、交互に見比べている。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! ど、どうなってんスか!?」


「どう……と言われても、ねぇ?」


「えへへ……」


「なに笑ってごまかしてんスか! おかしいと思ったんスよ! 『詩織ちゃん、ブライさんもいないのにどうやってお風呂のことを説明したんだろう』って!」


「まあまあ、落ち着いて」


 そう言ってルシエラさんは、笑顔で風呂場の扉を開ける。そこには先ほどと同じように、彼女の生首だけが浮かんでいた。


「おわあああ!!」




「……はい! 乾きました!」


 ドライヤーを止めて、持っていたヘアブラシと一緒に棚に戻す。セミロングで軽くウェーブがかかった、綺麗な緑色の髪。ルシエラさんが頭を振るのに合わせて、左右にパサパサと揺れている。


「ありがと。それにしても、これはちょっと不便ね。魔法なら余分な水分だけを直接落とせるのだけど」


「あっ、そうなんですね……」


 毛先をくるくると、指でいじりながら鏡を眺めるルシエラさん。透明になる魔法は絵面的にちょっと不気味すぎたので、今は体にバスタオルを巻いてもらっている。


「まぁ、魔力を使わずに済むんだから我慢すべきよね。使い方、教えてくれてありがとう」


「あっ、いえ、とんでもないです……」


「しかし、こっちの人たちは大変ね、沐浴のたびにこんなに時間がかかるなんて。さっきみたいにいろんな薬品を顔に塗りたくったり……。しかもこれが毎日なんでしょ?」


 向こうの世界にもスキンケアの文化はあるみたいだけど、ルシエラさんは特に意識したことはないらしい。どうやら傷を治す魔法を使うと代謝が上がって、自然とお肌もツヤツヤになると……。


「ま、毎日どころか、朝晩二回はやってます……」


 私はせいぜい化粧水と保湿、ニキビができないようにしっかりと洗顔をするぐらい。最低限のことしかやってないけど、ほとんど毎回、面倒だなぁと思いながらやっている。


「そう……。それは、お気の毒ね……」


 ルシエラさんは鏡越しに、憐れむような目で私を見つめていた。


「……まだ怒ってるみたいね」


 振り返ったルシエラさんの視線の先、廊下の隅には浜崎さんが、膝を抱えたままこちらをにらみつけている。


「あ、あはは、ほんとですね……」


 浜崎さんへのちょっとしたイタズラのあと、風呂場で大笑いするルシエラさんに代わって、魔法で言葉が通じるようになったことを伝えた。ついでにそれを黙っていたことを謝ったけど、『ごめんで済んだら公安は要らないっス』と言ったあと、あそこでふさぎ込んでしまった。


「もう、悪かったわよ。ほら、機嫌直して」


 浜崎さんの前で腰をかがめて、顔を覗き込むルシエラさん。ずっと膨れっ面だった浜崎さんが、ようやく口を開いた。


「……ルシエラさん、おっぱいおっきいんスねぇ」


「は?」


「えぇ……?」


 屈んだルシエラさんの谷間をじっと見つめて、浜崎さんは呟いた。


「何を言い出すかと思えば、まったく……。謝って損したわ」


 ルシエラさんは立ち上がり、浜崎さんを見下しながら、腕で谷間を隠す。


「女性同士でもセクハラは成立するんですよ」


「ちょっ、詩織ちゃんまで……二人とも目がマジじゃないっスか! 違うっスよぉ、ウチは用意したブラが合うかなって思っただけで!」


 昨日、ショッピングモールで買ってもらったのは、ローブを着た状態のルシエラさんに合わせたサイズの、スポーツタイプの物だった。ぱっと見た感じ、Lサイズで十分だろうと思っていたけど……。着痩せするタイプなのかな。


「……まあ、確かにそうですね。もう一つ上のサイズにしたほうがよかったでしょうか……」


「詩織ちゃんも大きい方じゃないし、ウチは見ての通りの有様っスから、貸してあげられそうにもないっスねぇ」


 立ち上がった浜崎さんは、自分の胸の前で手を上下させて平坦さをアピールしている。


「別に、長めの布さえあれば大丈夫よ。普段は動きやすいように、ぐるぐる巻きにして潰してるぐらいだし」


 そういえばさっき、洗濯機に入れるときにそんな感じの物を見かけたような。


「とりあえず、持ってきてみますね」




「イヤリング……ですか?」


「そう。ネックレスとかでもいいんだけど……。何か、首から上に装着できそうなアクセサリーが欲しいの」


 私がペットボトルから注ぐ水を、両手で受け止めながらルシエラさんは言った。


「マシャドに持たせるための魔道具として、少しのあいだ借りられないかしら」


 私はそういうのに興味がないから、あいにく一つも持っていない。


「そうですね……。あとでちょっと、おばあちゃんに聞いてみます」


 ペットボトルが空っぽになったころ、宙に浮かぶ水の塊が、白く淡い光に満たされた。


「悪いけどお願いね」


 ルシエラさんの手の動きに合わせて、ぐるぐると渦を巻くように生まれた水流が、まるで蛇のように空中を泳ぐ。幻想的な光景に見とれていると、水の蛇はゆっくりと、私の持つペットボトルの中へ流れ込んでいった。


「すっげぇ……マジの魔法じゃないっスか……!」


「そういえば、浜崎さんは見るの初めてでしたね」


 ふたを閉め、ルシエラさんにペットボトルを手渡す。


「まだ寝室にいるのよね? 飲ませてくるわ」


「わかりました、私はちょっと外へ……」




「……これでいいのか?」


「あっ、すごい……」


「おお! 聞き取れるようになったっス!」


 マシャドさんの言葉が、日本語で聞こえるようになった。よく見ると、聞こえてくる音と口の動きが微妙に合ってなくて、映画の吹き替え版みたいな感じになっている。今気付いたけど、思い返せばルシエラさんもそうだった気がする……。


「うおっ! 急に言葉がわかるようになったぞ!? ……どういうことだ?」


「さっき説明したでしょ……。まあいいわ、上手くいってるなら」


「はは、これで僕も、通訳の手間が省けて楽になりそうだ」


 そう言ってブライさんは立ち上がり、二人の間に立つと、こちらへ振り返った。


「改めて紹介するよ。こいつはマシャド。世界で一番タフで頼れる男だ」


 バシッと、肩を叩かれたマシャドさんは勢いよく立ち上がり、白い歯を見せながらニカッと笑って、両手で力こぶを作ってみせた。


「おう! 前衛なら任せとけ! よろしくな!」


「ぜ、前衛……。ってことは、タンクなんだ……」


「あはは、こちらこそよろしくっス」


 鍛え上げられた腕の筋肉に、褐色の肌と真っ白い歯。なんだかボディビルダーみたい……。


「それから、二人はもう直接話したみたいだけど、改めて……。彼女はルシエラ。ありとあらゆる魔法を使いこなす、世界一の天才魔術師だ」


「ちょっ、馬鹿! 言い過ぎよ……!」


 ルシエラさんは慌てて、ブライさんの背中をバシッとはたいた。表情は怒ってるみたいだけど、ほっぺたが真っ赤に染まっている。


「よ、よろしくお願いします……!」


「よろしくっス、天才魔術師さん……?」


「は、ハマサキ……! あんたね……!」


 さっきの仕返しと言わんばかりにルシエラさんをからかう浜崎さん。すごくむかつく顔してる……。


「そんでこいつが、我らが勇者! ブライだ!」


 そう言い放つと、マシャドさんはブライさんの背中を、バシッと激しく叩いた。


「ぼ、僕もやるのか? まあいいけど……」


 そう呟きながら、ブライさんは一歩前に出る。


「じゃ、改めて……。僕はブライ、よろしくね。……なんだか恥ずかしいな」


「えへへ……。よろしくお願いしますね……!」


「こうなると、ウチらもキチンと挨拶しとくべきっスよねぇ」


 私の隣に立っていた浜崎さんが右手を上げて、敬礼のポーズを取る。


「警視庁公安部第五課、異界対策室所属の……って言ってもわかんないっスよね。すいません! ただの浜崎っス! 好物は甘い物で趣味はケーキバイキング! 辛い物はちょっと苦手っス! よろしくっス!」


「あっ、甘党なんですね。ちょっと意外……」


 買い物のとき、やたらとお菓子をカゴに入れてたのって、そういうことだったんだ。……ていうか昨日のカレー、結構辛口だったけど大丈夫だったのかな……? そういえば一人だけ汗だくだった気も……。


「ふぅん? 辛い物の魅力が理解できないなんて、味覚の方はお子様なのねぇ」


 そう言って残念そうに、首を横に振るルシエラさん。こっちはこっちで辛党なんだ……。だから昨日、カレーを二回もおかわりしてたんだ……。


「……いまのはちょっと聞き捨てならないっスねぇ。天才大魔術師様ともあろうものが、まさか人の好みにケチをつけるだなんて、お行儀が悪いっスよぉ?」


 腕を組み、ルシエラさんを見下すような態度の浜崎さん。変わらず笑顔のままなのが怖い……。


「あら、ケチをつけるだなんて、そんなつもりはないわよぉ? ただ、可哀そうだなぁって、そう思っただけ」


 ここぞとばかりに浜崎さんを煽るルシエラさん。二人の目線がぶつかって火花が散っているのが見える……。


「ま、この二人は放っておいて……。シオリ、次は君の番だよ」


「……えっ、私もですか?」


 ついさっきまでにらみ合ってたはずの二人を含めて、みんながじっとこっちを見ている。


「順番でしょう?」


「あとは詩織ちゃんだけっスよ」


「あ、あはは、そう、ですよねぇ……えと、あー……」


 緊張で言葉が出てこない。そういえば、学校でクラス替えの後もこんな風に、みんなの前で自己紹介をする時間があったっけ。みんなが私を見ていると思うと、緊張で口ごもってしまったり、声がすごく小さくなっちゃったりで、上手くいったためしがない。先生には何度もやり直すように言われて、その度に早くしろよってみんなに言われてるような、クラス中のため息が聞こえてくるような……。そんな嫌な思い出が一気に、頭の中でフラッシュバックする。シャツが背中に張り付き、首筋を汗が流れ落ちる。


「あっ、その、え、えと、わ、わたしは……」


 ぽんっと、肩に何かが乗った。隣に立つ浜崎さんの手だ。昨日もこんなことあったっけ。そう思いながら彼女の方を見る。笑顔のまま、何も言わずに私を待ってくれている。ブライさんたちだってそうだ。大丈夫、そう自分に言い聞かせて、震える拳をぎゅっと握って、しっかり前を向いて、言葉を絞り出す。


「……わ、私の名前は、し、詩織、です……! えと、す、好きなものは、お、お母さんの玉子焼きで、き、嫌いなものは、えと、な、生のお魚、です……! よ……よろしくっ、おねがい、します……!」


 みんなの反応を見るのが怖くて、言い切ると同時に思い切り頭を下げた。でも、時間はかかっちゃったけど、ちゃんと自己紹介、できた気がする。


「おっ! ブライと一緒じゃねえか!」


「えっ!?」


 マシャドさんの言葉に、思わず頭を上げてブライさんの方を見た。


「あんたも、生魚苦手よね?」


「んー。好きではない、かな」


「何強がってんのよ。毎回、私かマシャドに寄越してくるくせに」


「ありゃ、意外っスね。ブライさんはなんとなく、食べ物の好き嫌いはないイメージだったっスけど」


「……食べようと思えば、食べれるよ……」


 顔を伏せたまま、ぶつぶつと呟くブライさん。そうなんだ、ブライさんも生魚、苦手なんだ……。嫌いな食べ物が同じってだけなのに、なんだかすごく嬉しい。


「そう、なんですね……! えへへ……」




 鼻をくすぐる、朝ご飯のいい匂いに気付いたのは、そのあとだった。畑に出ていたおばあちゃんが帰ってきて、朝ご飯の支度をしてくれていたみたい。居間の食卓に並ぶ、豪華な献立。大盛りのご飯にしめじのお味噌汁。目玉焼きとベーコン。キャベツの千切りとトマト。そして味付け海苔のパックが、一人一個ずつ置かれていた。


 食べ始める前に、言葉が通じるようになったことを二人に伝えたけど、魔法で、とはさすがに言えなかったので、そういう機械があるんだよと、しっかり噓をついた。二人とも、『最近のてくのろじーっちゅうもんはすごいなぁ』と言ってたので、きっと大丈夫。


 そうしてみんな、揃って朝ご飯を食べた。昨日の晩御飯はフォークとスプーンで食べられる物だったから、ブライさんたちにとっては、これがお箸との初対面となった。慣れない動かし方に耐え切れず、指先をつってしまったマシャドさん。複雑な持ち方と繊細な力加減に苦戦しながら、ぎこちないながらもなんとか使い方を習得したルシエラさん。なぜか当たり前のように、完璧に使いこなすブライさん。……そういえば、昨日も普通にそうめんすすってたっけ……。




 ペチにごはんをあげて部屋に戻ると、押し入れから出した小さなちゃぶ台の上で、浜崎さんが開いたノートパソコンの画面を、ルシエラさんが興味津々な様子で覗き込んでいた。


「簡単に説明すると、っスよ? 実際にはもっと複雑な仕組みだと思うんスけど、ウチはこれ以上わかんないんで……」


「十分よ、ありがとう。しかし、魔素が無い世界ではこういった発展の仕方をするのね、興味深いわ……」


 同じく押し入れに入ってた扇風機が、首を振ってみんなに風を送っている。ふすまのすぐ横で寝転がっているマシャドさんを踏まないよう、気をつけて部屋の中へ入る。自分の布団の前に腰を下ろしてもたれかかり、上からずり落ちてきた枕を抱きかかえた。ブライさんの姿が見当たらないけど、トイレかな?


「あっ、詩織ちゃん、おかえりっス。……んじゃ、始めますかぁ」


「始める……って、何をですか?」


 浜崎さんがノートパソコンを操作すると、画面に松島さんの顔が映し出された。


「あー、あー。どうだ、聞こえてるか?」


「おっけーっス、こっちはどうっスか?」


「うわ、すご……。声だけならまだしも姿まで、しかもこんな鮮明に……? 魔法無しでよくもここまで……。ていうか魔法効いてるし……干渉し過ぎでしょ……」


 ルシエラさんは先ほどから忙しなく、いろんな角度から画面を覗き込んでいる。


「おお? 俺の聞き違いか? 日本語で喋ってるように聞こえるんだが……」


「むぅ、さすがに気付くの早いっスね……。どうやら、翻訳用の魔法があるみたいっス」


「ほーそりゃまた便利な。んじゃせっかくだから……ルシエラさん、聞こえてますかね?」


「ええ、聞こえてるわ」


「どうも。すいませんがその翻訳の魔法とやらの仕組み、詳しく教えてもらえませんかね」


「いいけど、知ったところでどうするの?」


「魔法というものがどういうものでどういう仕組みなのか、サンプル程度に情報を収集させていただきたくて」


「ふーん。んじゃ、なるべく解り易いように話したほうがよさそうね」


 そう言って、ルシエラさんは浜崎さんの隣に腰を下ろした。


「大昔に開発された魔法で、自分が考えていることを、相手の脳内に直接伝達するものがあるの。元々は魔術師同士での、極秘のやり取りのために開発されたものよ。伝えたい内容を魔力に込めて相手に送る、そんな感じね。その魔法では特殊な処理をしていて、自分の考えを魔力へ込める際に、いろいろな要素に分割してから落とし込むようにしてあったの。要素っていうのは例えば、そうね……」


 キョロキョロと、辺りを見回すルシエラさん。なぜか私の方を見たときに、彼女の目が止まった。


「シオリ、悪いんだけど今持ってるそれ、貸してもらえない?」


「え? これですか? いいですけど……」


 不思議に思いながらも私は、抱えていた枕をルシエラさんに手渡した。


「ありがと。例えばこれ。あたしたちの世界でも、この道具は存在してるし、使い方も一緒よ。でも、名前だけはきっと違う」


「枕か、そっちではなんて名前なんでしょう?」


「今あたしがこれの名前を言ったところで、翻訳されちゃって意味が無いわよ」


「ああ、そりゃそうか……」


「例えばこれ、この道具をあなたに伝えるために、まず魔法の中でいくつかの要素に分割するという工程が挟まれる。例えば色、形状、使い方なんかが、視覚的な情報としての要素ね。柔らかいとか、温かいとか、そういう感覚的な要素もあるし、それから単に、道具としての名前も当然、要素としてあるわ。それ以外にも、これに対してあたしが抱いているイメージ……例えばそう、『眠い』だとか『安らぎ』だとか、そういう感情的な要素もあるわね」


「は、はあ……」


「そうやって分割された、この道具に対する要素を魔力に込めて、今度はあなたの頭の中で再構築する。例えばこの枕。これの要素をいくつか抜き出すと……『この道具は眠るときに使うもので、頭の下に敷くもの。柔らかくて、中に何かが詰まっている』とかかしら。ここまでわかっていれば、それが枕だと誰でもわかるでしょう? この情報を元に、あなたの頭の中でこれに合致する物を探して思い浮かばせる。これがこの魔法の原理よ。つまりこの魔法は、きちんとした知識があって文化レベルが同程度であれば、たとえ言葉が通じなくてもコミュニケーションができるようになる、そういう魔法でもあったのよ」


「ほ、ほう……?」


「それで、この魔法を応用して作ったのが翻訳の魔法よ。本来は一方通行の魔法だけど、意識を向けた相手にあらかじめ魔力を渡しておくことで、往復で機能するように改良したの。他にも、会話をベースにするにあたって要素分割の最適化を……っと。この辺はどうでもいいわよね」


「へ、へえ……」


 は行の相づちを三連発する松島さん。正直私もついて行けてはない。


「まあ、そんな感じかしら。どう? 極力理解しやすいよう、嚙み砕いた説明をしたつもりだけど……」


「あ、ああ! そうですよねぇ、ありがとうございます! すごくわかりやすかった、ですよ! ははは……」


「……ぜってーわかってねーっス」


「あ、あはは……」


 体を反らし、こっちを向いて私にだけ聞こえるよう、浜崎さんは小声で呟いた。


「ま、一つだけ欠点があるとすれば、分割された要素を組み立てて自分たちの言葉にする処理を、当人の脳に任せているせいで、話せば話すほどお互い疲れてくるってところかしら。何か、甘いものが欲しいわね」


「お菓子ならたくさん買ってあるっスよ」


「あっ、私持ってきますね」


 立ち上がって歩き出し、マシャドさんを踏まないように部屋を出て、小走りでキッチンへと向かう。冷蔵庫の横の戸棚を開けて、お菓子がパンパンに入った袋を取り出す。両手で抱えたまま、部屋に戻ろうと廊下に出たとき、奥からブライさんがやってきた。


「あっ、ブライさん」


「大荷物だね、しかもお菓子ばっかり」


「えへへ。せっかくだから、みんなで食べませんか?」


「いいね、楽しそうだ」


 そう言ってブライさんはひょいっと、私からお菓子の袋を取り上げた。


「僕が持つよ」


「あっ……! あ、ありがとう、ございます……!」


 お菓子ばっかりでそんなに重くないし、部屋まで持っていくぐらい、大した負担ではなかった。それでも、当たり前のように向けられた不意の優しさに、胸の奥がキュンと締め付けられる。


「ずいぶんたくさん買ったんだね」


「あっ、そ、そうですね……! は、浜崎さんがどんどんカゴに入れてっちゃって……!」


 胸のドキドキを抱えながら、彼のすぐ隣を付いて歩く。部屋に戻るまでほんの数秒、顔の火照りは治まりそうにない。




 詩織は袋の中から、赤いパッケージに包まれた板チョコを取り出し、少し銀紙を剥がしてからルシエラに手渡した。


「これ、えと、チョコレートっていうんですけど……」


「あら、こっちでもチョコは作られてるのね。味も同じだといいんだけど」


 受け取った板チョコに、ルシエラはそのまま噛り付いた。パキッと、小気味良い音を立ててチョコが割れる。ポリポリという咀嚼の音を聞きながら、詩織は緊張した様子でじっとルシエラの口元を見つめる。


「……ふーん、なかなかね。でも、ちょっと甘すぎないかしら」


 その言葉とは裏腹に、満更でもない表情でもう一口、彼女は噛り付いた。その様子を見てホッとする詩織と、ムッとした顔つきの浜崎。


「チョコが甘くて何が悪いんスかぁ? それともなんスか、そっちの世界ではチョコにトウガラシでも入ってるんスかぁ?」


 おちょくるかのようなその言い方に、ルシエラはあからさまに苛立ちの表情を浮かべ、浜崎をキッと睨み付けた。二人の視線の中心に火花が散る。


「……まあ、そんなくだらないことは一旦置いといて……」


 すんなりと目線を切り、ルシエラはその場に座り直す。拍子抜けしたような顔の浜崎を尻目に、ふすまの前に立ったままのブライを見つめ、彼女は再び口を開いた。


「ブライ、そろそろいいかしら?」


「……ああ、もちろん」


 声をかけられたブライは、少しその場で考え込むかのように目を伏せ、されどもすぐに顔を上げ、答えを返した。足元で寝転がり、肘枕をついていたマシャドを揺さぶって起こすと、部屋の中央に腰を下ろした。


「聞きたいことは山ほどあるわ。例えばそう、言語の事とか。魔法も無しに、当然のように会話してるわよね?」


 ちゃぶ台を挟んで向かい側に座るブライに対して、鋭い眼差しでルシエラは問いかける。


「そもそもあなた、こっちの世界に馴染み過ぎなのよ。さっきもあれ、お箸……だっけ? 手先の器用なあたしでも、使いこなすまで結構練習が要りそうな道具だってのに、まるで日常的に使ってたかのように扱ってたでしょ? 昨日だってそう。あの乗り物に乗ってるとき、あたしが寒いと言ったらあなた、慣れた手つきで風を止めたわよね。どうしてあそこを弄れば風が止まるって、少し見ただけでわかったの?」


 尋問じみた追及にもブライは怯むことなく、ルシエラの目をじっと見つめている。


「ああ、そういえばブライさん、車で現場まで向かうときも、特に驚くことなく乗り込んでくれたっスよね」


「た、確かに……警察署へのバスや電車にも、全然びっくりしてませんでした……」


「それに、一番謎なのはその肉体よ。魔力を完全に失ったのにも関わらず平然としてるし……。今のあんたは、息継ぎせずに水の中に潜り続けてるようなもんなのよ? どうなってるわけ?」


 固く、沈黙を貫いていたブライだったが、ここにきてようやく、重い口を開いた。


「……今まで黙っててごめん。なんとか、自分の中で答えが出せたよ。……長くなるかもしれないけど、みんな聞いてくれる?」


 顔を上げ、真剣な表情で皆の顔を見回すブライ。その場の空気が張り詰めるなか、彼の背後に座っていたマシャドが答える。


「なんだかわからねえが、そこまで言うってんなら面白い話なんだろうな?」


 振り向き、期待に満ちた表情のマシャドを見て、ブライの表情が和らぐ。


「聞いてくれるか? って……。当たり前でしょ、そもそもこっちが聞かせろって言ったんだから。前置きはいいからさっさと話しなさいよ」


「……それもそうか」


 呆れ顔のルシエラに皮肉られ、ブライは少し凹んだ。隣で見ていた浜崎は思わず吹き出したがすぐに持ち直し、平静を装いつつ声をかける。


「……まあなんにせよ、決心がついたみたいでよかったっス」


 空気が和み、柔らかくなった雰囲気の中で、詩織はブライの顔をじっと見つめていた。ブライが視線に気付き目をやると、彼女は意を決したように、恐る恐る口を開いた。


「あ、あの……! わ、私も、聞かせてください……! ブライさんの話……!」


 詩織の力強い眼差しに答えるかのように、ブライは背筋を正して座り直し、頷いた。


「……ありがとう。それじゃあ、まずは……」


 そして彼は、自らの過去に思いを馳せながら、ゆっくりと語り始めた。


「始まりは……そう、五年ほど前。僕はその日、とある森の中で目が覚めたんだ」

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