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第五章

 日暮れが近付き、ビルの切れ間から差す光がアスファルトをオレンジ色に変えている。うだるような暑さも少し落ち着き、通り抜ける風がようやく涼しさを取り戻した。


 道端には黒いワゴン車。チカチカと、ハザードランプが点滅を繰り返している。助手席側のドアにもたれかかり、自らを手でパタパタと扇ぎながら、浜崎は病院の裏口を見つめている。


「……お、こっちっスよー」


 手を振り、後部座席のドアへと手をかける。ゆっくりと、自動で開いていくドアには目もくれず、裏口の方へと歩いていく。


「マシャドさんの体調はどうっスか?」


「意識もはっきりしてるみたいだし、大丈夫だと思うよ」


 目を丸くして、辺りをキョロキョロと見回しながら歩くマシャドの背中を、ルシエラが杖で小突きながら追いかける。最後尾を歩く詩織は苦笑を浮かべている。


「さっきも言った通り、マシャドさんの斧やら鎧やらはこちらで預かってますんで、もし必要であればそいつに連絡させてください。それじゃ、私は手続きやら後処理やらがありますんで、ここで失礼させていただきますね」


 先導していた松島が振り返り、会釈をする。


「いろいろとお世話になりました、ありがとうございました」


「あ、あの! 私も、えと、いろいろと、あ、ありがとうございました……!」


 ブライは軽く頭を下げ、詩織は深々とお辞儀をした。


「んじゃ、後は頼んだ。……しっかりやれよ」


「了解っス!」


 松島は背中を向けたまま浜崎に声をかけ、そのまま病院内へと戻っていった。


「僕たちは後ろでいいんだよね?」


「そっスね。詩織ちゃんは助手席で、道案内お願いするっス」


「わ、わかりました」


 残った五人は揃って車へと向かう。ブライに後部座席へと誘導されたマシャドは、躊躇なく車に乗り込む。ルシエラはその様子を、信じられないといった表情で見つめていた。


「ハマサキ、少しいい?」


 運転席側へと向かっていた浜崎を呼び止め、そちらへ向かおうとするブライ。だが、ルシエラが彼の服の裾を引っ張り、引き留めようとする。するとブライは彼女の頭を、ポンポンと手で優しく叩きながら小声で何かを呟いた。ルシエラはブライの顔をじっと見つめたあと、そっと手を離す。


「ルシエラさん、まだウチらのこと疑ってるっぽいっスよねぇ……」


 隣にやってきたブライに対して、浜崎は小声で話しかける。ブライもそれに合わせ、声を抑えて返答する。


「あー、そうだね……。ごめん、彼女はそういう性格で……」


「まあこればっかりはしょうがないっスかねぇ……。文化も言語も違うわけっスから、怪しむのもしょうがないっス」


「僕からも、もう少し信頼するように言っておくよ」


「そうしていただけるとありがたいっス」


 へらへらと笑いながら、ヘコヘコと頭を下げる浜崎。


「それより、よかったの?」


「……と、言いますと?」


「僕たちを監視する役割、べつに他の人間に任せてもよかったんでしょ? しかも僕たちが帰るまでずっとなんて、大変じゃないか」


「あー……」


 ポリポリとこめかみをかきながら、浜崎は困った表情を見せる。


「んー、なんというか、そうっすねー……」


 彼女はキョロキョロとあたりを見回したあと、さらに小声で話し始めた。


「ウチがこの組織に入ってから、外異人さんの発見報告が三回。そして三人とも、発見されてから一度も意識が戻らないまま亡くなってしまってるっス。今ならそれも、魔力が無くなってしまったせいだったんだとわかるっスけど、その時はなんにもわかってなかったっスから、駆けつけた病室で亡くなってしまった人たちの顔を見るたびに『また救えなかった』とか『ウチらはなんのためにいるんだろう』とか、ずっと考えてて……」


 ボンネットにもたれかかり、何かを思い出すかのように空を見上げたまま話す浜崎。


「でも、今回は違う。ブライさんとはきちんと会話もできてるし、ルシエラさんのおかげで、マシャドさんも助けることができた。あとは皆さんを無事、向こうの世界へ送り届けることができれば、そのとき初めてウチがやってきたことに意味が生まれるんじゃないかって、そう思ってて……」


 ほんの少しだけ微笑みながら、彼女は目線を下ろした。


「とにかく! やーっとちゃんとした仕事ができそうなんス! 最後まで自分の手でやり遂げたいって思いがあるんで、皆さんが向こうに帰るその瞬間まで、付き纏わさせてもらうっすよ!」


 ブライの目を真っ直ぐ見つめながら、彼女はそう言い放つ。いたずらな笑顔で、あまつさえ、ウインクまでしてみせた彼女に、ブライは少し驚きながらも笑顔を返す。


「そっか。なら、とことん付き合ってもらうよ!」


「あはは、お手柔らかに頼むっスよー」




「詩織ちゃんは何が好きなんスか?」


 買い物カートに山積みにされた食材。下段には米の入った袋も載せられている。


「わ、私ですか……? そう、ですね……」


 棚に並んだたくさんのお菓子の前で、詩織は立ち尽くす。


「やっぱりこれ、ですかね……。最後までチョコたっぷりですし……」


 そのうち、四角いパッケージのチョコ菓子を手に取った。


「わかる! ウチも好きっス! ちっちゃいころ、タバコみたいに咥えて遊んでたっス!」


「あ、味じゃないんですね……」


「もちろん味もっスけど。さ、どんどん突っ込むっスよ」


 詩織から受け取ったチョコ菓子、それ以外にも目のついた物を適当に手に取り、カートの上のカゴに突っ込んでいく。


「ほ、ほんとにいいんですか……? お米とか野菜とか、お肉も買ってもらっちゃったのに……」


「気にしなくていいんスよー。ぜーんぶ経費で落ちるっスから。さ、次はこっちー」


 向かったのはスキンケア用品の棚。横歩きしながら一つずつカゴに突っ込んでいく。


「クレンジングオイルに洗顔にー、化粧水と美容液、保湿クリームと……日焼け止めもー」


「そ、それってほんとに経費で落ちます!?」


 慌てて問いかける詩織。立ち止まった浜崎は肩越しに振り返り、何かを企んでいるかのような顔を見せる。


「ふっふっふ……詩織ちゃん……。これは全部、ルシエラさんのために買うんスよ……? 環境が違えば肌にかかるストレスも増える……。だからこれは、必要な物なんス……。必要経費ってヤツっスよ……。決してウチらも使いたいから買うわけではなく……」


「そ、そんなドヤ顔で言われても……」


 得意げな表情で棚を眺める浜崎。詩織はカゴの中を覗き込み、血の気が引いた。


「そういやルシエラさんに限らず、あっちの人はお肌のケアとかってどうしてるんスかねぇ」


「あー、どうなんでしょう……。私の想像上の異世界って中世の鎧着た人が居てーって感じの文化レベルなんですよね。技術的にはこっちの世界より遅れてる可能性もありますけど……。でももしかしたら肌のお手入れも魔法を使えば一瞬で終わっちゃったりして……。って……!!」


 慌てて口元を隠し、やってしまったという表情の詩織。しかし浜崎は、意にも解さずといった様子。


「うあー、そうだとしたらズルいっスよぉ……。ウチらは毎日あんなに時間かけてるってのに、魔法でちょちょいのちょいなんて。……あれ? どうかしたっスか?」


「あっ、いえ、えと、なんでもないです……」


 小首を傾げる浜崎。詩織は目を逸らし誤魔化す。


「見た感じ、ほっぺたもツルツルでハリがあったし……。ていうか、パッチリ二重でまつ毛も長いし、鼻筋も通ってて、なんか外国の人みたいな顔立ちっスよね。いいなぁ……」


「あはは……。マシャドさんも彫りが深くて、ハリウッドの人みたいな感じですよね。向こうの人はみんなそうなんでしょうか?」


「……でも、ブライさんはそんな感じじゃなくないっスか?」


「た、確かに……。かっこいいですけど、外国の人って感じじゃなくて……」


「どっちかっていうと日本の若手俳優さんみたいな顔してるっスよね。あっちの世界でもいろんな人種があるんスかねぇ……」


 商品をカゴに突っ込むのに飽きたのか、ようやく二人はレジの方へ向かって歩き出した。




「……浜崎さん、あの……」


 店から出て車へと向かう途中、レジ袋が満載となった買い物カートを押す浜崎を、詩織が呼び止めた。


「車に乗る前に、ちょっとだけ、いいですか……?」


「いいっスよ。どうかしたんスか?」


「すみません、えと、さっき、病院を出るときに……」


「……あー。もしかして、聞いちゃったっスか?」


「あっ、えと、はい、すみません……。盗み聞きするつもりはなかったんですけど……」


「あはは、まあいいっスよ。別に隠したかったわけでもないっスから」


「すみません……。その、黙ってるのもどうかと思って……」


 申し訳なさそうに俯いたまま、詩織は立ち尽くす。


「大丈夫っスよ、ウチも気にしてないっスから」


「……すみません、ありがとうございます。それから、宿のことも……」


「ああ、あれはただ、そっちのほうが楽しそ……経費の節約になると思って、提案しただけっスから」


 へらへらと笑いながら、浜崎は答える。恩に着せないような彼女の態度にもどかしさを感じてか、詩織は反抗する。


「そ、それでも! お礼を言わせてください……! こんな私なんかのために……」


「ダメっスよ、そんなこと言っちゃ」


 ふっと笑顔が消え、真剣な眼差しで詩織を見つめる浜崎。


「ウチらはこれが仕事だからやってるんス。でも詩織ちゃんは、言ってしまえば無関係。ウチらがブライさんと接触できた時点で、面倒だからと言って帰っちゃっても、誰も文句は言わなかったはずっス。でも、そうしなかったのは何故っスか?」


「そっ、それは、その……ほっとけなかったっていうか……」


「それっスよ。目の前で困ってる人を見過ごせない。見ず知らずの人だとしても、こーんなに優しくできるんス。詩織ちゃんは十分立派な人っスよ」


「そ、そそ、そんな、立派だなんて……!」


 思いがけず褒められてしまった詩織。慌てふためく彼女の背後に、人影が一つ。


「ハマサキの言う通りだよ」


「おわぁ!? い、いたんですか!? ブライさん……!」


 驚きのあまり、その場で飛び上がるかのように詩織が振り返ると、そこにはブライの姿があった。


「車の中から二人の姿が見えたんでね。荷物の積み込み、手伝うよ」


「ありがとっス。んじゃ、行きますかぁ」


 改めてカートの取っ手を握り、車の方へ向かって歩き出す浜崎。


「い、いつから聞いてました……?」


「ん? ああ。今来たところで、話はほとんど聞いてないから安心して」


「そ、そうですか……」


 詩織に笑顔を向け、浜崎の後を追うブライ。二人の背中を、詩織は自分の鼓動が落ち着くまで眺めていた。




 浜崎さんと相談した結果、おじいちゃんおばあちゃんには、あっちの世界のことは伏せることにした。二人に理解してもらうにはちょっと複雑すぎると、私が判断したからだ。浜崎さんには現地ガイドさんという立ち位置になってもらって、ブライさんたちのことを、海外旅行でたまたまこっちへ来ていた、外国の人だと紹介した。


 その途中、ルシエラさんに向かって、片言の英語でコミュニケーションを取ろうとしたおじいちゃんに対しては、余計なことをしないで、という気持ちから危うく手が出そうになった。車から降ろした、宿泊代の代わりとしての大量の食材に対して、特に断るそぶりも見せずに、『貰えるもんは病気以外やったら何でも貰うで』と言い放ったおじいちゃんに対して、なんでそんなことを恥ずかしげもなく言っちゃうの、という気持ちで嫌いになりかけたりもした。


 そうしてる間もずーっと、ペチは庭の方で吠えまくっていた。あとでみんなに紹介してみたけど、ルシエラさんは動物が苦手なのか、ブライさんの後ろに隠れていた。それから、ブライさんとマシャドさんがせっかく撫でようとしてくれていたのに、ペチはずっと浜崎さんにくっついていた。スケベな奴め……。


 そうして最低限の説明と、挨拶を終えた私たちを待ち受けていたのは、張り切りすぎたおばあちゃんが作った、盛大な晩御飯だった。おじいちゃんが趣味でやっている畑で採れた野菜を、ふんだんに使用した夏野菜カレー。お皿に山盛りの鶏の唐揚げに、冷凍のポテトフライを揚げたもの。唖然とする私を尻目に、おばあちゃんはドヤ顔で、『若い子は茶色いもん好きやろ?』と言っていた。個人差があるでしょ……。そんな私の思いを裏切るかのように、ブライさんとマシャドさんはまるでお互い競うかの如く、とてつもない勢いで食べ進めていた。少し心配だったルシエラさんも、ブライさんに献立の説明を受けたあと、すぐに食べてくれたので、受け入れてくれたんだなと安心した。というか、カレーに至ってはおかわりしてたし、食べてる間はずっと目が輝いてたし、気に入ってくれたのかな? そんなこんなで、にぎやかな食事の時間は無事終わった。




「そっちの世界でもお風呂には入るんスよね?」


 昼夜を問わずエアコンを付けっぱなしにしていた家とは違って、こっちでは窓を開けているだけで結構涼しい風が入ってくる。標高が高いせいか、街中とは空気の質が違うような、そんなにじめっとしていない感じがする。扇風機を回していれば十分耐えられるような気温だった。


「もちろん。旅の途中は野宿になることも多いから、川や湖での水浴びで済ませることになるけど」


 長方形の大きな座卓。それを囲むように、みんなが自由な体勢でくつろいでいる。机に突っ伏して、組んだ腕の上に顎を乗せている浜崎さんと、あぐらをかいて座るブライさんが、机を挟んで話をしている。彼の隣に、足を崩して座っているルシエラさんは外した髪留めを手でもてあそんでいる。私の向かい側ではマシャドさんが仰向けで倒れているが、ブライさん曰く、食べ過ぎで苦しいかららしい。


「うわぁ。それ、冬とかだとキツくないっスか……?」


「いや、そうでもないよ。ルシエラが魔法で水を温めてくれるから」


「でた! 魔法! やっぱ便利なんスねぇ……」


「そ、そんな地味な魔法もあるんですね……」


 水を温める魔法。つまりどこでもお湯を沸かせる魔法ってことかな。便利かどうか微妙なライン……。 


「そうだ、さっき買い物のときにも詩織ちゃんと話したんスけど、ルシエラさんはお肌のケアってどうしてるんスか? 一応、洗顔料やら美容液やらは最低限用意させてもらったっスけど……」


「お肌のケア……?」


「そうっス! 男の人はわかんないかもしれないけど、女の子は必死なんスからね!」


 なぜかふくれっ面でそう言い放つ浜崎さん。


「そ、そっか……。よくわからないけど、とにかく聞いてみるよ。……っと、ルシエラ、大丈夫?」


 ルシエラさんの方を見ると、とても眠そうな顔で、こっくりこっくりと頭が前後に揺れていた。


「あらら、疲れちゃったんスかね」


「……限界みたいだ。シオリ、寝床に案内してくれる?」


「わ、わかりました、こっちです……!」


 私は急いで立ち上がり、奥の部屋へと向かう。すぐ後ろにはブライさんと、眠気のせいか足元がフラフラのルシエラさん。


「この部屋です。……すみません、おばあちゃんが勝手に布団引いたので、みんな一緒に寝ることになっちゃったんですけど……」


「大丈夫だよ、むしろシオリはそれでよかったの?」


「あっ、はい、えと、これはこれで、なんだか楽しそうだなって……」


 ブライさんに手を引かれ、布団の上へと案内されたルシエラさんは、眠そうな顔で私の方を見て軽く頭を下げたかと思うと、すぐに布団の中に潜り込んでしまった。


「はぅっ……」


 思わず、喉の奥から感嘆の声が漏れた。さっきまであんなに無愛想な、全てを疑っているかのような態度を取っていたルシエラさんが、まるで寝ぼけた子供のような無防備な表情で、私に対しておやすみの挨拶をしてくれた。単純な私はそれだけで完全に彼女の虜になってしまった。薄暗い豆電球の明かりに照らされながら、すやすやと寝息を立て始めたルシエラさん。その横顔はまるで……。


「お姫様みたい……」




「あれ……? マシャドさんは……」


「ああ、あいつもなんだかんだ疲れてたみたいで、今頃は夢の中だろうね」


「あっ、そうなんですね。浜崎さん、お風呂空きましたよ」


「んー、了解っス」


 ノートパソコンを閉じて大きく伸びをしたあと、浜崎さんは立ち上がり、私の隣をすり抜けてお風呂へと向かった。居間にはブライさんだけ。ルシエラさんみたいに隣に座る勇気も、浜崎さんのように真正面に座る勇気もない私は、なんとなく彼の、斜め向かいのところに腰を下ろした。


「かわいいね」


「どうぇっ!? な、なんですか!?」


「えっ? いや、そのパジャマ、かわいいなって……」


「あ、あー! そ、そうですか……!? あ、ありがとうございます……!」


 びっ……くりした……。いきなり過ぎて心臓止まったかと思った……。


「それは……クマかな? いや、耳の形はネコ……?」


「あっ、えと、どっちも正解です」


「どっちも……?」


「この子は『くまにゃん』っていって……猫耳の付いたクマのキャラクターなんです」


「くまにゃん……」


 ゲームのマスコットキャラクターの顔が全身にあしらわれたパジャマ。中学のときに買ったものだけど、ところどころがよれてきた今でも着続けている。


「ネットで見つけて、かわいいなと思ってつい買っちゃって……。肌触りが良くってずっと着続けててるんですけど……子供っぽくないですかね……?」


 言ってるうちに少し恥ずかしくなってきて、自嘲気味に問いかけた。するとブライさんは私の目を見つめ、微笑みながら口を開いた。


「いいと思うよ。それに、気に入ってるんでしょ? 他人の目を気にする必要なんてないよ」


 ブライさんの言葉が、すっと胸の中へ染み込んでいく。大げさだけど、今までの自分を認めてもらったような……。じんわりと、胸の奥が温かくなる。


「そう、ですかね……えへへ……」


 すごいなぁ。こんなに真っ直ぐ、自分の意見を言えるなんて。勇気があって、かっこよくて……。


「……顔が赤いけど大丈夫?」


「え!? そ、そうですか!? なんででしょう!? の、のぼせちゃったかなー!? あはは……!」


 慌てて顔を逸らし、背後にあった扇風機のスイッチを入れる。ブライさんには背を向けて三角座りになり、顔をパタパタと手で仰ぐ。恥ずかしいから早く治まってぇ……。


「おばあちゃんはもう寝るでー」


 奥のふすまが開き、おばあちゃんが顔を出す。おじいちゃんは寝るのが早いから、たぶんもう二階に上がったんだろう。


「暑いんやったらクーラー入れてもええんやで。お兄ちゃんもおやすみ」


「あーうん! わかった! おやすみ!」


「ありがとうございます、おやすみなさい」


 スーッという音とともにふすまが閉じられた。庭の方から、いろんな虫の鳴き声が響いてくる。扇風機が起こす風の音。騒がしいようで、静かな部屋の中。しばらくの間、私とブライさんは二人きりだった。




「……涼しいね」


 心臓の音が落ち着いてきたころ、不意にブライさんが口を開いた。


「そうですね……。標高が高い分、涼しく感じるらしいですよ」


「へえ、シオリはなんでも知ってるんだね」


「あっ、いえ、えと、昔、おばあちゃんがそう言ってたので……」


「そっか」


 また、静かになる。この沈黙が、なんだかもどかしいような、なぜだか心地いいような。このまま、こんな時間がずっと――。


「いやーさっぱりしたっス! 詩織ちゃん、ドライヤーはどこっスか?」


 廊下へと続く引き戸が、ガラガラッと勢いよく開かれる。薄着の浜崎さんが、髪をタオルで拭きながらそこに立っていた。


「あっ、洗面台に……。えと、こっちです」


 晴れ晴れとした、なにも考えてないような顔の浜崎さんにモヤモヤとした思いを抱えつつ、洗面所へと案内する。


「ありがとっス。……それで、ブライさんと何話してたんスかぁ?」


「……へっ?」


「二人っきりだったんスよねぇ? どんな話してたのか教えてくださいよぉ」


 浜崎さんは肘で小突きながら、小声で話しかけてくる。


「べ、べつにそんな、普通の話ですよ……!」


「ふーん? ほんとっスかぁ……?」


「も、もう! からかわないでください……!」


 そう言い捨てて私は居間へと戻る。背後から聞こえてくる、ドライヤーの音。それに隠れるように、ちいさくため息をついた


「ふぅ……」


「ん? どうかした?」


「うひゃあ!? き、聞こえてました……!?」


 結構離れてるし、ブライさんには背中を向けてたはずなのに、なんでわかったんだろう。


「野営中、魔物に陰から突然襲われたりもするからね、耳は良い方なんだ」


「あっ、なるほど……。確かに、先制攻撃とかされちゃうと面倒ですもんね……」


「それで、ため息なんかついて、どうしたの?」


「あっ、いえ、ちょっと、浜崎さんにからかわれちゃって……」


「はは、そっか。まったく、悪いヤツだなぁ」


「ほんとですよ……」


 足元で回り続けていた扇風機を止め、キッチンの方へ。冷蔵庫を開いて、奥にあった麦茶の容器を手に取る。後ろの戸棚からコップを三つ取り出してそれぞれに注いだあと、容器を戻して扉を閉めた。左手で一つ持ち上げて、右手で二つを……と思ったけど、意外と難しい。コップが大きめなのもあると思うけど、もしかして私の指、短いのかな……。左右を持ち替えてみたり、伸ばしすぎて指を攣りかけたり、いろいろ試行錯誤してみたけど、自分がどうしようもなく不器用だったということが分かっただけだった。軽く落ち込みながら、視界の端に映ったお盆を手に取り、コップを三つ乗せた。


「ブライさん。お茶、飲みます?」


「お、ありがとう。いただくよ」


 お盆を机の上へ。その場に屈んでコップを一つ手に取り、こちらへやってきたブライさんの前へ置く。もう一つを手に取り、足を崩して座り直す。そのまま口元へ……ていうか、飲むかどうか先に聞いてから入れるべきだったような気もする。これでもしブライさんに断られてたら私、どうするつもりだったんだろう。もったいないから自分で飲む? そのままキッチンへ戻って容器に戻す? どちらにしても情けなさすぎる。ちょっと気を利かせてみようかな、なんて浅はかな思いで深く考えず行動したせいだ。運良くブライさんも喉が渇いてたみたいだからよかったものの……。いや、もしかしてブライさん、気を遣ってくれてる……? 『喉なんて全く渇いてないけど、せっかく入れてくれたし飲まないとな……』なんて思わせちゃってる……!? どうしよう、私、自分が許せないかも……!


「……飲まないの?」


「……はっ! すみません! ちょっと考え事を……」


 ブライさんの手元を見ると、コップの中身はすでに半分以下にまで減っていた。結構飲んでるみたいだし、嫌々ってわけじゃなさそう? とりあえず一安心かな、そう思って私も、口元に構えたままのコップをゆっくり傾けて……ちょっと待って、浜崎さんはどうなの? お風呂上がりだし水分補給は大事だと思うけど、本当に麦茶でよかった? ミネラルウォーターとかのほうがよかったかも……。もしかして、お風呂上がりは牛乳一気飲み派の人だったりする? 『えぇ……。今、麦茶っスか? センスないっスねぇ……』とか思われたりする……!? そんなの、耐えられないかも……!


「ドライヤーありがとっスー」


 引き戸が開く。極度の緊張にさらされた私は、コップを固く握りしめたまま一ミリも動けないでいた。


「っと、もしかして、ウチの分も入れてくれたんスか? ありがとっスー」


 浜崎さんの腕が目の前を横切る。コップを掴み、それが口元へと運ばれていくのを、視線だけで追っていた。


「……ぷはー! 生き返るー! いやぁ、やっぱり詩織ちゃんは気が利くっスねぇ」


「あ、あはは、それほどでも……」


 よかった……。助かった……。あんなことやこんなこと、もし本当に言われてたら、二度と立ち直れないぐらいの傷を負ってたかもしれない。あぁ、なんだかとても喉が渇いたなぁ……。肩の荷が下りた気持ちで、ようやく自分のコップを傾ける。冷たい麦茶が喉を通り抜けていく感覚が気持ちいい。そのまま一気に飲み干してしまった。


「……ぷはぁー!」


「お、いい飲みっぷりだね」


「あは、ホントっスねぇ」




 音を立てないよう、静かにふすまを開く。窓越しに、小さく聞こえる虫の鳴き声。涼しい風を吐き出し続けている、クーラーの音。それに紛れて、二つの寝息が聞こえる。


「ブライさんはここ、ルシエラさんの隣で……。あっ、浜崎さん、それは私の布団です……!」


 六畳間の一室。部屋の隅の机を避け、布団が五つ敷かれている。机の目の前は私の布団。隣の布団に浜崎さんが座り、その隣には、まるで眠り姫のようなルシエラさん。廊下側の端っこにブライさん。その足元、九十度回転させた形で敷かれた布団で、マシャドさんが眠っていた。


「んー、涼しくていい気持ち……」


 布団にうつ伏せに寝転んで、猫みたいに大きく伸びをする浜崎さん。


「寒くないですかね……? 特にブライさんのところ、直接風が当たりやすいところなんですけど……」


「大丈夫だよ。布団もふかふかだし」


 そう言って、ブライさんは布団を被る。


「あっ、浜崎さん。明日って、何時に起きなきゃとかありますか?」


 枕元のスマホを手に取り、アラームの設定を開く。


「んー……ないっスー……。目が覚めたら起きるだけっスー……」


 いつの間にか、浜崎さんは布団を被って目を瞑っていた。


「あっ、えと、松島さんが、聴き取り……? とかって言ってませんでしたっけ……?


「あー……じかんは言ってなかったっスから……べつにいつでも……」


「そ、そうですか……」


 どんどん呂律が怪しくなっていく。きっと眠気で、どうでもよくなってるんだ。アラームの時間はそのまま、音が鳴らないように設定を変更した。


「じゃあ、えと……その、お、おやすみなさい……!」


「ああ、おやすみ」


「……おやすみっスー……」


 目を閉じて、今日一日を振り返る。本当に、いろんなことがあったなぁ。山の中でコスプレイヤーに会ったと思ったら、それがまさかの異世界転移者で、仲間に会いに行ったら公安の人に出会って、もう一人の仲間を探しにあっちへ行ったりこっちへ行ったり。かと思ったら突然目の前に現れて、本物の魔法まで見ることになった。……人前で泣いちゃったのは、まだちょっと恥ずかしいな。みんなで一緒にご飯を食べて、いろんな話をして……。なんだか、ハラハラドキドキの大冒険って感じだった。楽しかったなぁ、こんなに楽しかったのは生まれて初めてかも。明日はどんなことが起きるんだろう……。ああ、でも、人前に出るのはダメなんだっけ。じゃあ、せっかくだから、向こうの世界のこと、いろいろ聞いてみたいな。どんな魔法があるんだろう。どんな魔物がいるんだろう。きっと、退屈はしないんだろうな。楽しみだなぁ……。

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