第一章
「詩織ー? ごめんだけど明日から二週間ぐらい、ばあちゃんちで寝泊まりお願いね」
高校二年の夏休み。夕飯のあと、いつものようにお風呂へと向かう私を、お母さんが呼び止めてそう言った。
「……は?」
「お母さん、明後日から出張なんだけどさぁ、お父さんも年内に、視察に行かなきゃいけない場所があったみたいなのね。ちょうどいいやってことで予定合わせたんだー」
お母さんは昔からこんな感じ。お父さんは苦笑いしたまま何も言ってこない。思い立ったが吉日、お母さんらしいといえばらしいけど、振り回されるほうはたまったもんじゃない。
「ってことで、明後日から家に誰もいなくなるから。ばあちゃん家で預かってもらってー」
「ちょっ……! ちょっと待ってよ! そんないきなり言われても……!」
「えー? 今は夏休みなんだし、どうせ今年も部屋にこもってゲーム三昧のつもりだったんでしょ? 持っていけば一緒じゃない」
「そ……れはそう、だけど……!」
まさかバレてたなんて……。焦りと恥ずかしさで、つい顔を伏せてしまった。
「も、持っていくって言ったって、モニターもゲーム機もってなったらすごい重さで――」
「明日、お父さんの同僚の人が車貸してくれるんだって。私たちも着いてったげるから」
「そ、そこまで用意できてたならもっと早く言っといてよ! 私だって心の準備が……!」
「大丈夫大丈夫! 暮らしてみたら意外といいとこだよ。なんも無いけど」
お盆やお正月は毎年欠かさず遊びに行くし、すごく可愛がってもらってるから今更気兼ねするような関係じゃないけど、それにしたってあそこは田舎すぎる。
「なんにも無さすぎなの! 山奥で虫もいっぱいいそうだし、それに……!」
バスは一時間に一本。周りを見渡しても山か畑しかない。テレビはローカル局か、全国ネットの番組は何日も遅れての放送になる。そんな典型的な田舎。極めつけは……。
「あそこ電波めちゃくちゃ悪いじゃん!!」
「あれで全部か?」
車のトランクを閉め、振り返ったお父さんに対して、私は小さく頷く。
「んじゃ母さん、この子のこと、よろしくねー」
後部座席に座ったままのお母さんが、私の隣に立つおばあちゃんへと声をかけた。
「あんたらこそ気ぃ付けていくんやで!」
「なんか美味そうな土産買うてきてくれやー」
手を振りながらおじいちゃんが言った。お父さんが助手席に乗り込むと、車はゆっくりと走り出した。窓越しに、こちらへ向かって手を振る二人。不満をたっぷりと込めた視線を送っているうちに、車は山の向こうへと走り去っていった。
「……はぁー、もう行ってしもたわ。相変わらず忙しい子や」
「詩織ちゃんも気の毒に……。あの子に振り回されてばっかりなんとちゃうのぉ?」
「……うん。もう、慣れたけど……」
おっとりとした口調で、おばあちゃんが私を気遣ってくれる。
「思いつきで生きてるようなもんやからね、あの子も。ほな、ご飯できるまでゆっくり待っててなぁ」
玄関へ向かう二人の背中を見送ったあと、私は縁側の方へ向かう。ここで生活するにあたって、挨拶をしておかなければならない住人が、もう一匹。
「ペチー! 久しぶりー!」
「ワン! ワン!」
庭の隅。おじいちゃんお手製の犬小屋に繋がれた、真っ白なワンちゃん。四年前、二人の七十歳のお祝いのときに、お母さんが知り合いから貰ってきた雑種の男の子。何と何のミックスかは、貰ってきたお母さんも知らない。顔がそれっぽいから、私は勝手に柴犬だと思ってる。毛がもふもふで人懐っこくて、好奇心旺盛なやんちゃ坊主だ。
「おまたせ、ごめんね? 荷物が多くて……」
私が来ていることに気付いて、さっきからずっと呼んでくれていた。ちぎれそうなほど高速で尻尾を振り、私が近付くと飛びかかってきた。後ろ足で立ち上がって、私の顔を舐めようと必死でジャンプを繰り返す。
「ちょっ、顔はやめて……! だ、だめ! 待て! 待って!」
興奮状態で跳ねまくるペチをなだめ、縁側の棚からおやつを取り出し、右手で握り込む。
「おすわり! ……はい、ペチ! どーっちだ?」
両手で握りこぶしを作り、ペチの顔の前へと突き出す。彼は私の指の隙間に鼻を突っ込んで、必死で匂いを嗅いでいる。左右の拳を何度も往復したあと、彼は自らの右足を、私の左手の上へ置いた。
「はーいざんねん! こっちでした! これだけはいつまで経ってもできないねー……?」
右手を開いて、おやつを食べさせてあげる。お手もおすわりも、待ても伏せも完璧にこなすけど、なぜかこれだけはいくらやっても成功しない。
「詩織ー! ご飯できたでー!」
「はーい! ペチ、また後でね」
ペチの頭をひと撫でして、私は玄関へと向かった。
十数年前までお母さんが暮らしていた、奥の部屋。二週間の間お世話になるその部屋の中で、私はゲーム機のセッティングをしていた。お母さんが昔使っていた勉強机を起点に、モニターやゲーム機を設置して、ケーブルを配線して、と……。ふと部屋の端に目をやると、おばあちゃんが敷いてくれていた布団が目に入った。お風呂上り、クーラーの効いた部屋、ふかふかの羽毛布団。さぞ気持ちいいんだろうなぁ……。そう思いながら横になり、体をもぐりこませてほんの数秒。私の意識はそこで途切れている。
体を揺すられている気がして、ふと目を開いた。『電気付けっぱなしで寝たらアカンでぇ』と、そう言われて初めて、自分が寝落ちしていたことに気付く。ちょっと布団の感触を確かめようとしただけだったのに。
今の時刻を確かめようと、スマホの画面をタップした。表示された時計を見て、こんなに長い時間寝ちゃってたんだとびっくりする。それに充電せずに寝てしまったせいか、画面に表示されたバッテリーの残量は今にも力尽きてしまいそうだった。自分のだらしなさに少し後悔したけど、これまでにないほどスッキリとした目覚めだったので、まあいいかと思いながら体を起こした。スマホを充電用のケーブルに繋ぎ、布団の上へ放り投げた。
「よし! じゃ、行こっか? ペチ」
こっちに来たら、ペチの散歩について行くのが当たり前だった。リードを握るのはおじいちゃんかお父さんで、私はその横をついて行くだけだった。今日、私は初めてこの子のリードを握る。散歩コースはバッチリ覚えてるし、余裕でしょ。そう思って一歩目を踏み出した瞬間、肩が外れるんじゃないかと思うほどの衝撃が走った。
「どわあああ!!」
地面に引き倒されそうになるのを必死でこらえ、腕に力を込める。成熟した中型犬の力を、どうやらみくびっていたらしい。ほとんど引きずられているような、そんな感覚で山の方へと向かって走り出す。
「ちょっ! ごめんペチ! ちょっと待ってほしいかも!!」
あまりの勢いに恐怖を感じて、無理やりリードを引っ張ってペチを止めたけど、首輪で喉が締められているのか、なんだか苦しそうだ。リードをたぐるようにゆっくりとペチの元へ向かい、体を抱きしめて落ち着かせようとする。
「ごめん、苦しかったよね……? 大丈夫だから、ゆっくり、ね……?」
頭や体を撫でているうちにどうやら興奮も収まったようだ。今なら大丈夫かも。そう思って、意を決して立ち上がった。その瞬間、ペチは再びロケットスタートを切った。
「ゆっくりって言ってるでしょおおお!!」
普段はのんびりと、景色を眺めながら歩いていくはずの散歩道。今は前方以外を見る余裕がない。おじいちゃんとの散歩のときはもちろん、たまにしかないお父さんとの散歩のときも、こんな速さで走ったりなんかしないのに。
「なんで私のときだけえええ!?」
運動不足のせいか息が上がってきた。まだ涼しい時間帯だけど、じっとりと嫌な汗が流れている。普段なら往復で二十分ほどかかる散歩道なのに、ものの数分で折り返し地点まで来てしまっていた。何度も足がもつれ、転びそうになりながらなんとか食らい付いてきたけど、これ以上はもう……。そう思った瞬間、突然ペチは急ブレーキをかけるかのように、ピタッと止まった。
「ぜぇ、はぁ……と、止まった……。 ゲホッ! お、お願いだからもっとゆっくり……」
膝に手をつき、肩で息をしながら顔を上げる。耳と尻尾をピンと真上に向けて立たせ、舌を出し荒く息を吐きながら、ペチは山の奥の方を見つめていた。この散歩道は、ここに設置されたお地蔵さんに挨拶をして帰る、そういうコースだ。この先にはなにもないし、人の立ち入りもほとんどないせいで道が悪く、木の根っこや岩がむき出しになっていて歩き辛い。ペチもそれを知っているため、ここまで来たら自分から引き返す、はずだった。
「……ど、どうしたの? ほら、行こうよ。帰りはもっとゆっくり、いつもみたいに景色とか見ながら――」
そのとき、バリン! と、何かが割れるような、そんな音が道の先から聞こえた。
「な、なんの音!? なんか割れた……。ガラス? こんな山の中で……? 誰かいるのかな……?」
緩やかにカーブした道の先、音のした方を覗き込んでも、ここからは何も見えない。同じように向こう側を見つめていたペチが不意にこちらを見上げ、ふと目が合った。尻尾を激しく振りながら、キラキラとした瞳でこちらを見つめてくる。
「気になる……よね? ……ちょっとだけ見に行ってみよっか……!」
「わふっ!」
私の言葉に、ペチは一つ大きな返事をした。木の根を踏みしめ、岩を避けながら、私たちは足並みを揃えて歩き出した。
バシャン、という水の音とともに全身が叩き付けられ、鎧越しに衝撃が走った。体が沈んでいかないところを見るに、水深は浅いようだ。
「痛ったぁ……」
ゆっくりと体を起こし、背中を丸めたまま辺りを見回す。どうやらどこかの川の中に落ちたらしい。周囲には木が生い茂り、頭上からは木漏れ日が優しく降り注いでいる。川のせせらぎの音を掻き消すように、セミたちの声が響いていた。
ここはどこだろう。どこか見覚えのある光景だが、魔王城付近の森はもっと暗い雰囲気だったはず。魔王の爆発に巻き込まれたところまでは覚えているが……。
立ち上がろうとする足に力が入らない。体のあちこちが痺れているような感覚だ。残っていた魔力を全て防御に回して備えたはずが、それでも耐え切れないほどの衝撃だったらしい。全身のあらゆる場所が鈍い痛みに包まれている。幸い、骨の異常や目立つ怪我は無さそうだが、体力の消耗は思っているよりも激しいようだ。魔力切れの影響だろうか目眩がひどく、今にも気を失ってしまいそうなほど意識が朦朧としている。とはいえこのまま、ここでじっとしているわけにはいかない。魔王を倒したとはいえ魔物はそこら中に生息している。こんな状態では低級の魔物ですら苦戦しそうだ。
「せめて……森から出ないと――」
ガサガサっと、草をかき分ける音が聞こえた。後方に何かの気配を感じる。襲撃に備え、剣を構えようとするが、手元には何もない。爆発の衝撃で落としてしまったのだろうか。武器を失い、立ち上がれないほど疲労している。そんな絶望的な状況だが、やるしかない。覚悟を決め、座ったままゆっくりと上半身を捻り、背後を振り返った。
「……犬?」
白い犬だった。人を襲うような危険な魔物は対峙するだけで威圧感のようなものを感じるが、その犬からは全く感じられない。耳をピンと上に立て、舌を出し尻尾を振っている。そのあまりの迫力の無さに緊張の糸が切れ、肩の力が抜けた。
「ワン!!」
一度大きく吠えたあと、その犬はこちらへ向かって走り出した。そのまま僕の周囲をぐるりと一周し、正面から飛びかかってきた。避けることもできず、呆気なく押し倒される。
「ぬあっ! ちょっ、待っ……! やめろぉ……!」
執拗に顔を舐め回す犬。必死の抵抗も虚しく、みるみるベトベトになっていく。
「こ、こら! ペチ! だ、ダメでしょ!」
なんとか犬を退け体を起こす。犬がいた方を見ると、長い黒髪の少女が木の陰からこちらを覗いていた。ボサボサで寝癖だらけなうえ、長い前髪が邪魔をして前が見え辛そうだ。
まさかこんな森の中に人がいるとは。とはいえ、人間が(犬を連れているとはいえ)一人で散策できるということは、どうやらこの森は比較的安全なようだ。ほっと一息をつき彼女の方を見たが、目が合った途端に木の後ろへ隠れてしまった。
「あ、あの! す、すみません! うちの犬が、その、えっと……」
「いや、大丈夫……気にしないで……。少し、聞きたいことがあるんだけど……」
犬を撫でながら彼女に声をかけてみたが、何かボソボソと呟いてばかりで返答がない。
「あの格好……いやそんな……でもあの衣装……いやいやこんな田舎で……? でも……」
「あの! ちょっといい……?」
「うひっ! ご、ごめんなさい! ……あ、は、はい……。い、今行きます……」
恐る恐る木の陰から出てきた彼女は、顔を伏せつつ上目遣いでこちらをチラチラと見ながら、オドオドとした態度でやってきた。
「そんなに怖がらなくても……」
「すす、すみません……! わ、私、人見知りで……その……」
「そうか……それはごめん……。すぐに……おわる、から――」
パシャっという水の音とともに、視界が横向きに倒れる。限界だ、体に力が入らない。
「うえっ!? あっ! だ、大丈夫ですか!?」
「まずい……。い、意識が……」
彼女の叫ぶ声が段々と遠くなっていく。そのまま目を閉じ、意識を手放した。
「ど、どど、どうしよう!? し、死んじゃった!? ……わけじゃないよね……?」
すやすやと寝息を立てて眠るブライを見下ろしながら、詩織は頭を捻る。
「と、とりあえず、介抱……しなきゃだよね……。で、でも、私一人じゃ運べないし……」
慌てふためき、彼女はブライの周りをウロウロと歩き回る。
「き、救急車……? どうしよう、携帯置いてきちゃった……。でも戻るにしても、一人置きっぱなしにするのはマズイよね……?」
頭を抱える詩織をじっと見つめるペチ。
「……よ、よし! とにかく、私一人じゃどうしようもないよね! うん! じゃあ、えっと、ペチ! あなたはこの人を見張ってて!」
彼女はペチの首輪から伸びるリードを拾い上げ、近くの手頃な石にくくりつけた。
「待て! いい? 待て、だからね? 大人しくしててね?」
そう言って走り去った彼女の後ろ姿を、ペチはその場に座っておとなしく見つめていた。
座って待つのに飽きてしまったペチが、体を地面に伏せたちょうどそのとき、遠くの方から足音が聞こえてきた。尻尾を振って待っていると、詩織が祖父を連れて戻ってきた。
「おじいちゃん! あの人! 急に倒れちゃって……」
「あれか? なんや、変わった格好しとるな、わかった。任しとき」
祖父はブライのそばへと駆け寄り、彼の腕を取り自らの肩へ回した。そのまま立ち上がろうとするが、鎧の重さでなかなか持ち上がらない。
「なんじゃこの人? 重たいのぉ」
「おじいちゃん大丈夫? 無理しないでね?」
このままでは運べないと考えた祖父は、ブライの装備を一つずつ外していった。籠手から胸当、ブーツから腰当の順に、詩織の手を借りながらなんとか脱がせていく。
「これでええわ、行くで詩織」
「ちょ、ちょっと待ってよおじいちゃん! これ、重すぎ……!」
祖父はブライを背負い、歩き出した。詩織はブライの装備を両手で抱え、なんとか立ち上がった。ペチは足元で、尻尾を振っている。
「……なんでこの人鎧なんか着とったんや?」
「……な、なんでだろうね?」
「……ん、ここは……」
「あっ、お、おはようございます……」
ブライが目を覚ました。隣に座り、心配そうに覗き込んでいた詩織が声をかける。
「えっと、さっき、いきなり倒れちゃったので……。きゅ、救急車、呼ぼうとも思った、んですけど……『怪我もしてないし呼吸もしっかりしてるから寝かせとけ』って、うちの祖母が……」
「そうか、ありがとう。ごめんね、迷惑かけちゃったかな」
慌てて首を横に振りながらも、詩織は黙ったままだった。気まずい空気が流れる。
「あー、僕はブライっていうんだけど、キミの名前は?」
「あっ、えっと、わた、私は、詩織……です。間中詩織……って言います。こ、高校生、です……」
「シオリ、よろしくね。それで、いろいろと聞きたいことがあるんだけど……どうかした?」
彼女は拳を握りしめながら、意を決したように口を開いた。
「あ、あの! その衣装、ドラファンの勇者のコスプレですよね!?」
「……うん?」
きょとんとした様子で見つめるブライをそっちのけで、彼女はさらに続ける。
「その青い服って最強装備の『勇者の衣』ですよね!? 胸の部分に描かれた翼の紋章が特徴的でゲーム内では終盤のダンジョンでやっと手に入る伝説の服なんですよね! さっき身に付けてた鎧のデザインは王国の姫を助けたときに貰えるやつだしそれに首にかかっているのは全状態異常を無効化する『女神の首飾り』! 竜の祝福を受けた本物の勇者にしか装備できないと言われている幻のアクセサリーですよね!」
「……いや、その……」
急に饒舌になった詩織にたじろぐブライだったが、そんなことはお構いなしとばかりに彼女は語り続ける。
「私ドラファン大好きなんです! 一作目が発売された時はまだ生まれてなかったんですけど私が中学生のときに友達に勧められてハマっちゃって! それから最新作が出るたび発売日に買いに行って毎晩のようにやってました! あもちろん一作目もプレイしました! 最後の方は勇者に感情移入しちゃってトドメのシーンなんか一緒に叫んじゃいましたよ! あーでも最新作はちょっと狙い過ぎって感じで私的にはあんまりっていうかでもあれはあれでドラファンっぽいかなーとか思いながら結局三週ぐらいしちゃってなんだよ私ハマってんじゃんみたいな」
「ちょ、ちょっと待って! 何を言ってるかサッパリだよ!」
「……あ」
やってしまったとばかりに、彼女は口を手で覆った。
「ご、ごごごめんなさい!! わ、私、一人で勝手に喋って、は、恥ずかしい……」
顔を真っ赤にしながら、彼女は何度も頭を下げる。
「ごめんなさい!! わた、私、興奮しちゃって、ひ、一人で盛り上がっちゃって……!」
「と、とにかく落ち着いて! 大丈夫、大丈夫だから!」
涙目になりながら謝り続ける彼女を、ブライはなんとかなだめようと声をかける。
「……あー、その、もう一度初めから話してくれる?」
「はい……すみません……」
詩織はすっかりしょげかえってしまった。
「えっと、ぶ、ぶらい……? さんのその格好って、あの、ドラファンシリーズの、勇者のコスプレ……ですよね?」
「どらふぁんしりーずっていうのはちょっとわかんないけど、いちおう勇者と呼ばれてはいるかな。中央聖王国の方で騎士をやってるんだけど、魔王を倒すために旅をしてて……」
そのとき、ブライは彼女の目がまた輝き始めていることに気付き、身構えた。
「すごい! すごいですブライさん!! 中身まで完全になりきってるんですね!? 衣装のクオリティもすごいし設定も完璧!! コスプレイヤーの鑑です!!」
「お、おう……」
会話が成り立たず、困惑するブライ。
「でも、ちゅうおうせいおうこく……? っていうのは聞いたことないですね。私、全作品クリアしてるんですが……。それに、防具の色も赤じゃなくて銀色っぽかったし……」
「そういえば、鎧が見当たらないんだけど」
彼はきょろきょろと部屋の中を見渡した。
「あっ、えと、ブライさんを運ぶとき、重すぎたので外させてもらいました。濡れちゃってたので勝手に干させてもらってます」
「ならいいんだけど……近くに剣は無かった?」
「剣……は見てない、ですね……」
「うーん……」
彼は体を起こし、立ち上がろうとする。
「あっ、起きても大丈夫なんですか……?」
「まだ体は重いけど、なんとかね。シオリ、悪いんだけどさっきの場所まで案内してくれないかな? 大切な剣だから探しに行きたいんだ」
「わ、わかりました。無理しないでくださいね……?」
「あっ、えと、大体一時間くらい、ですかね……?」
「そんなに眠っちゃってたのか」
降り注ぐ太陽の光を木の葉が遮ることで、山道は暑さが幾分かマシになっていた。
「キミに会えてよかったよ」
「……ひょえっ!?」
奇妙な鳴き声を発しながら詩織は驚く。
「あのまま、あそこで一人倒れていたら、襲われて食い殺されていたかもしれないからね」
「あ、あー……。そ、そうですね……確かに熊とか、一応山奥には居るみたいなんで……」
「この辺りは安全?」
「あっ、はい。もう数十年見てないそうです」
「へえ! こんなに自然が豊富なのに魔物を恐れず生活できるなんて。良いところだね」
「そ、うですね……。魔物……?」
「ん? ……もしかして、魔物を見たことがないの!? いや、数十年見かけていないということはそうなるのか……」
顎に手を当て考え込むブライ。その様子を、怪訝な顔で詩織は見つめている。
「この辺には居ないみたいだけど、人間を襲う恐ろしい魔物はそこら中に潜んでいるんだ。いろんな姿のやつがいるけど、基本的に人間とは違った形をしているから、一目見ればわかると思うよ。中にはおとなしい奴もいるけど、見かけたらまず逃げたほうがいい。危険なやつばっかりだからね」
「あっはい……」
呆れた様子で、詩織は生返事をした。
「まあでも、魔王もいなくなったし、少しは平和になると思うけどね」
「あっ、魔王も居るんですね……」
「ああ、心配はいらないよ。もう倒したからね。……まあ、油断してたせいで最後の自爆に巻き込まれて、こんなところまで吹き飛ばされてしまったわけだけど」
そう言って苦笑するブライ。それを受け詩織は、ただただ愛想笑いを浮かべていた。
「あ、あはは……。あっと、ここです、この奥」
目印の地蔵を通り過ぎ、荒れた道を少し歩くと、先ほどの川が見えてきた。二人はブライが倒れていた辺りまで進む。
「ルシエラがいれば、魔力探知ですぐに見つけられるんだろうけど……」
「ま、魔力探知……」
またか、といった様子で肩をすくめる詩織。
「長年使い続けられた名剣だからね、魔力が込もってるんだ。魔術師なら離れててもわかるんだろうけど……シオリは魔力が見える人?」
「えっ、あっ、いや、無理、です……」
「そっか。悪いけど少し手伝ってくれる? 僕はこっちを探すから、シオリは向こうの方をお願い」
「あっ、はい、わかりました……」
ブライが指差す方へ向かう詩織。少し離れたところで、彼には聞こえないように呟く。
「……あんな格好してるし、レイヤーさんだとは思ったけど、まさかこんなに設定にこだわるタイプの人だなんて……。ちょっとなりきり過ぎじゃないかなあ……。さすがにめんどくさくなってきちゃった……」
「あっ、ありましたよ! ブライさん!」
雑草をかき分けながら、手分けして探すこと数分。岩の影に落ちていた剣を発見した。声を聞いたブライが詩織の元へと走り寄ってくる。
「本当!? ……おお! これこれ!」
剣を手に取り、刃についた泥を払う。
「そ、その剣かっこいいですね! 攻撃力も高そうで!」
「もちろん! 手入れも毎日欠かさずやってるからね。それにこれは、騎士団の隊長たちに代々受け継が
れている大切な剣なんだ。本当に見つかってよかった……」
「あ、あー……騎士団の……」
大事そうに剣を抱えるブライを、詩織は半ば呆れ顔で見つめていた。
「刃こぼれもなさそうだ」
そう言ってブライは、足元に転がっていた直径一メートルほどの岩へと剣を振り下ろした。その刃は少しの音も立てずスーッと岩を通り抜け、まるでバターを切り分けるかのように、簡単に両断してしまった。
「え」
「よし」
目の前で起きたあり得ない出来事に、詩織は呆然と立ち尽くす。
「魔力はまだ空っぽのままだけど、これならなんとかなりそうだ」
「え? あれ? おかしいな? マジックですか? あれ?」
詩織は、真っ二つになってしまった岩から目が離せなかった。目を丸くしたまま、ブライに問いかける。
「それ、本物の剣ですか……?」
「そりゃ……偽物じゃ戦えないし」
「い、いやいやいや! そそ、そもそも! 本物だからってこ、こんなおっきな岩! 簡単にスパッとなんて!」
「長い間使われてるからね、剣自体にも十分魔力が込もってる。切れ味も相当強化されてるんだ」
「ま、魔力って! 切れ味強化って! そ、そんな、え……? 本物? いやいやいや……。でも……真っ二つ……えぇ……?」
頭を抱えた詩織は、ついにその場にしゃがみこんでしまった。
「なにこれ、ドッキリ番組? いやいや、私なんか引っ掛けたって撮れ高ないでしょ……。じゃあ夢? だとしたらいつから……? え? 現実? 本物の勇者様がゲームの世界から出てきたってこと? そんなことある? え? 『魔王討伐の勇者、現実世界でも無双する!』ってこと? そんな、ラノベじゃないんだから……。……ラノベ?」
足元にうずくまり、ブツブツと何かを呟くばかりの詩織を心配したブライが声をかける。
「……シオリ? 大丈夫……?」
立ち上がった詩織は顔を伏せたまま、ブライの顔をチラチラと伺いつつ、恐る恐る問いかける。
「あ、いや、その……えっと、ブライさん。確か、魔王との戦いで、爆発に巻き込まれた……とか?」
「ん? ああ、そうだよ。奴は最後に、僕だけでも道連れにしようと自爆をしたんだ」
「じ、じゃあ、えっと……多分、ですけど……異世界転生、しちゃったんじゃないかなーって……」
「いせかい、てんせい……?」
聞いたことのない単語に、ブライは首を傾げた。
「は、はい。その、魔王の爆発に巻き込まれて命を落としたブライさんは、なんらかの理由で別の世界に飛ばされて、こっちで生まれ変わって……みたいな……?」
「ち、ちょっと待って! 命を落としてって……確かに相当なダメージを受けたけど、まだ生きてるよ!? それに、別の世界って……?」
「あっ、えと、そう……ですよね……。じゃあ、異世界転移、の方かな……。その、ブライさんはこれまで、魔物と戦ったり魔法を使ったりしてた……んですよね……?」
「そうだよ。魔法は才能がないみたいで使ったことはないけど……」
「その、私、魔物を見たことがないって、さっき言いましたけど……そもそも魔物なんてこの世界には存在しないんです……。もちろん、魔法も……」
「存在、しない……?」
「はい……。信じられないかもしれませんけど……この世界中どこ探しても、魔物や、魔法を使える人はいません……。私たちが今いるこの世界ではそういった物は、漫画やアニメなんかの……えっと、創作物の中だけのもの、なので……」
驚いた表情を見せるブライ。詩織はさらに続ける。
「で、でも! ブライさんはこれまでたくさんの魔物と戦ってきたし、魔法もたくさん見てきた……。であればきっと、何かのきっかけで元いた世界からこっちの世界に飛ばされちゃった……んじゃないかなーって……。あはは……。信じられない、ですよね……。言ってる私も、あ、ありえねー、って感じですし……」
「……いや、信じるよ」
「……えっ?」
真剣な面持ちで、真っ直ぐに詩織の目を見つめるブライ。目が合っていることに気付いた詩織は、顔を赤らめながら慌てて目を逸らす。ドギマギとした様子の詩織だが、ブライは気にせず話し始めた。
「おかしいとは思ってたんだ。こんなに自然が豊かな森なのに、魔物がいないなんて常識では考えられない。それに、普通なら呼吸してるだけで多少は回復していくはずの魔力が、一向に回復していかないんだ。明らかに異常なことが起きてる。でももし、キミが言うように別の世界に来てしまっているのなら……つじつまが合いそうだなと、そう思ってね」
どこか晴れ晴れとした表情で、笑みを浮かべながらブライは言った。
「……それにしても、よく僕の言うことを信用出来たね。キミからすれば僕は……魔物やら魔法やら、わけのわからないことばっかり言ってる怪しい男なのに」
そう言ってブライは苦笑をこぼす。
「あ、あー……。えと、まだ私も、半信半疑……ではあるんですけど、その、こんなの見ちゃったら……」
目線を下ろす詩織。その視線の先には真っ二つになった岩が転がっている。
「あ、あと……その、ご、ごめんなさい! 私、その……」
突然頭を下げた詩織に、少し驚いた顔のブライ。彼女は申し訳無さそうに、目を逸らしながら口ごもる。
「ぶ、ブライさんの言う通り……えと、さっきまで、へ……変な人だなって……ちょっとだけ、思っ……てました……」
恐る恐る頭を上げ、上目遣いでブライの顔色を伺う詩織。そこにあったのは、どこか嬉しそうに笑うブライの顔だった。
「ははっ。変な人、か……言えてる。……ありがとう」
「……うえっ!? な、なんでお礼……!?」
「変な奴だと思いながらも、こうやって探しものに付き合ってくれたんだ。感謝するのは当然でしょ?」
そう言ってブライは詩織の頭の上に手を伸ばすと、ポンポンと、彼女の頭を優しく叩いた。
「わっ……!? えっ……!!?? こっ……?! おっ……!?!?」
そのままの姿勢で硬直したまま、謎の鳴き声を発する詩織。
「あっと、ごめん! つい癖で……気を悪くしたなら謝るよ」
「……はっ! あっ、いえ……ちょ、ちょっとびっくりしただけで、えと、い、嫌とかじゃなくて! えと……」
顔を真っ赤にしながら、ワタワタと慌てふためく詩織を、ブライは微笑みながら見つめる。
「え、えと、あの、そ、そうだ、お昼! もうすぐお昼ごはんの時間なんで、も、戻りましょう! ぶ、無事剣も見つかったことですし……」
「そうだね、そうしよう」
「はい! で、では、行きましょう!」
なんともぎこちない歩き方で、詩織はそそくさと歩き出す。その後ろ姿を見ながら、ブライはゆっくりと追いかける。
「あ、頭ポンポン、されちゃった……! し、心臓、口から飛び出るかと思った……!」
両手で口元を抑えながら、彼女は小声で呟いた。