光の残響
あれから数年が経った。俺、宮良伸吾は大学を卒業して、美術とは縁遠い食品メーカーの営業職に就いてた。毎日スーツ着て、汗だくで新規エリアを回る日々。油絵の筆を握ることもほとんどなくなって、昔の情熱はどこかに置き去り。大学を出てすぐは絵を描こうとしたけど、仕事の忙しさや生活の現実にかき消されて、気づけばキャンバスに埃が積もってた。それでも、心の奥で何か燻ってる感覚は消えなかった。由利先輩のことだ。あの彫刻と、先輩の姿が、時折思い出されて胸を締め付ける。何年経っても、そのモヤモヤは消えない。
その日は特に暑い夏の日だった。新規エリアの担当になって、慣れない土地でビルの間を歩き回ってた。ヘトヘトで、たまたま見つけたビルの螺旋階段の日陰で一息つこうと腰を下ろした。階段の隙間から涼しい風が抜けて、少し楽になる。目を閉じてため息ついた瞬間、頭に何か冷たいものがピシャッと吹きかかった。
「うわっ!」
思わず声が出た。慌てて頭触ると、髪が少しベタついてる。見上げると、階段の隙間から誰かが覗き込んでた。
「す、すいません、気づかなかったです! 大丈夫ですか?」
その声に、心臓が一瞬止まった気がした。聞き覚えがある。ゆっくり顔を上げると、そこにいたのは間違いなく由利先輩だった。
頭が真っ白になって、ギョッとして立ち上がったけど足がもつれてよろけた。先輩は階段の上から俺を見て、首を傾げて困ったような顔してる。まるで初対面みたいな目で。
「あの、もしかして知り合いですか?僕、昔の記憶があんまりなくて……もし知ってるなら……」
その言葉にハッとした。知り合いだ、って言おうとしたけど、言葉が止まる。あの短い時間で、俺は先輩の何を知ってる? 作業場で何度か話して、彫刻を見て、勝手に心動かされてただけだ。恋愛に近い気持ちだって、俺の一方的なものだ。だから咄嗟に嘘ついてしまった。
「あ、いや、ただ単にびっくりしすぎただけ……」
先輩は少し残念そうな顔して、「そうでしたか……、なら今の話は気にしなかったことにしてください」って言った。でも、俺の頭はぐちゃぐちゃだった。記憶喪失? どういうこと? でも、目の前にいるのは由利先輩だ。少し瘦せた気もするけど、鋭い目つきと静かな雰囲気は変わらない。作業着の袖が破れてるのも、昔と同じだ。
「あ、はい。ところであのこれ何なんですか?」
自分の少しベタつく頭を触りながら話を逸らすように聞くと、先輩は手に持ってた缶を見せてきた。
「これ、フィキサチーフっていう保護スプレーで……鉛筆の粉とかが落ちないようにする……あの本当にすいません」
「あー、あれね。少量だし大丈夫だよ」って答えたけど、頭は別のことでいっぱいだった。
記憶喪失でも、作品作りを続けてる。先輩の新しい作品、見てみたい。あの彫刻を見た時の感覚が蘇ってきて、いてもたってもいられなくなった。
「あの俺さ、昔美術大学に通ってて。どんな絵描いてるのか、ちょっと気になるんだけど」
先輩は申し訳なさそうな顔から驚いた顔をして、それから穏やかに笑った。
「実はこのビルで絵画教室の手伝いしてるんです。もしよかったら今度体験受け入れがあるので、興味あったら来てみませんか?体験の代金は僕がお支払いしますから」
絵画教室には正直興味なかった。でも、先輩に近づけるならどんな形でもいい。昔の気持ちが抑えきれなくて、即答した。
「ほんと? じゃあ、ここで申し込みしちゃう? 名前と連絡先だけで大丈夫なので」
先輩が差し出した紙に、迷わず名前と番号を書いた。先輩がそれを受け取って、「宮良伸吾さん、ね。よろしく」って言った瞬間、胸がドキッとした。昔、先輩が俺の名前を呼んでくれた時の感覚が蘇ってきて、妙に落ち着かなくなる。
「じゃあ、その日ね。楽しみにしてます」
先輩はそう言って階段を上っていった。俺はその背中を見送りながら、頭がぐるぐるしてた。記憶がないって言っても、先輩は先輩だ。あの頃の想いがまた膨らみ始めてる。ただ近くにいたい。それだけだった。
指定された日、俺は少し緊張しながら絵画教室のビルへ向かった。夏の暑さはまだ残ってて、少し歩いただけなのに汗が滲む。螺旋階段を上りながら、あの日の再会が頭をよぎる。記憶がないって言ってたけど、あの頃の先輩がまだどこかにいるんじゃないかって、期待と不安が入り混じってた。
教室のドアを開けると、そこそこ人がいた。子供や受験生向けかと思ってたけど、参加者はほとんど50代くらいのおばさまたち。華やかな服で、キャンバスや絵の具持って楽しそうに話してる。俺、完全にアウェーだ。営業でいろんな人に会ってるけど、この場はなんか居心地悪い。体験だからって軽い気持ちで来たけど、少し後悔しかけた。
でも、由利先輩を見たらそんな気持ちも吹き飛んだ。作業着のまま、穏やかな笑顔で参加者に接してる。目つきは昔みたいに鋭いけど、物腰が柔らかくて、おばさまたちに好かれてるのがすぐ分かった。「由利先生、優しいわね」「でしょう!」なんて声が聞こえてくる。確かに、先輩の話し方には人を安心させる何かがある。あの頃と変わらない部分があって、胸が少し温かくなった。
体験が始まったけど、俺は絵を描くより先輩のことばかり気にしてた。適当に鉛筆でスケッチしながら、先輩が他の人に教える姿をチラチラ見てた。キャンバスに絵の具を乗せる手つきや、参加者の絵を褒める穏やかな声。作業場で彫刻を削ってた時の真剣な表情とは違うけど、どこか懐かしい感じがした。
体験中は話す隙がなくて、おばさまたちに囲まれてる先輩は忙しそう。俺は少ししょんぼりしながら、時間が終わって片付け始めた。もう帰るか、ってバッグ持った瞬間、後ろから声がした。
「あ、待って宮良さん! 僕がどんな絵描いてるか見たいって言ってたよね」
振り返ると、先輩がこっちを見て立ってた。少し汗ばんだ額に、いつもの穏やかな笑顔。俺は目を輝かせて「はい!」と頷いた。
先輩はくすっと笑い、「そっか。ちょっと待ってて。教室閉める準備するから」と言い片付けを始めた。
片付けを待つ間、俺はソワソワが止まらなかった。二人きりで作品が見れるって思うと、胸がドキドキしてくる。昔、作業場で彫刻を見せてもらった時の感覚が蘇ってきて、妙に緊張した。
「よし、終わった。こっち来て」
先輩に呼ばれて、教室の奥の小さな部屋に案内された。作業スペースらしく、壁にスケッチや小さなキャンバスが無造作に立てかけられてる。机の上には絵の具や筆が散らばってて、大学の作業場とは違うけど、先輩の空気が濃く漂ってた。
「最近はこういうの描いてるかな」
先輩が差し出したのは、A3くらいの紙に描かれた水彩画。廃墟みたいな建物が背景で、手前に雑草が生い茂ってる。色は淡いけど、寂しげで、それでいて温かい。廃墟の窓から漏れる光が微妙なグラデーションで描かれてて、思わず息を呑んだ。
「すげえ……なんか、生きてるみたい」
言葉が自然に出てきた。先輩の彫刻を見た時と同じ感覚。廃材に命を吹き込むようなあの感じが、この絵にも宿ってる。廃墟なのに優しい。胸が締め付けられるような、でも温かい気持ちになるような絵だ。
「生きてる、か。面白いこと言うなあ」
先輩は少し照れたように笑った。でも、その笑顔がまた心に刺さる。記憶がないって言ってたけど、作品に込める魂みたいなものは変わってない。いや、むしろ深くなってる気がした。
「やっぱり、すごいよ…」
「やっぱり? 今日の授業で描いてたのもそんなに気に入ってたの?」
先輩がからかうように言うから、俺は慌てて誤魔化した。「あ、いや、そう。お手本で描いてたのもすごかったなって」
心臓バクバクしてた。目の前で笑う先輩を見てるだけで、大学の頃の記憶が蘇ってくる。あの彫刻の衝撃や、作業場での何気ない会話。記憶がない先輩には関係ないはずなのに、俺の中では全部繋がってる。好きだ、という気持ちがまた膨らみはじめていた。
それから、俺は絵画教室に通うようになった。体験だけのはずが、毎週顔出すようになってた。おばさまたちに囲まれながら適当にスケッチするのは正直楽しくなかった。でも、先輩がそこにいるだけで十分だった。教える姿を見てるだけで、昔みたいに胸がざわつく。時々、先輩が俺のスケッチ覗き込んで「悪くないじゃん」とか言うたびに、妙に嬉しくなる。
ある日、教室終わりに声をかけられた。
「宮良さん、最近よく来るね。宮良さんここじゃ物足りないでしょ。初心者向けだから……、もしあれなら経験者向けの所紹介するよ?」
「えっ?いや確かに少し物足りないけど……先生が教えてくれるから、楽しくて通ってるというか……」
本音が漏れて、慌てて笑顔で誤魔化した。先輩は「そっか」って小さく笑って、それ以上は何も言わなかった。でも、その笑顔がまた刺さる。記憶がないはずなのに、昔と同じ温度を感じる瞬間があって、勝手に期待してしまう。
それ以降片付けを手伝うのが習慣になって、自然と雑談する時間が増えた。「ねえ、宮良さん。美術大学に通ってたって言ってたよね。どんな絵描いてた?」
俺は一瞬、あの頃の油絵思い出して、少し照れた。
「風景とか人物とか、まあ普通の油絵かな。当時自分では気に入ってたけど、たぶん今見ると下手に見えるだろうな」
「へえ。油絵かぁ。僕も昔、ちょっとやってた気はするんだよな……」
その言葉に胸がドキッとした。先輩が過去を思い出しそうになってる? でも、すぐに「まあ、気のせいか」って笑って話を変えられた。俺も突っ込めなくて、黙って片付け続けた。
時間が経つにつれて、先輩が過去の断片を思い出し始めてる気がした。ある日、彫刻用の鑿を手に持って、「これ、なんか懐かしいな。昔、木とか削ってた気がする」って呟いた。俺はドキドキしながら、「へえ、彫刻とかやってたんだ?」って軽く聞いたけど、先輩は首振って、「わかんない。頭にうっすら浮かぶだけ」って言った。
そういう瞬間が増えるたびに、俺は勝手に嬉しくなってた。先輩が昔の自分を思い出してくれたら、またあの頃みたいに話せるんじゃないかって。そんな期待抱きながら、先輩のそばでスケッチしたり、話を聞いてたりした。先輩の水彩画やスケッチを見るたびに、心が動かされる。あの彫刻と同じ魂が宿ってる気がした。
受講中に先輩から「宮良さんさ、凄く俺の作品熱心に見つめるよね」って笑いながら言われた時があった。俺は「え、そんなことは」って誤魔化したけど、心の中では焦っていた。確かに、俺は先輩を見るたびに憧れ以上の感情が溢れてくる。作業する真剣な顔や穏やかな笑顔が眩しくて、目が離せなかった。
でも、先輩がその視線に気づくたびに、表情が曇る瞬間が増えた気がした。俺が「これ、めっちゃいいですね。どうやってこんな雰囲気出すんですか?」って褒めると、先輩は一瞬笑って、「いや、そんな大したもんじゃないよ」って言うけど、その後に目を逸らす。最初は気にしてなかったけど、だんだんその反応が気になり始めた。俺の言葉や視線が、先輩に何か重いものを押し付けてるんじゃないのかと。
ある日、片付けしてるとき、先輩がぽつりと言った。
「あのさ、俺のこと、なんか過大評価してない?」
一瞬固まった。
「え? いや、そんなことないよ。先生の作品、ほんとすごいって思うだけ」
先輩は苦笑いして、「そう? でもさ、昔のことを思い出そうとすると、なんかダメな自分しか浮かばない。すごいって言われても、しっくりこないっていうか……」
その言葉に胸が締め付けられた。先輩が何を感じてるのか、全部は分からない。でも、俺の視線が先輩にとって辛いものになってるんじゃないかって、不安が膨らむ。俺はただ、先輩の作品が好きで、眩しくて、そばで見たいたかっただけなのに。憧れ抑えきれなくて、熱っぽく見つめてしまう自分が、先輩を苦しめてるのかもしれない。
「俺、先生のことダメだなんて思ったことない。今の絵だって……」
言葉を続けようとしたが、先輩は俺の声を遮り「そっか」って呟いて、それ以上何も言わなかった。その横顔が遠く感じて、俺の言葉が届いてるのか、逆に突き放してるのか、わからなくてモヤモヤした。
それから数週間、先輩の様子が少し変わっていった。教室では穏やかに教えてるけど、二人きりの時間が減った。片付けの雑談が減って、どこかよそよそしい。俺の視線に気づくたびに、目を逸らす瞬間が増えた。俺は薄々感じてた。俺の憧れが、先輩にとって重荷になってるんだって。
でも、それでもやめられなかった。先輩の絵を見るたびに、あの彫刻を思い出す。教える姿を見るたびに、心が動かされる。好きだ、って気持ちが抑えきれなくて、視線を向けるのをやめられなかった。自分が先輩を苦しめてるかもしれないって分かってても、どうしてもやめられなかった。
ある日、絵画教室に行くと雰囲気が違った。いつもなら先輩が入口で準備してるのに、姿がない。おばさまたちもざわざわしてて、嫌な予感がした。教室の責任者に聞くと、あっさり言われた。
「ああ、由利先生ね、辞めちゃったよ」
頭が真っ白になった。「え、辞めたって……どうして?」って聞き返したけど、「さあ、急に連絡来てねぇ。詳しくは知らないよ」ってだけ。呆然と立ち尽くして、胸が締め付けられる感覚に襲われた。
また、いなくなった。大学の時と同じだ。連絡取れなくなって、失踪したみたいに。頭ぐちゃぐちゃで、何も考えられない。ただ寂しさが押し寄せてきて、息が詰まりそうだった。でも、どこかで分かってた。俺の視線が、俺の憧れが、先輩を追い詰めてたんだ。耐えられなくなって、逃げたんだ。
「あ、そうだ、そうだ。これ由利先生から。宮良さんに渡してくれって」
責任者が小さなキャンバスを渡してきた。布に包まれたそれを手に持つと、妙に重く感じた。恐る恐る捲ると、そこには見覚えのある形が描かれてた。大学の卒業制作だった、あの木の彫刻。根が絡み合って、枝が伸びる姿が、油絵で描かれてた。彫刻そのままじゃなくて、柔らかい色使いで、光の反射が優しく滲んでる。
時間が止まった気がした。あの彫刻が、こんな形で目の前に現れるなんて。先輩は、やっぱり思い出してたんだ。俺との時間も、あの頃のことも。絵を見るたびに胸が締め付けられて、涙が滲みそうになった。でも、同時に罪悪感が押し寄せてくる。俺が視線抑えてたら、先輩は逃げなかったかもしれない。俺の憧れが、遠ざけてしまった。
それから数ヶ月、俺はキャンバスを部屋の隅に置いたまま触れられずにいた。見るたびに、先輩の笑顔と曇った表情が交互に思い出される。営業職は忙しくて、絵を描く時間も気力もない。でも、夜中に目が覚めてキャンバスを見つめることが増えた。
先輩がこの絵に何を込めたのか、分からない。でも、あの彫刻を描いたってことは、俺との時間が意味を持ったってことだよな? 俺の視線が重荷だったとしても、全部嫌いじゃなかったって思っていいよな? そんな都合のいいこと考えながら、キャンバスの前に座り込んで見つめてた。
ある夜、久しぶりに油絵の道具を引っ張り出した。先輩の彫刻の絵の隣に、俺なりの答えを描きたくなった。廃墟でもなく彫刻でもない、俺の日常の中で見つけた光を。薄い色から重ねて、柔らかいグラデーションで描いてみた。昔みたいに眩しいものを追いかけるんじゃなくて、俺なりの形を探そうって。
描きながら、先輩の気持ちを少し理解できた気がした。憧れられるのは嬉しいけど、それが重荷になる瞬間もある。俺の視線が先輩を追い詰めたなら、それは俺の未熟さだ。でも、絵の中なら、先輩を追い詰めずに済むかもしれない。先輩がどこにいるのか知る術はないけど、俺の中で生きてる。あの彫刻も、笑顔も、全部が俺の絵の原点なんだ。