【8.夜の散歩】
メシャに話をつけると、リーアンナは軽く今晩の首尾についてメシャと打ち合わせをした。
今晩と言っても、あまり遅い時間では訪問する本人も寝てしまうだろうから、人々が寝入る前のくつろぎの時間を選択した。
その時間に合わせて、リーアンナは早々にベッドに入った。
メシャは夜の話相手と言う名目で、リーアンナの寝室に入り込み、長椅子にひっくり返っている。
ボーンボーン、ボーンボーン、ボーンボーン……。
古時計の音が鳴り、夜十時、定刻通りになると、暇でうとうとしかけていたメシャは眠そうに目をこすりながらむくっと上体を起こした。
メシャは大あくびをしながら「ねみー」と文句を言っている。文句は言っても約束は守るメシャだ。
メシャはブランケットを肩から巻きながら、ぶるぶるっと体を震わせた。蝋燭に火を灯し、そっとリーアンナの寝台の傍に置く。
そして、リーアンナの眠っている体の傍まで長椅子を引きずって行くと、そこに座った。
ちらりとリーアンナの寝顔に目をやったが、特別何の感情もない目でふいっと目を逸らすと、そこからは眠いとも文句も言わず、持ち込んだ本を広げて読み始めた。
――朝まで。この状態で本を読むだけだ。
一方リーアンナの方は、古時計の音が定刻通りになると目を覚ました。
眠っている体から抜け出たリーアンナは、不安そうにメシャの方を眺めるが、メシャが時間きっかりに長椅子から起き上がり伸びをしたのを確認するとほっとした顔になった。
リーアンナは眠っている時間、やろうと思えば、不思議なことに体を抜け出すことができた。
抜け出たリーアンナは実態を持たないため、喋ったりはできなかったが、誰にも見えないしどこでもすり抜けられるので、気兼ねなく外を散歩することができた。
これがリーアンナの言うところの『夜の散歩』だった。
もちろん人の部屋に勝手に入ることができる。さすがに良くないことだと思うのでリーアンナはほとんどしたことがないが。
実体がないので盗みなどはできない。何かに触ることもできない。ただ見聞きするのみ。
リーアンナはこの能力を使って、エルンストを刺した状況を探りに行こうと思っていたのだった。
しかし眠っている体だけはどうしても無防備になるので、メシャに見張りを頼んだのだ。
リーアンナは、メシャには聞こえないことが分かっていたが、
「行ってくるわね、あとよろしく」
と早口で言った。エルンストのところに行くというので気分が落ち着かないのだろう。そわそわしていた。
さて体を抜け出たリーアンナは、ふわふわとエルンストのリンブリック公爵家の邸の方へ出かけて行った。
実体がないので「ふわふわと」である。歩く必要はない。実は「歩く」という動きは大変物理的なものだ。
直線距離で移動しようとすると王宮の傍に出た。
そのときふと話し声が聞こえたのでリーアンナはふっと何気なく目をやると、そこには聖女ルシルダがいた。
「え?」
リーアンナは思いがけない人物を見かけたことに驚いた。
こんなに暗い晩だというのに、ルシルダはすっぽりと外出用の外套を頭からかぶり、王宮の中庭の入り組んだところにいた。
状況からして碌な用件じゃなさそうだとリーアンナは思ったが、関わるのも嫌なので目を逸らし、急いで立ち去ろうとすると、話し声が聞こえた。
「私は聖女よ、王太子様の婚約者、分かっているの!?」
やはり誰かと密会していたらしい。
また威張っているのかとリーアンナはげんなりしながら、それでも無視を決め込み、エルンストの邸の方へ体を向けたが、すると
「エルンストは生きているんでしょう?」
とルシルダがヒステリックに喚くのが聞こえた。
「エルンスト」と聞いてリーアンナはぎょっとして振り返った。
ルシルダはエルンストの怪我と何か関係があるの?
リーアンナは口をぎゅっと結んだ。眉を顰め厳しい顔で、リーアンナはルシルダの方へ近づいて行った。
もちろん実体のないリーアンナの姿は誰にも見えず、ルシルダにも悟られる心配はない。
「ルシルダ様だって、ただの警告だとおっしゃってたじゃないですか。命を取るのは大問題になりますよぅ」
暗がりの中の男が弁解するような声を上げた。
「でも、やっぱり生かしておいて、私たちのことがバレたりはしないの?」
ルシルダは何かに怯えているようだった。
「もうバレてますよぅ。でも大丈夫でしょう。婚約者の恋人が刺したわけですから、エルンスト殿の婚約者の家側が揉み消すでしょうし、もし消しきれずに何か動きがあったとしても、あなたが私を庇ってくれればいいんですよぅ。僕は最後まで『何もやってません』と言いますから」
暗闇の中の男はひどく物騒なことを言いながらも、どことなしか口調が軽い。
その話を聞きながら、リーアンナは真っ青になっていた。
『婚約者の恋人』って何?
それって、エルンスト様の婚約者のってこと?
婚約者はイェレナ・マセレステン侯爵令嬢様。そのイェレナ様に恋人がいるの? エルンスト様と婚約しておきながら? あまりにひどくないかしら!
そしてその恋人がエルンスト様を刺した?
ルシルダ様が庇うということは、痴情のもつれとかではなくて、ルシルダ様の企み? いったいどういう企みよ!
そのとき、ルシルダの話し相手の暗がりの男が言った。
「ルシルダ様は、こんなことよりさっさと力を証明なされたらよろしいんだと思いますよぅ。あなた様が聖女として絶対的な力をお持ちであれば、本来誰も文句を言うはずがないんですからね」
「分かっているわよ。でも……聖女であることを証明するためにはお金がいるの!」
ルシルダはまたしてもヒステリックに叫んだ。
お金?とリーアンナは思った。聖女の力にお金なんか関係あるかしら?
暗がりの男の声が少し冷たくなったような気がした。
「ルシルダ様、我々も泥船に乗るつもりはありませんよぅ。そちらの方を解決してくださらないなら、協力はできませんからね」
ルシルダはギクッとしたように見えた。
しかし動揺を悟られないように取り澄ました顔をして、何も言わずにくるりと背を向け、中庭の暗がりを立ち去った。
リーアンナはルシルダと話していた相手の顔を見ようと思った。しかしそこは暗がりだったし、相手の男も警戒してかフード付きのマントを深くかぶっていたため、素性は全く分からなかった。