【3.セレステの婚約者】
翌日。
昨日のことが気になっておちおち夜も眠れなかったリーアンナだったので、約束の時間にそわそわしながらセレステの住むトロニック公爵家の邸に駆け付けた。
リーアンナがセレステの邸を訪ねると、すぐに中庭に通された。
すでにウォーレスは来ていて、ココちゃんと遊んでいる。
リーアンナは昨日のことが気になって正直ココちゃんどころではなかったのだが、ウォーレスは落ち着いた様子で愛おしそうにココちゃんにちょっかいを出している。
あれ?
リーアンナは自分とウォーレスの温度差にひそかに驚いていた。
ココちゃんはイングリッシュ・スプリンガー・スパニエルの女の子。
ウォーレスは「お手」をしてもらった前足を大事そうにスリスリなでなでしていて、ココちゃんは迷惑そうに前脚を引っ込めたがっていた。
最終的にウォーレスは「いい加減にしろ、ココちゃんが嫌がってるだろうが!」と後ろから頭を叩かれていて、リーアンナはぎょっとした。
ちなみに叩いたその人は、昨日エルンスト殿の件で一緒だったバートレットだった。
バートレットはリーアンナに気づいた。
「あ、リーアンナ」
バートレットは横で頭を押さえて蹲っているウォーレスのことは無視だ。
リーアンナは、ウォーレスに多少同情の目を向けたあとバートレットの方を向いた。
「バートレットも来ていたのね」
「まあね、ウォーレスを放置すると、あちこちで人に迷惑をかけるだろう」
バートレットは仕方がなさそうに言った。
「僕、迷惑かけないし」
とウォーレスが抗議の声を上げたが、
「今まさにココちゃんに迷惑かけてた」
とバートレットに断じられて、ウォーレスはむむうっと口を噤んだ。
リーアンナはウォーレスとバートレットの日常感に引っ張られて楽しそうに見ていたが、ハッと我に返ると、
「ねえ、昨日はどうなったの? エルンスト様は?」
と昨日を思い出させるように尋ねた。
しかし、ウォーレスはのんびりした調子で答える。
「それは、セレステが来たら話すよ。セレステも気になってるだろうし。あ、来た。お、婚約者も一緒だぜ」
リーアンナが振り返ると、ウォーレスが言った通り、婚約者を引き連れたセレステが少し緊張した面持ちでこちらに歩いてくるのが見えた。
セレステの婚約者は、リーアンナやバートレットに「しばらくぶりですね」と挨拶してから、ウォーレスの方を向き丁寧に頭を下げた。
「はじめまして。セレステの婚約者のブローデです。ストークリー伯爵家の長男です」
それに対して、ウォーレスはやや畏まった顔で、
「僕はキアナン公爵家のウォーレスです。こないだまで一年ほど、隣国行ってました」
と柄にもなく真面目に挨拶をした。
するとブローデは素直に賞賛の目を向けた。
「セレステからも優秀だと聞いています。国王陛下の覚えめでたいウォーレス様。こうして知り合う機会ができて光栄です」
「ああ、よく言われます」と言いかけて、ウォーレスはセレステに足を踏まれる。
しかし、ブローデは気に留めず、
「またすぐ隣国に戻れらるのですか?」
と尋ねた。
ウォーレスは微笑みながら軽く首を横に振って、
「いいえ、しばらくこっちにいます。結婚相手を探さないといけなくて。誰かいい人いませんか?」
と聞いた。
それを聞いたバートレットは思わず「え? おまえはリーアンナがいいんだろ?」と言いかけて、ウォーレスに思いっきり足を踏まれ「痛っ」と顔を顰めた。
バートレットの呟きはブローデには聞こえなかったらしく、
「いい人ですか。あなたが本気でしたら誰かご紹介できるかもしれません」
と真に受けて答えると、ウォーレスはぽんっと掌を打って顔を輝かせた。
「ありがたい! ほんと誰でもいいんでぜひ! あなたの元カノとかでもいいですよ」
ブローデはぽかんとした。
その瞬間にセレステが険しい顔で、
「ウォーレス!」
と咎めるように声を上げたので、ウォーレスは、
「ははは。冗談ですよ。怖い顔しないでお二人さん」
と軽く両手を挙げた。
セレステの方はブローデがどう思ったのか心配なようで、早く話題を変えようと、
「こんな失礼な奴に紹介なんかしなくていいから! ブローデ様の顔が潰れるだけよ。それより、昨日の事件はどうなったの?」
と早口でウォーレスに聞いた。
「事件?」
ブローデは昨晩のことは知らなかったらしく眉を顰めた。
セレステは説明するように、
「エルンスト様が誰かに襲撃されたんですって」
とブローデに言う。
途端にブローデの顔が真っ青になった。
「え? 襲撃? エルンスト様って、リンブリック公爵家のエルンスト様?」
ブローデの様子をじーっと観察していたウォーレスは、ブローデが急に顔色を変えたので内心ニヤリとした。そして敢えて軽い調子で言った。
「そうです、リンブリック公爵家のエルンスト殿ですよ。でも襲撃じゃなかったんだって、セレステ。間違って自分で刺しちゃったんだって。自分の背中を」
しかし、セレステはそんな話に納得しない。
「は? いや何それ、あり得ないわよ。どうやって自分で自分の背中を刺すのよ」
リーアンナも両手をぎゅっと握りしめて、大きくうんうん頷いている。
ウォーレスは固く握られたリーアンナの拳を寂しそうにちらりと見てから、
「酔ってて覚えてないってさ」
と適当に答えた。
「は?」
セレステは少し怒りを含んだ目で説明を求めるようにバートレットを見たが、バートレットも苦笑いしていた。
そのときリーアンナがハラハラした表情で
「ウォーレス。酔っててどうとかそんなことより、彼の怪我はどうなの? 倒れてたってことは傷は深いの」
と震える声で聞いた。
ああ、リーアンナは心底エルンストが心配なんだなあ、とウォーレスは苦い気持ちになったが、その気持ちは胸にしまって、ゆっくりとリーアンナを安心させるように答えた。
「いや。思ったほど。あの後王宮の医官に軽く診てもらったが、出血の割には怪我は浅かったし、刺された場所もそれほどは大事無いところだったんだ。すぐに迎えに来たリンブリック家の馬車に引き取ってもらった。そのときにはもう自分で喋れたし、来週僕とバートレットを邸に招待してもいいかと言われたんだ」
その話を、ブローデはたいそう難しい顔で聞いていた。
「話がよく分からないんですが、昨日、エルンスト様が酔って自分の背中を刺し怪我をしたということですか?」
「そういうことです」
そんなはずはないが、ウォーレスはもっともらしく頷いて見せる。
ブローデは考え込んだ。
それから鋭く刺すような目でウォーレスを見た。
「本気で言ってます?」
ウォーレスは何も答えなかったが、肯定するようににっこりと笑って見せた。
するとブローデが帰る素振りを見せた。
「すみません、セレステ。急用を思い出したのでこれで失礼します」
「え? 急用? ブローデ様?」
セレステは驚きの声をあげたが、ブローデは何やら考えを巡らせているらしく、セレステの問いかけには上の空で速足で帰ってしまった。