布施小学校
保育園と校庭を隔てて隣接する布施小学校は、古い木造校舎だ。
二宮金次郎の銅像は既に無く、土台だけが残っていた。
正面玄関には、周囲10メートルほどの山の残骸があり、かくれんぼの逃げ場には最適だったその小山と木々は格好の遊び場となった。
校舎と校庭をつなぐ渡り廊下の出入り口には、井戸水をくみ上げるポンプがあり、そのポンプを上下に漕ぐことで、水が吸い上げられる。不思議と漕ぐたびに出る空気のキーキー音を聞く場所は今ではほとんどない。
クラスの一年から六年生、全部数えても100人ほどので、1クラス20人前後というのはやはり少ない。だから、クラスメイトはずっと変わることもないし、全員の名前はもちろん家も知っている。
当時の出席番号は男女別に、生年月日の早い順に出席番号が組まれていた。
私の同級生は、男が12人、女8人の計20人。
5月生まれの私は、保育園時代から5年生の秋になるまでずっと2番だった。だから2番は大人になっても心地よい順番になったいた。
私が密かに好きだった深雪は3月生まれだったので、女では一番最後の8番だった。
小さいころは、そんな、たわいも無いことを気にかけ、心の隅にずっと残っているものだ。
和美は深雪と同じ、深原に住む同級生だが、こいつにはいじられた。
「山内は、銅地のこと好きやろ」
「ちごうわい!、お前こそ、昌樹のこと好きなくせに!」
私はムキになり反論した。
自分から、言ってきた和美は、顔をまっかにして
「ちがう!」
と反論するも、誰のことが好きかは大人でなくとも、言動で分かるものだ。ただ、本心を悟られることが、前に出ることより、慎ましさや我慢といった要求を時代は求めていた。誰が誰を好きなんてことが分かれば、明日から恥ずかしくて学校へは行けないと思っていた。誰もが。
今、20人いた同級生の名前を覚えているだろうか?
寺飯久保の自分、マサキ、シュウイツ、トシヒコ、タダシ、お寺の跡取り息子のケイシュンと身近には6人いたので覚えていないわけがない。城飯久保の出島、深原には、雑貨屋のヒロコ、ミユキ、マユミ、カズミ、トオル、布施にはキヨシ、矢田部にはハルヒコ、ユミ、三田窪にはヒロコ。
そう言えば、飯久保は寺と城と分かれてるが、寺はそれなりに歴史ある光久寺がある、城は城跡があるらしいが私は行ったことがない。
私たちは、一つ年上の自転車屋のヨッチンとマサキ、シュウイツ、トシヒコ、タダシと光久寺の境内でよく遊んだ。野球したりブーメランや紙飛行機したり、かくれんぼもした。野球やブーメランは、寺の屋根や境内の大きな木の枝にひっかかり取れなくなったものだ。
住職の爺さんには、怒鳴られ怖い人という印象はあるが、寺の跡取り息子はなぜか、世俗的な自分たちとは遊ぶことをしなかった。彼の性格もあるかもしれないが、やはり由緒ある寺ゆえに、祖父にあたる住職の爺さんが厳しかったように思える。