5. 初めての社会の授業
第5話。今日は大雨が心配されていたけど、実際にはいつもよりも強い雨程度で済んだ。雨と言えば、僕らは昔から割と雲と雲の狭間に移動することが上手い。なんだったら僕らは雨に関しては不思議な力で守られていると勘違いしてしまうくらいだ。例えば僕は今日家に傘を置いたまま大学に来てしまった。そしてオンラインでの授業終わりに一度家に忘れ物を取りに行こうとしたところで、授業の間に雨が降っていたことに気が付いた。もう止んではいたものの、それでもまだ雲行きは怪しい。僕が帰路についている間、雨は殆ど降らなかった。けれども、家に着く直前でまた強めの雨が降り始めた。僕は前回祖母の家に行った時に頂戴した黒の晴雨兼用傘を差しながら大学へ戻った。それでもまた雨足は僕が家の中で諸用を済ませる頃よりは緩やかで、院生室で過ごしている間にまた激しさを増すのだった。
こんな時は何を思い出すだろうか。
一つ浮かんだのは、僕らが中学2年生の頃に航平と交わしていた一連の会話だ。航平と僕は小学校5年生から中学校3年生までの5年間ずっと同じクラスだった。中でも中学校2年生の頃の僕らは出席番号が男女で並んでいることもありとても仲が良かった。僕は理科の地学の分野で日本の天気が西から東方向に変わることを習う前にそれを知っていたので、皆よりも天気を読むのが上手かった。それでサッカー部だった航平はキャプテンとして練習内容や場所決めをする為に、よく僕に天気のことを尋ねるのだった。だけど段々、航平は尋ねると言うよりも僕に予定を伝えておけば晴れると面白半分に考え始めていた。なので例えば僕が航平と会話を交わす前にバレー部の練習に行くと、航平がわざわざ僕の所に来て、今日は校外をランニングだと伝え、僕の「そうなんだ」を聞くとササっと帰っていくのだった。そしてもしもその日無事に晴れていたのなら翌日僕がお礼を言われ、反対に雨が降ったら笑いながら不平を言われるのだ。
だけどこの可愛らしい会話も、中学生の時にしか味わえない一生涯の珍味では無いということを、僕らは大人になったからこそ知っている。今日だってそうだ。僕は大学に戻った後、必要な書類を取りにバイト先へと向かった。その行き帰りの一時間半も雨は降っていなかった。それを同い年の不知火さんに話すと、「本当に、長治さんが来る日っていつもそんな感じで不思議ですよね」と返してもらった。僕は不知火さんの言葉にも、差し入れに父さんからお中元として送られてきたパインを置いてくことが出来たのにも満足した。
さて、シンとの約束に集中しよう。
中学校入学後数日が経ち、僕たちは既に幾つかの授業を受けていた。僕らの教科担任は女性の先生が多く、担任の金城先生の国語の他に、理科、数学、英語、そして音楽や美術や家庭科がそうだった。だけど意外なことに男女別で行われている体育の授業が男の先生が担当で、この先生は僕が希望しているバレーボール部の顧問でもあるそうだ。それにしても怖い、いや、厳しい先生で、初日の一時間は整列だけでみっちりしごかれてしまった。前川小学校での体育は全く厳しくなかったにも関わらず体育が苦手な子が多かっただけに、前川の子達からは不満の声が漏れていた。一方、古謝小学校の子は比較的涼しい顔をしているように思えた。後でトウマが言うには、元々古謝小でも体育の授業は厳しく指導されていたそうだ。
さて、中学の初の授業の中でも、僕が最も印象に残ったのは社会の授業だった。
社会の授業担当は、他の学年で担任を持っている岡山先生という男性だった。特別細くもなく太くもなく、だけど野球部の顧問だということもあり適度に筋肉がついているような体つきで、所謂「お父さん」を絵にかいたような人だった。先生は氏名が岡山賢哉だったので、僕は『坊ちゃん』で学生達が坊ちゃんを囃し立てている場面を思い出した。さらに先生が先輩たちから「岡山県」のあだ名で呼ばれていると呼ばれているのを知っていたこともあり、内心クスクス笑ってしまった。実際、クラスの子達もすぐに先生の名前をいじり始めた。
そして先生自身が僕らに発した最初の問いは、かの国民的アニメの一家を僕らがどう捉えるべきなのか、ということだった。
授業の号令や自己紹介が住み、先生は黒板に教材用のポスターをマグネットで貼り付けた。コツン、コツンと音が鳴っているまでの間、先生の利き腕に遮られながら、僕の席からは何のポスターが張られているのか分からなかった。だけどそれが『サザエさん』のポスターだと分かるやいなや、僕はすぐに、「磯野一家が現在の核家族社会では希少な家族構成になっている」と小学校で習ったことを聞かれるに違いないと身構えた。
「皆も日曜日の6時半になったら観たことがあると思います。この家族は日本の典型的な家族……」
「はい、先生ー」
先生の声を遮って、古謝小学校側の子達の方から誰かがフライングで手を挙げる。真鶴だ。
「今時核家族じゃない家って珍しいと思いまーす。それに、嫁入りじゃなくてマスオさんの婿入りだし。後、磯野家って買い物東京のデパートですよね。こんな家族構成と金持ちの人達が『日本の典型的な家族』って、絶対おかしいと思いまーす」
それは僕が頭の中で用意していたよりもずっと内容の濃い指摘だった。僕は真鶴の言葉に静かに驚き、体の向きを変えてでも彼を視界に収めようと試みた。
真鶴がそう言うと、古謝小学校の子達からドッと笑い声が上がった。手を叩いたり前のめりになっている子も居て、その求心力は凄まじかった。先生は少し呆れた調子で、一度真鶴の名前を尋ねてから返事をする。
「確かに、このポスターは真鶴が言ったみたいなことを言う為に持ってきた物だ。でも金銭面についても生意気なことを言うとは思ってなかったぞ」
「えー、生意気って、先生めっちゃ酷い」
そう真鶴が冗談交じりに強めに返すと、今度は前川の子達までつられて笑い出した。僕は教室の端っこの席で、この光景を目に焼き付けていた。晴天から届く光は明るく、海の方から風が吹きカーテンを揺らす。その中で調子づいて立ち上がって見せた少年が、一身に皆の関心を集めている。
凄い、頭が良い……
流石副院長に推薦だけあるなと思いながら、僕は社会科の教科書の表紙の方へと向き直り、じっとそれを眺めていた。
沖縄県は小中完全給食制で、社会の時間が終わると給食時間だった。その日は牛乳の他に、胚芽パンと野菜炒めと汁物と、それから飴玉みたいな形状のチーズが2つあった。盛が「俺もしーなぁより身長を伸ばすために、いっぱい牛乳取らんとな」と言ったので、僕は喜んでチーズの1つを差し出した。そう言えば僕ら出席番号最初の4人は向かい合ったお互いとの会話で十分満足していたが、周りではちらほら席を立っている人が見える。僕がパンをちぎって食べていると、盛の机の前に真鶴が立ち寄った。
「よっ! 俺、真鶴。お前ら部活何入るの?」
真鶴はそう言って盛と悠の方に顔を向けていた。僕はそれでもジッと真鶴を見ていた。盛が「バスケ部」と答え、悠が「俺は良いよ、めんどい。入らん」と答えたと思うと、真鶴は僕の視線に気づいたのかこちらに視線を向けた。
「はい、あげる」
僕は親戚の家でお菓子を貰う習慣を思い浮かべながら、真鶴にパンを切り取って渡した。真鶴は「ん?」と言った時にはそのパンを受け取っていたが、一拍空けて混乱したようだった。
「え、なんでくれたの? 俺、今から同じもの食べるのに?」
真鶴がその日一番の頓狂な声を上げた。少しだけ馬鹿にされたとも思ったし、だけど明らかに嬉しさの方が優っているように見えた。僕はその声に少し驚いたものの、「そう躾けられてる」とだけ返した。担任の金城先生が僕らの隣のグループの方に参加しており、「真鶴君、まずは自分の席で食べようね」と言ったので、その時の会話はそれだけになってしまった。
だけど牛乳パックを洗いにベランダにある水道へと向かっていたら、道中で真鶴に呼ばれた。
「よっ。給食、もう食べ終わった?」
僕がうんと返すと、「それで俺に会いに来たのかー。照れるー」と真鶴が言った。冗談だったとは分かったけど、僕は社会科の時間の件を思い出し、確かにもっと話してみたいと思った。だけど「うん」の言葉の前に、「真鶴って賢いんだね」の台詞が先に出た。
「え、何? 本当に会いに来たの?」
「え?」
嚙み合ってはいなかったけど、別に否定する気にもなれなかった。
「そっかー、会いに来たのかー。頭良いって言っても、当てずっぽうだったけどなー」
僕は社会科の話がしたくてうずうずしていたので、「それって、『サザエさん』のやつ?」と聞いた。真鶴は何のことか分かっていない様子で、「へ?」と言った。確かに、僕は先走り過ぎて真鶴の言葉を自分の都合よく解釈してしまった。だけど真鶴は僕の関心が今どこにあるのか、ちゃんと読み取ってくれたようだ。
「あぁ、あれ? あれは当てずっぽうじゃないよ。俺、小学校の時から『サザエさん』についてそう思ってみていたし。逆に皆そう思って観てるよな?」
真鶴が歯を見せ笑いながら他の前川の子達に同意を求める。僕は一瞬だけ、何故だが狼のアジトに迷い込んだ一匹の羊に自分を準えた。だけどすぐに、僕は卒業前に書いた日記のことを思い出し、それもあってその映像は頭の中からパッと消えた。
「あの、しーなもね、『サザエさん』観てた時に、何か悲しくなるなぁってことをね、前に、自分の日記に書いたんだよ。あの、核家族がどうのこうのってこととか」
僕は話しながら自分で「おや」と思った。思っていたよりもスムーズに言葉が出ない。僕の頭の中で、先ほどの映像とは全く違う、今度は幼稚園の見慣れた風景が何故だか映し出される。同時に僕は一生懸命、真鶴に『サザエさん』への感想を聞いてもらおうと頑張っている。そして不思議なことに、僕は自分自身に起きているこの2つの出来事に対して実感が伴わない。僕が内心で静かに驚いていると、真鶴も何か他のことで驚いているようだった。
「え、でも、しーなぁさっき、俺が言った後一人だけ笑ってなかったよね」
僕はその言葉で「え?」と我に返る。真鶴は社会科の時間の威勢を少し残しつつ、なんだか反省しているようにも不服のようにも見えた。
「え、だって、凄いなぁって思ってたから」
「凄いって何が?」
「あんな風に考えられるの。どうやったら考えつくの? 教科書いっぱい読んだら良い?」
僕が少し前のめりになると、途端、真鶴は身を引きつつ少し照れたようであった。そして「しーなぁ、素直だからこれあげような」と言って、僕にチーズを2つともくれた。僕が喜んでいると、ちょっと考えた後、「代わりに、俺の牛乳パック宜しくな」と言った。見ればまだ開封すらしていない。僕が「えー」と軽く不平を漏らすと、「まぁ、タダとは言ってないしな」と返された。僕にとって真鶴はまだまだ分からない人物だけど、この日から等価交換が始まった。