3. 2回目のホームルームと自転車の事故
第3話。第1、第2話を執筆した反響は、シンが少しだけ協力的になったという点だ。昨日までの三日間、父さんと福岡で会っていたこともあって、久しぶりにちゃんと肉を食べた(別に菜食主義という訳じゃないけど、苦学生の僕らは主に経済的な理由で普段肉を食べない)。それならちょっとくらい泣いても平気だろうと、シンは中学三年生の時の記憶を少し掘り下げて見せてくれた。ユギが大切にしている記憶とは別の、部活終わりに関するものだ。「だって絶対、捕まるより轢かれた方が方がマシだもん!」、下り坂を走りながら、そうシンが頭の中の誰かに叫んで道路に飛び出す。ここではそこまでしか書かないことにする。だけどシンが遭った一連の出来事を追体験しながら、僕は父方の祖父母の家のベッドで目を見開き、涙を流した。体を起こしてシンを思考の中の視界で捉えようとしたけど上手くいかなかった。そもそも視界になんか居るはずがないのに、どうしても僕はシンを呼ぶ時に後ろを振り向く動作をしてしまう。もしも順番通りに進めるとなると、三年生の頃の出来事を書くにはどれ程の年月が掛かるか分からない。だけどシンがその記憶が誰かの為になると信じているなら、僕はシンの期待に応えたいと思っている。それに、今回の話の後半部は、まさにシンが見せてくれた記憶と同じ坂道での出来事じゃないか。
順当に、続きをシンの視点から書き進めよう。
入学式の日の夜、僕は真鶴と高良の喧嘩について日記に「ちょっとだけビックリしたけど」とだけ書いておき、後は待機時間に遅れたこととか、夜に家族でレストランに行ったことなんかを中心に書いた。でも正直に言えば僕の鼻梁はまだ少し痛かったし、就寝しようにも心臓が少しバクバクしていた。でも明日の金曜日もまた学校に行かなくちゃいけないので、僕はリビングから聞こえる父さんと母さんの声を無視して一生懸命眠るように努めた。
朝を迎え、僕がまだ準備を終えていない時間に崇登が迎えに来た。崇登の様子から昨日の出来事に対する謝罪の念が読み取れたので、僕は父さんと一緒に登校する約束を断って、すぐに身支度を済ませて家を出た。
道半ばで崇登が「しーなぁ、鞄、黒にしたんだね。いつ買ったの?」と僕のリュックサックに興味を示した。沖縄県外では鞄や靴、靴下なんかが学校指定の物に限定されているらしいけど、僕らの中学校は沖縄県内の例に漏れず、過度に派手でさえなければ自由に選べた。
「この前の日曜日。その時に眼鏡も買ったってば。明日くらいに取りに来て、って」
「しーなぁ、目ぇ悪いもんね。俺の手どんくらいからはっきり見える?」
崇登が手を差し出してきたので、僕はその10㎝近くまでグッと顔を近づけると、崇登が凄くビックリしていた。
「お店で測ったら視力0.1しかなかったよ」
「本当ジー? もっと早くに買うべきだったはずよー。しーなぁ、眼鏡着けたらどうなるか楽しみだねー」
「そう言えば、しゅーとーは今日鞄持ってこなくて良かったの?」
「分からん。だって今日鞄要らないはずよ? 要るのかな?」
崇登ののんきな様子に僕は笑ってしまった。そうこう言っている間に学校に着いた。僕は学年のピロティの所で崇登と分かれるものだとばかり思っていたけど、昨日の件もあってか彼が心配そうだったのでN組まで着いていくことにした。だけど8時10分にもなると流石に僕も焦り始めた。「まだ行かなくても大丈夫だよ」と崇登や他の子達に言われていたけど、12分にもなると走って自分の教室へと向かった。
教室では既に盛や彩菜、悠が着席しており、黒板上の時計と僕とを目で往復していた。
「しーなぁよー。今日も遅刻かねって思ったさー」
「ううん、詩奈7時40分には学校に来てたよ」
「でも自分の教室に居ないと遅刻だよ」
悠が「しーなぁ、真面目だと思ってたのに。俺も明日から遅刻して来ようかな?」と笑って言った。そう言えば悠はヤンキーに憧れている節がある。悠に嫌な方向へと影響を与えてしまいかねないので、僕は月曜日からは気を付けようと思った。
悠の後ろの方で真鶴がこちらに向かってくるのが見えた。しかし鐘が鳴ったこともあり、真鶴は少し躊躇し、教壇へと進行方向を変えていった。そして「えっと、朝の会を始めます」と挨拶をした。しかし恐らく突発的に取った行動だと思われ、真鶴自身も何をすれば良いのか分からなさそうだった。それでもクラスの運営自体には慣れているらしく、真鶴はすぐに「委員会の続きを考えよう」と言った。長堂さん(今朝「こずえーおはよう」と言ったら「馴れ馴れしく呼ばないで」と言われたので今日からこう呼ぶことにする)も少し意外そうな表情をしたけど、すぐに教壇の方へと向かう。そして真鶴が黒板に文字を書き始めた途端に先生が到着した。
「お早う御座います。皆さん、あの後帰っちゃったんですね……」
先生はそう言ってため息を吐いた。後から別の子から聞いた話だと、先生は出て行った後の1時間後程で戻って来たらしい。
先生の説明によると、今日は学校を見て回ったり教科書の配布をしたりで、各科目の授業が始まるのは明日からとのことだった。それに、直後に行われた委員会の代表決めも、思ったよりもあっさりと決まってしまった。僕は先生から直々に指名を受けたこともあり、生活委員に抜擢された。本当は前川小学校の時にやっていた図書委員を希望していたけど、それは古謝小出身の別の女の子が引き受けることになった。その子は小柄で大人しそうで、確かに本が似合いそうだ。そう言えば昨日、真鶴と高良が喧嘩していた時にあの場に居た1人かもしれない。名前を見たら「具志川真也まや」と書いてあった。彩菜が「猫みたいな名前だね」と言ったけど、僕にはどういうことか分からなかった。後で教えてもらったら、沖縄の方言で猫のことをマヤ―と呼ぶらしい。確かに、「クソ猫(クスマヤ―)」なら聞いたことがあったけど、クスとマヤ―が分解できるとは知らなかった。
8時30分にまた別の鐘がなった。40分から1時間目が始まると言うことだったから、僕は真也の所に行ってみることにした。
「ねぇ、図書委員になった子だよね。詩奈って言うの。宜しくね」
トウマや高良の時と同じように、僕は手を出した。だけど真也は2人とは違い、「えぇ? あぁ、宜しく」と一度間を置いて握手に応じてくれた。僕の方も、初対面での握手は古謝小学校の方の習慣だと思っていたので、真也の反応に少し驚いてしまった。
「図書委員、なれたの良いなぁ。詩奈もね、小学校の時に図書委員やってたんだよ」
僕はこれに続けて、「まーやーも本読むの好きなの?」と聞くつもりでいた。だけどいつの間にか真鶴が近くに居て、「なんだそれ。今更そんなこと言っても、もう決まったんだから我儘言うなよ」と笑われてしまった。僕が「えっ……」と困り顔を向けて身構えると、真鶴の方も「ん?」と僕の反応に目をぱちくりさせていた。僕が最初の予定通りに真也に質問しようかと思ったところで、航平に「しーなぁ、ペン借りたいからこっち来て」と呼ばれてしまった。「あ、うん」と言って僕が教室の右半分に戻った時、なんだか古謝と前川の境界線をまたいだかのような感覚があった。自分の席へ戻って航平に「何のペンを借りたいの?」と尋ねると、「ううん、嘘。ただ呼んだだけ」と言ってすぐに去っていってしまった。なんとなく、航平は昨日の真鶴と高良の殴り合いの喧嘩のことを誰かから聞いたんだろうなと思った。
鐘が鳴るとN組から順に学校案内が始まったようだった。僕らは最後のクラスということもあり、その前に給食当番や掃除のペアやその順番を決めようと言う話になった。僕は給食当番を彩菜と組み、掃除は3人1組らしいから、お絵描き仲間の光と秋穂に声を掛けた。2人から同意を得られたので、僕は3人分の名前を紙に書いて提出した。先生が「前川と古謝の子が混ざった方が良いんじゃないかなぁ……」と僕に同意を求めたけど、僕はこのままのペアであってほしいなと思った。
「じゃぁ、掃除の場所を振り分けます」
そう長堂さんが黒板に向かった時、僕は「おや」と違和感を覚えた。僕ら一年生のホームルームがある三階にはトイレが2か所配置されており、その内一か所が僕らのクラスが掃除を任されていたのだが、そこの担当者の名前を書くときにだけ長堂さんは一度手を止め、そして紙を選別した後に僕達の名前を書いたのだ。それは本当に些細なことではあったけど、胸の内にモヤモヤが募る出来事だった。クさらに長堂さんは僕の方を見て、「文句ないでしょ?」と聞いた。僕が何か返事をしなきゃと思っている間に、真鶴が「お前、それ自分がわざとやったって言ってるようなもんじゃんか」と言った。
その出来事が起きた時、先生は教壇のすぐ近く、盛の前の方に座っていた。先生は何か言いたげだったけど、タイミングを逃したのかHRはその後も滞りなく進んでいった。
鐘が鳴って2時間目と3時間目の間の15分休みになったので、僕は盛と彩香に「他のクラスに行ってみるね」と言って教室を後にした。
入学式後の休日、僕は家でじっとしているのも落ち着かないので、自転車に乗って自治体の図書館にまで足を運んだ。図書館で本を数冊手に取ってみたけど、どれも集中して読むことが出来なかった。僕はまた自転車に跨り、いつもは行かないような所にでも行ってみようかと中学の方まで進んだ。坂を上り、古謝小側の地区を散策してみようと思ったが、暑かったので気が引けた。坂道を下るのが娯楽になるかと思って先の方を見て見ると、その麓に同世代と思われる人影が2つ見えた。近付くにつれて、その内一人に既視感を覚える。真鶴だ。
しかし、実際には副委員長の男の子」と言う認識こそあれ、僕は真鶴という名前を思い出した訳ではなかった。それでも、自転車で下り坂を猛スピードで下っていたせいか、僕は不思議な全能感に抱かれていた。それに、アドレナリンには他人に親しみを感じさせる作用でもあるのだろうか。その時、僕は真鶴に対して竹馬の友であったかのような親近感を向けていた。(尚、実際に僕は幼稚園と小学生の時に竹馬が得意だった)。挨拶をしなければという正義感が僕の内側で燃える。僕は右手を離して、「おーい、副委員長―!」と手を振った。
しかし、それがいけなかった。僕の自転車の左ブレーキは効きが悪く、そして僕自身の体幹もスピードを上手に操るには十分に鍛えられてはいなかった。僕はうえっと間抜けな声を上げ、真鶴とその友人の足元に辿り着く頃には横転し、それでも僕と自転車は慣性の法則に従い横断歩道の途中まで地面に体を擦り付けながら滑走し続けていた。法定速度に従っていた車が運悪くその場に居合わせ、急ブレーキを踏みながらクラクションを鳴らす。幸いにも、ぶつかりはしなかった。体幹こそ未熟だが判断力と瞬発力はそこそこ鍛えられていたようで、僕はその車が自分の半径1メートル半範囲に入るまでに大急ぎで体を起こして、すみませんとペコペコしながら真鶴達とは反対の歩道へと移った。それでも、その間、体ががくがくとして不格好で恥ずかしかった。男の人の声で「危ないでしょう、気を付けなさい!」といった文言で車窓から怒鳴られている間も、僕は恐々としながらもハキハキ「すみませんでした」と答えた。その車が通りすぎた頃、僕は「いってぇ」と顔を抑えた。少しだけほっぺが掠れている。その後腕、足と順に痛みを覚えた。人体の部位によって感度が違うという事実は、実体験を伴ったことでようやく初めて認識出来た。僕は右手で左腕を抑え、そのまま石灰岩の質感の強い側溝の蓋の上で、小さく唸り、土下座をするように蹲った。
しかしすぐに真鶴達のことを思い出し、パッと顔を上げ、笑顔を引き出しながら「あ、ヤッホー……。ビックリさせてごめんね」と声を掛けた。彼らは少し戸惑った様子でこちらと互いとを目配せし、相談の結果こちらに来ることを決めたという感じだった。
真鶴が僕に声を掛ける。
「それ、お前の自転車?」
僕はうんと答えた。その時には首や肩が一番損傷を受けたのではと思い始めていた。
「へー、そっか、うん。カッコいいの買ってもらえて良かったな。後、泣かなかったの、偉かったと思うよ」
後ろの見知らぬ少年の目に映る恐怖を隠すかのように、少し声を上ずらせながらも、真鶴は僕の方へと前へ出た。僕は自転車が褒められたのが嬉しかったので笑顔を向けながらお礼を述べた。すると真鶴が一度躊躇った様子の末に僕に手を差し出してくれたのだが、僕の手は自分の足のかすり傷を触ったせいで若干血に汚れていたこともあり、相手に何か悪いばい菌でも移しては大変だと判断し、「大丈夫だよ」と慌てて自転車を起こした。
「あの、ビックリさせて、本当にごめんね。また月曜日に!」
僕はそう言って自転車に跨り、転んだところを見られたという恥ずかしさを原動力にして帰路に就く。
「え、おい。ケガ、洗わなくて大丈夫だばー!?」
後ろ背に真鶴がそう叫んだ。僕は「大丈夫だよ、お家帰ってからちゃんと洗うから!」と叫んだ。
ところで、その帰り道に自転車の乗り心地が大変に悪かった。僕が自分の家に着く前に近所の仲の良い年下の男の子たちと会ったところ、後輪がパンクしていると聞かされた。そしてその子たちに急かされながら、僕は彼らと一緒にケガの手当てをした。