プロローグ
このお話の本編にはいじめや孤独等の問題を含んでおります。ご自身の心境に負担の掛からないタイミング等で読み進めるようご注意ください。
数日前に観たアニメに、二階に居る複数のキャラクターが、窓外の別のキャラクターの顔面目掛けて物を投げつけるというシーンがあった。それ以来、なんだか調子がおかしい。今も信号待ちをしているだけなのに、やけに強く目を瞑ってしまう。そのくせ、今この瞬間おかしなことを思っている。進入車両側の信号が黄色に変わった瞬間に横断歩道へ飛び出したら、果たして無傷でいられるだろうか……。最近この妄想に取り憑かれている。それに、車道で立ち往生しているあの白いビニール袋に、変に同情している。そいつは宙を舞ったと思うと、車体に弄ばれ、地に着いたかと思うと踏みにじられる。あぁ、お前は僕だ。痛いよね、ごめんね。知っているのに助けられない。僕は自分の腕を力一杯に掴む。あれは生き物なんかじゃない。救命のつもりで行動を取ったところで、他人に迷惑を掛けるだけだ。分かっている。それなのにどうしてこんなことばかりを思うのだろうか。
いや、あの時、アニメを見終わった僕の感想そのものがおかしかった。一緒に観ていた肥後は「不条理ギャグだから仕方がないよ」と言った。それでも、僕の動揺は治まらなかった。僕は彼女に答える。「だって、上から物落とされたら、無茶苦茶痛いんだよ。自分も中学生の時に青のカンカンの筆箱を使ってたけど、それを同じ女バレの子に昼練のランニング中に二階から落とされて、顔に当たったことがある。眼鏡も掛けてたし、鼻梁が潰れたかと思ったもん」。
発言が終わってから僕ははっとした。またやってしまった。昔話なんて恐がれるだけなのに。中学校当時からそうだったじゃないか。でも、中学校の時って……? 実を言うと、あまり覚えていない。それでも、中学校の記憶に蓋をする切っ掛けは覚えている。高校を入学してすぐ、半ば強制で行ったあのおまじないだ。
進学した高校は、交通が不便な農村部にあった。そのため、僕は高校以降、父と二人でその近くに移り住んだ。その周辺はサトウキビ畑に囲まれており、その奥には青い海が広がっていた。建物で空が狭められると言う感覚は皆無で、人も少なく長閑だった。何より中学校との違いを一番感じたのは、同級生の性格の傾向だ。進学校というのは、中学校の各クラスの委員長達と代表会議をしているかのようだ。誰も喧嘩をしない。気が緩んでいる時でさえ、彼らは自分の言葉が他者を傷つけないかと気を配っている。誰からも敵意を感じない。僕が特別優れている訳でも優しい訳でもない。居心地が良かった。僕の気は大分緩んでいた。
僕は高校入学当初から別段自分から中学校時代の話そうとはしなかった。ただ、早朝クラスや提出物の多さで「中学校に戻りたい。中学校は楽しかったのに、高校は辛い」と泣いていた女の子と、その子を心配するグループの子達に対して、励ますつもりでついうっかり口を滑らしたのだ。
「そうなんだ。でも詩奈は高校の方が平和だと思うよ。二ヶ月も経ったけど、皆優しくて、いじめてくる人居ないもん。凄く良い学校だと思う。勉強さえ乗り越えたらきっと楽しいよ。課題だって、英語のだったら詩奈が教えられるし」
僕はその時、その子が泣き止んでくれさえすれば良かった。しかし、僕が中学生時代を語る上で大前提としていた「いじめ」という言葉は、彼女たちを酷く怖がらせていた。僕は言葉が終わると、彼女達の青ざめた顔を見て、何か大きな溝を感じた。外は快晴で、気持ちの良い日差しが降り込んでいる。何故そんな顔をするのだろう。
その後も、彼女達は僕の話に耳を傾けてはショックを受けていた。僕は別の友人達に、幼稚園でよく蜂を捕まえては刺されたこととか、小学校では教室で作文の朗読を促された途端にスズメバチに刺されたとか、そう言った出来事を聞かせていた。僕にとって、これらは笑い話の一種だった。しかし彼女達にとってはそうではない。これらは僕が傷ついた悲しい出来事なのだと彼女達は言った。それなのに僕自身がそれをケラケラ笑って話す。そして彼女達の中で簡単な推論が生じる。
詩奈様は中学校の時の嫌な記憶を、今もなおはっきりと記憶していて、それを楽観視しているに違いない、と。
心配はそれだけじゃない。彼女達が僕を「詩奈様」と呼んで一種の敬意を示してくれていたにも関わらず、僕の成績は芳しくなかった。実際僕は英語以外の評価には無頓着だった。数学は赤点じゃないことの方が希だった。化学については努力をしても無理だと思った(それなのに不思議と、化学の松恵先生は僕のことを大変気に入ってくれていた。何故追試も含めて漏れなくテストで赤点だった僕が、毎回3の成績を貰えたのだろうか?)。彼女達に何故勉学に励まないのかと尋ねられた際、僕は本当なら親しかった友人と同じ学校に通うために、この学校を辞退するつもりでいたからだと答えた。だけど自分達の代で一番倍率が高かった学校の推薦入試で合格した為に、その試みが頓挫してしまった、だから成績が悪ければ退学になれるかもしれないから、勉強に身が入らないと付け加える。彼女達はそんな風に自暴自棄になるのはおかしいと言った。
さらに、ある会話を切っ掛けに、僕の中学生時代に対する彼女達の恐怖は頂点に達した。僕の母校から高校へは僕の他に女子二名と男子二名の同級生が居た。その内一人が岸と言う男子で、僕の中学生時代のことを他の子に聞かせていたのだ。そしてその情報を元に、ある男の子が僕に「長治さん、中二の時に二階から飛び降りられるか、って聞かれて、本当に飛び降りたんでしょ?」と聞いてきた。僕はその質問に面を食らったが、「岸さんが言ったんでしょ。もう、要らんこと言うね」とだけ言ってその場を離れた。しかし、傍らでそれを聞いていた彼女達はパニックだった。
その後彼女達に聞かれるまま、僕は飛んだのは事実だと答えた。別にそれがいじめの一環だったとか、そういう話じゃない。その男の子と話すのは久しぶりだったくらいだ。ただあのタイミングでその冗談を言われた時、僕は丁度全能感を欲していた。彼女達が更に詳しく聞き出そうとする中で、僕は自分の返事が『坊ちゃん』の冒頭とよく似ているに気が付いた。何だか少し気分が良くなり、「まぁ坊ちゃんと違って、詩奈は一週間どころか腰なんて抜かさなかったけどね」と言った。すると内一人がしくしく泣き始めた。
でも、二階から飛び降りたって、何だったっけ?
その後も彼女達は何とか僕の中学生時代の情報を集めようとした。ただ、彼女達は僕が笑って話すのを気味悪がっており、人伝に聞く方を好んでいた。そのおおよそ一週間後、彼女達の中で一つの結論が出たらしく、「中学校の時のこと、絶対に忘れた方が良いよ」と僕を説得しに来た。特に日奈子さんが熱心で、彼女はインターネットで忘れるための「おまじない」を探してきて、それを僕に勧めた。無論僕はそれを断った。しかし「だけど二階から飛び降りたんでしょ? 詩奈様、女の子なのに、危ないよ」と涙目で言われると弱ってしまった。何より、こんなに親身になってくれる人を蔑ろにしては罰が当たると思った。彼女の気が済むなら、形だけでもやってみることにした。
正直、日奈子さんのおまじないが本当に効くとは思ってなかった。用意してと言われた物は2つ。人形とそれを入れられる箱。人形は用意できなかった。だけど、宝箱の中のトレーディングカードでも大丈夫だと言われた。それは転校前の小学校でラブレターと共に貰った品だった。自分がこのおまじないの行程を全て記憶しているとは思わない。ただ、本当は自分の名前を使うはずだったということだけは覚えている。だけど、僕はどうしてもそれは避けたかった。長治詩奈と言う人格全体が機能しなくなる恐れがあったからだ。「中学で一番仲が良かった人の名前でも良いから」。そう言って日奈子さんが焦る。僕はとうとう、一番特別だと思った男の子の名前を挙げた。そしてトレーディングカードに念じるように呟く。「お休みなさい、××君……」。そうして僕はトレーディングカードを宝箱の中に入れた。後はこの箱を、普段は目に付かない場所に置けば良いらしい。僕は家に宝箱を持って帰ると、それをクローゼットに仕舞うことにした。
しかしいざ仕舞うとなると、もはや彼と永久に会えなくなるのではないかと思った。僕は念のためそのトレーディングカードを取り出し、「お休みなさい、きっと、十年くらいの間だけ。お休みなさい……」と言った。そしてもう一度箱の中に入れる。
その後、何だかベランダから見えるサトウキビ畑の緑と、海と空の青のコントラストが、今まで以上に心地よく感じた。
それから、僕は次のことも覚えている。高校2年生のある日、僕は何かに急かされるように唐突にその男の子に手紙を出さなければと思った。だけど卒業アルバムにはその子の住所は掲載されていなかった。個人情報保護法の時代なのだ。それでも、書くことそれ自体が必要なのだと気持ちが逸る。しかし実際に「××君へ」と書き終えた途端、僕は書き記した数行の文句の他に、何を書けば良いのか頭が働かず、数日後にはその紙を単なる書き損じの紙として認識して何気ない調子でごみ箱に捨ててしまった。
僕は意識を十字路に戻す。故郷の沖縄を離れてもうしばらく経つ。それなのに今になって、中学校時代の記憶がぽつりぽつりと思い出される。中学からも高校の時に住んでいたアパートと同じような景色が見えていた。それでも、その記憶には何故か、手すりの外へ前のめりになる感覚が嫌に伴う。
僕は首を振る。移動に集中しなければ。先ほどの横断歩道もとうに過ぎ、今や踏切の前に居る。遮断機が開くまでの時間が奇妙なほど長く感じる。僕の他に何人か遮断機が開くのを待っている。だけど、どの人も僕ほど緊張していない。自分だけが変に体を強張らせ、目をかたく瞑って俯いている。
そうでもしないと、線路の中へと進んでしまいそうだから。
この破壊への吸引力はどこからやってくるのだろうか。
僕は気を紛らわそうと、腕時計に目をやった。文字盤には日付も表示されており、そこから今日が11月22日だと再確認した。そしてその時、ある男の子のことを思い出す。
ニーニー。
中学校3年間、そう呼んで親しんでいた彼だ。
僕は足元から震え始めた。何故、どうして。今まで彼のことを忘れていたのだろうか。電車が通り過ぎ、遮断機が開く。僕は線路を横断しながら、中学時代のことに思いを巡らし始めた。