追憶の断片
大都市の国境沿いに歪な楕円の影が差していても、それが浮島によるものだと理解している者は変わり映えのない日常の景観の一部として捉えていた。
島と言える程度には大きいそこはグレイアム家の領地であり一族や使徒が多く住んでいる。
閉鎖的な彼等は殆どを浮島で過ごし仕事以外で姿を見せる事がないと言われる。
物珍しさで二度見三度見されるのが常だ。
好奇の視線に晒されてもグレイアム家の魔道士はすっと伸ばした背筋をそのままに厳格な態度を崩さないため、興味のままに近寄ってくる者はいない。
眼差しは凍えそうな程に冷たく、ありもしない痛みを感じてしまったのか目が合った者は反射的に顔ごと下へ背けて気まずそうにやり過ごすのだ。
誰しもが抱くグレイアム家の印象として閉鎖的で近寄りがたいと囁かれるのも納得である。
そんな彼等の性質に似つかわしくない、華やかな性格の子供が生まれたことで少しばかり変化が生まれつつあった。
取り繕った言い方をやめるとただの問題児である。
ことごとく家訓を破り浮島の外の世界へ飛び出そうとするラルエルの手綱を握るのはさぞかし骨が折れることだろう。
双子の兄であるシラゼタと共に当主の子として生まれ、才にも恵まれたが故の雁字搦めの生活に耐えきれずラルエルが自由奔放になるのも早かった。
本当に早かった。
しかしそんなラルエルのことがシラゼタは羨ましかった。
「兄さん!」
駆け寄ってくる声を聞いてシラゼタの小さな背中が震えた。
ぐっと立ち上がって目元を擦り、なるべく平然を保って振り返るがその鼻は赤く泣いていたのが一目瞭然であった。
当然ラルエルが気付かないわけもなく、かといって余所余所しい態度をとるような繊細さも持ち合わせていなかったため、明け透けもなく言うのである。
「泣いてるじゃん。またいじめられたの?」
「…やり返したもん」
同年代の子供達より身長が低く力も弱いシラゼタはなにかと揶揄いの的になることが多く、当主の息子のくせにと罵られ今日のように泣かされてしまうことが多々あった。
その度に大暴れしようとラルエルはシラゼタの手を引っ張り率先して周囲が頭を悩ませる行動をするのだが、それがなければシラゼタはもっと鬱々とした性格になっていたかもしれない。
しかしとうとう積もり積もった怒りが爆発したのである。
三日間飲まず食わずで瞑想をするという修行生にとっては軽い試験のようなものがあるのだが、上手くいかず補修となった子供達がお前も落ちろとばかりにシラゼタの瞑想中に石を投げてきたのだ。
額に殊更鋭い石が当たり皮膚が裂け血が流れた所でシラゼタの堪忍袋の緒が切れた。
彼は猛然と立ち上がると一番体格の大きい少年の胸倉を鷲掴み、ラルエルですら聞いたことのない怒号を相手に浴びせたのだ。
「いい加減にしろ! はっ倒すぞ!!」
噛みつかれそうな剣幕に怖じ気づいた少年が無理矢理シラゼタの手を振り払い、悔しそうな顔をしながら無言で取り巻きと足早に帰って行った日から数日が過ぎた頃である。
名前の通り、空に浮かぶ浮島には深い深い渓谷がある。
聖水が流れる滝にぐるりと囲われた陸地には悪鬼が閉じ込められており、グレイアム家の修行の地として利用されていた。
まだ見習いであるシラゼタ達は許可なく私情で魔法を使うことを禁止されているため、この谷に近づくことはあまりいいことではない。
にも関わらずシラゼタがいるのは度胸試しだとクラッデオと彼を取り巻く子供たちに連れてこられたからだ。
同い年の中でもクラッデオは特にシラゼタへの当たりが強く嫌がらせを受けるのも日常茶飯事なのだが、このようなことは初めてだった。
泣き虫でいじっぱり、それでいて負けず嫌いな部分があるシラゼタの表情が不安に曇る。
クラッデオは悪意のある笑みを浮かべながらくいっと谷底を指差した。
「弱虫って言われるのが嫌なら証明しろよ。聖水の結晶をとってこい」
僅かな光でさえも浴びることで星のように輝く結晶と、それを避けるため蛇行する悪鬼という対比の激しい図が広がる渓谷にシラゼタが唾を飲み込んだ。
崖際ぎりぎりまで進み大きく息を吸う。谷底から冷たい風が吹き上げてシラゼタの髪を乱した。
腹を括り片足を宙に伸ばした瞬間、力強く体が後ろに引っ張られた。
「何してんの」
「…ラルエル」
むすっとした顔の弟がそこにいた。
安堵からシラゼタの瞳に大粒の涙が溜まり頬を流れていく。ラルエルは困ったように兄の肩を二回叩くとくるりと振り返ってクラッデオを睨め付けた。
ラルエルに苦手意識を持っているクラッデオは決して目を合わせようとせず、きょろきょろと忙しなく視線を彷徨わせている。
「人に強要するなら、まず自分で手本をみせろよ。ほら」
「う、うるさいな。お前のせいで白けたからなしだ、なし」
一刻も早く立ち去りたいと願っているのが分かるほど足早に去っていくクラッデオの姿が見えなくなると、シラゼタの嗚咽が聞こえ始めた。
ラルエルは彼の手を引いて渓谷から離れていく。
「まだ、かえりたくない」
「ずっとあそこにいたら怒られるだろ」
「こんな、こんなんじゃぼく、当主になんてなれない」
「兄さん以上に相応しい人なんていないよ」
二人は木陰に腰掛け、ぐいぐいと顔を拭うシラゼタにラルエルはさも当然のように告げた。
「俺が側近として手伝う。そうしたらもう無敵でしょ」
「…絶対の絶対?」
「絶対」
だからまずは一番強い魔道士にならないと。
六歳の頃の約束をシラゼタはまだ忘れられずにいた。
「師匠?」
ラエルの呼びかけを受け思考の海に沈んでいたシラゼタはふっと我に返った。
高く囲われた平垣、地面に敷き詰められた台石と標的に見立てられた甲冑、鼻を掠める森林の香り。
いつものネフィファネ家の訓練施設である。
先日の件から実践への評価を判断されたラエルは本格的にシラゼタから魔道士としての指導を受けていた。
次の討伐隊にも抜擢されたことで少年少女達からもラエルは注目を浴び始めていた。
中には宜しくない感情も混ざっているがラエル本人は気付いているのかいないのか、飄々とした態度を崩さないため近寄りがたくとっつきにくい印象を持たれているようで、ここに来てからというもの一人でいることの方が圧倒的に多い。
それを悲観するどころか友達いないよと自ら申告する位には全然平気そうである。
最近になってシラゼタは思う。そういう所が弟に似ているなと。
他にも節々にシラゼタの記憶を引っ張り起こすような言動が見られる。
もう終わったことだと区切りをつけたはずなのに苦いものが込み上げてくる。
憎しみより未練が、未練よりも憎しみが。
黒いわだかまりはずっと消えずに彼の中で行き場を求め彷徨っている。