紛れる炎
悪鬼は負の感情が具現化した化け物だ。
憎しみや怒りで我を失い自我を手放した先に待つ最悪の末路である。それは精霊だけでなく人間でも同じである。
どちらにしろ堕ちてしまえば討伐するほかない。
どうやら今回は人間が悪鬼へと堕ちたようだが、しかし厄介なことになっているらしい。
堕ちた人間が魔道士だったのだ。
事例としては珍しくないが下手な精霊より討伐の難易度が高い。
その地域を管轄している魔道士家が自分達だけでは厳しいとネフィファネ家に援護を要請するのも分かるし、派遣されるのがシラゼタ含む優秀な魔道士達であるのは申し分ない人選だ。
……そこにぽつんと紛れているラエルがいなければ要請した魔道士家の人達が首を傾げることもなかっただろう。
弟子だからって便利な言葉だよな。強制連行出来るんだから。
ラエルを引っ張り込んできた師匠は傍目から見ても機嫌が良く、仕事する気満々だと勘違いされたのか周りの魔道士達の士気まで上がっている。
飄々と要請者から話を聞き、魔道士達に指示を出して各自配置につかせた。
ラエルはシラゼタに付き添いながら、爛々と輝く満月に照らされた湖の水面をじっと見ていた。
足を運ぶほど大きな都市ではない港町だが商業は盛んなようで、魚介類などの軽食が売られている露店があちらこちらにあり昼間はさぞかし賑わいをみせていることだろう。
南に広がる草原の向こうに連なる山々を越えてやって来た訳だが、その途中にあった湖にまた戻ってくる羽目になるとは二度手間だったなと独り言ちる。
立派な邸宅が三個分程の大きな湖を囲むようにして魔道士達が水中の様子を伺っている。
悪鬼と化した魔道士は複数の悪鬼を引き連れてこの湖を住処にしているようだ。元が水の魔法を使う魔道士だったのでうまいこと適応したのだろう。
この地を管轄している魔道士家も水の魔法を使っているし、彼等の一族の人間であることは口振りからしても明白だ。しかし何故悪鬼などに堕ちてしまったのか。
丁度その理由を今、頭上でシラゼタと要請者の男性が話していた。
堅苦しい内容を耳に入れているとこちらの頭もカチカチになってしまいそうでラエルは首を左右に振る。
本家と分家。
両家は仲違いしていてその確執は数百年にも及んでおり、表立った争い事は避けているもののすれ違ったところで挨拶すら交わさない徹底ぶりだそうだ。
そんな最中で分家の男性に恋をした本家の女性が自分の想いを伝えられる訳もなく。
男性が婚姻したと知った彼女は悲しみに打ちひしがれ、そんな彼女の気持ちに勘づいた本家の魔道士達に散々酷い言葉で罵られた挙げ句、五年もそんな状態が続いた末に悪鬼へと堕ちたと言うわけだ。
強い恨みを抱くには十分な理由である。
しかし両家にとっては稲妻が駆けるような衝撃だったようで、これを機に多少の和解は出来たのだが肝心の悪鬼の討伐に手を焼いていた。
水の中に引き摺り込まれて直面した死の恐怖に怯え挫けた魔道士が悪鬼へと堕ちたり、堕ちずともそのまま息絶えてしまっているのだ。
ネフィファネ家の魔道士達の強さが10とするなら、彼等は精々3…、いや、2が妥当であるとラエルは思う。基本的に精霊でも人間でも悪鬼になると強さは増すし、負の根源が深ければそれに比例するだけでなく、魔道士としての実力も重なるのだからその辺の精霊よりも凶悪な悪鬼へなってしまう。
倒すどころか悪鬼の数が増えてこちらが減る。
ネフィファネ家に助けを求めた経緯である。
波紋すらない静かな水の底に幾多の悪鬼が潜んでいた。
「動きが無ければこちらから動く他あるまい」
「グラオ当主、悪鬼は賢い面もあります。学習するのです」
「知っている」
苛立ちを滲ませていた眉間の皺が深くなり、グラオの目尻は年齢だけでなく疲労からくるやつれの影響で小刻みに痙攣している。
自分よりもずっと年配者な相手にシラゼタは臆することなくやや強めに窘めた。
「湖に大渦を作り炙り出しましょう。私達が前線に立ちますので援護をお願いします」
「承知した」
グラオが視線を下ろす。目が合ったラエルは愛想よく笑っておいた。
「この子は私の弟子です。ちゃんと役に立ちますよ」
「はあ…」
釈然としないグラオを気にする風もなく、おじさんよりも強いよと内心で肩を竦めながらラエルはまた笑顔を浮かべた。
シラゼタが手の平を広げてふっと息を吹きかけるとラエルの半身がすっぽり包まれそうな大きさの水泡が完成し、その上に乗ってゆっくり上空へ浮遊していく。
「ラエルは陸にいて。他の魔道士達と一緒に溢れた悪鬼をお願いね」
「はい」
シラゼタに続き次々と浮遊する者と、ラエル同様陸地で待機する者達に分かれる。グラオは後者で本家と分家の魔道士達と共にシラゼタの合図を待っており、その間興味深そうに水泡を観察していた。
だからついラエルに悪戯心がわいた。
「水泡って簡単そうに見えて繊細なコントロールが必要になるからちょっとコツが必要ですよね」
「…残念ながら私はあのような器用な魔法は使えないんだ。故に、同意も否定も出来ない」
「どっかーんみたいな魔法の方が得意ですか?」
「酷く抽象的だが、まあ、そうだな」
適当に魔力を込めればいけますもんね。
「強い個体相手には通じませんよ」
浮遊している魔道士達が輪になって湖を囲みだした。水面が音を立てて揺れ動く。
「貴殿のような子供に言われずとも痛感している」
生まれた大渦巻きの中から悪鬼の唸り声と叫びが交差し、静寂の夜を切り裂いた。
渦から逃れた悪鬼が地に足をつける瞬間、爪先が触れたかどうかの刹那に首が飛ぶ。
グラオはまだ、身構えたばかりだった。
轟々と燃ゆる悪鬼の体が灰になって崩れ散る。
目を見開いて驚きをあらわにするグラオを置いてけぼりにして、ラエルは次々と飛んで火に入る夏の虫とばかりにこちらへ逃れてきた悪鬼を燃やし尽くしていた。
我に返ったグラオが一匹討伐すればラエルは既に五匹目を片付けている。
上空からシラゼタがラエルに声をかけた。
「ほらほら朝まで働くぞ!」
「それは嫌だ!」
言い返したラエルの視線の先にまた悪鬼が一匹咆哮を上げる。
目にも止まらない速さで伸びてきた腕をひょいと避けて一閃、炎が悪鬼の視界を覆い尽くして焼失させる。
直ぐさま何かを察したかのように振り向いたラエルは腕を振るう事すら無く、目視した先の悪鬼が火達磨になって湖の渦へ落ちていった。助けられた魔道士は中途半端な姿勢で礼を告げるが、それを聞き届ける前にラエルは既に新たな悪鬼を炎の餌食にしていた。
渦から抜け出せない悪鬼はシラゼタ達が確実に仕留めており、残りもそう多くない。ざっと見渡してみても怪我をしている魔道士はいるが死人はでていないようだ。
「いたぞ! あれだ!」
水中から勢いよく飛び出してきた悪鬼が上空の魔道士を巻き込んで地に落ちる。さらに襲われる前に俊敏な動きで魔道士が後ろに下がったが、背中を強く打ち付けたせいで呼吸が乱れている。
「…彼女か」
その悪鬼はまだ人としての形が残っていた。女性と分かる程には人間味はあるが太い血管が浮き出た四肢や鋭い牙は紛れもなく悪鬼そのもので、背骨が不規則に音を立てて曲がっていく様子から変化の途中であると思われる。
しかし理性はもう存在しない。
威嚇の為に唸り、剥き出しになった口から唾液が流れる。濁った雄叫びと耳を裂くような女性の金切り声が重なっておぞましさに身の毛がよだつ魔道士もいた。
「むすめだ」
消え入りそうな声で呟いたグラオの言葉をラエルは聞こえなかった振りをした。後悔した所で過去に戻れないと言うことを彼は痛いほど知っていた。
悪鬼は最後、ネフィファネ家の魔道士達によって八つ裂きにされた。