水の魔道士家
揺れる馬車に身を任せながら、ラエルはぼうっと窓から見える外の景色を眺めていた。
正面に座り黙々と本を読みふけっている男の名はシラゼタ。ラエルの双子の兄である。
彼により自分は殺された筈なのに気付けば現世へと蘇っていた。どうやらこの体の持ち主の仕業らしいのだが、ラエルにはさっぱり分からない。
ウンディーネとの関係を聞かれた時も誰だそれはと口を紡いでいた。
思い出そうとしても思い出せない。蘇った代償に彼女に関する記憶がごっそりと抜け落ちてしまったようである。
上位の精霊が身を捧げるなんて余程のことなのだが全く身に覚えがないのも奇妙な感覚だ。
加えて、まさか兄に拾われるとは予想外にも程がある。
随分と胡散臭い優男に成長したものだ。甘ったるいところが尚更拍車をかけて胡散臭い。
名前を聞かれ咄嗟にラエルと名乗ったが正体がばれたら間違いなくまた殺される。お前の弟、ラルエルだよと言ったその日が二度目の命日である。いらない。
絶対に知られてはいけない。一族を滅ぼした仇なのだから。
早いところ姿をくらませて何処か遠い田舎の土地でひっそり暮らそうと思っていたのに、ついうっかり魔法を使ったせいであろうことか弟子になってしまった。とても面倒くさい。
しかし一方でシラゼタの傍にいられると喜んでいる自分もいるのだがら失笑である。
ちょっとだ。ほんのちょっとだけ。潮時が来たら逃げればいい。
ラエルはちらっとシラゼタに目を向ける。隙のない男だ。緩い雰囲気の癖にラエルが妙な動きをした瞬間、首根っこを押さえ付けて骨の一本や二本平気で折りそうな目をしている。
こちらはどう見たって十五歳前後の線が細い少年の体だ。力負けするのは明らかである。そう言えば、死んだ時もちょうどこれ位の年齢だった。
魔道士曰く、ウンディーネは十八前後の少女とか。
憑依した時に魂の方へ全てがひっぱられたのか。シラゼタと同じ朝焼け色の瞳だったのがウンディーネの色を引き継いで群青になっているのが幸運だ。
「…やだなあ」
「なにがだい?」
口にだしていたらしい。
シラゼタが本を閉じてラエルに微笑んでいる。蛇のような鋭さを滲ませている癖になんとまあ演技派なことで。
「修行とかするのでしょう? 難しそうで心配になってきました」
「それなら大丈夫。私が段階を踏んで教えるから」
全然大丈夫じゃない。
森を抜けて見えてきた渓谷を前に、ラエルは半目になりながら諦めの息を一つ吐いた。
***
グレイアム家が滅んだ後、シラゼタはネフィファネ家に身を寄せていたが、それは今現在も同じらしい。
彼が言っていた領地とはまさにネフィファネ家のことであった。
水の一族と有名なだけあって渓谷の周辺に住む彼等の清らかさは寒気を感じる程である。
ラエルからしてみれば非常に堅苦しい。
余所者な上に事情を持つラエルに対して手荒い歓迎が待っていると思っていたが反応は真逆であった。大人だけでなく子供までも普通に接してくるのだ。理由をたずねれば個を尊重することがネフィファネ家とその一族の掟なのだとか。他にも色々と決まり事があるらしいが細かすぎてラエルはすぐに投げ出した。
しかしそれを許さないのがシラゼタである。
まさかネフィファネ家の当主の前で逆立ちをする日がくるとは思わなかった。お陰で数日は筋肉痛になったものだ。
ラエルがシラゼタの弟子になり、ネフィファネの領地へ来てから三ヶ月。今日から実践の訓練に入ろうとしていた。
濃紺のローブをだらしなく羽織ったラエルにシラゼタはもう何も言わない。
「今日はこの先の森で修行を行う」
「はい師匠」
ネフィファネの森はそれ自体が修行の場だ。決められた場所に悪鬼が放たれており、逃げ出さないよう聖水で周りを囲われている。
「でかい檻ですね」
「そこに今から君を放り込むんだよ」
「優しい声で酷いことを言わないで下さい」
そっと背中を押された。
「五匹退治して、終わったら帰っておいで。時間内に戻らなかったら迎えに行ってあげる」
「わー」
死んだら骨は拾うって含みも込めているだろうな、これ。
予想通りシラゼタの教育はスパルタだった。座学の時から三カ国語を覚えさせてきた人間だ。微塵も容赦がない。
優秀な弟子を持てて嬉しいとかあからさまな煽てに乗ってしまう自分の調子の良さは棚に上げて、ラエルは森の中へ足を踏み入れた。
少し奥まで行った所で聖水がまかれた跡を見つけ、更にその奥へと歩みを進める。
範囲が広すぎるのか、暫く経っても悪鬼の姿が一匹も見えない。探すのが面倒になったラエルは誘き寄せることにした。
近場の枝から手頃な葉を一枚取り、口元に当てて甲高い音を響かせる。小鳥が藻掻いているような音を聞きつけて寄ってくる足音が二つラエルの耳に入り、彼はにやりと口角を上げた。
シラゼタはラエルを見送った後、ネフィファネ家の邸宅で当主に義務となっている報告を行っていた。
白く豊かな顎髭をさすりながらラエルの様子を聞く姿は好々爺のようだが、彼こそ歴とした現当主であり、魔道士界でも指折りの強さを持つマーガン・ネフィファネその人である。
シラゼタにとっては拾ってくれた恩人にあたり、師匠のような人だ。一応、扱いも彼の使徒として悪鬼討伐の仕事を受けている。
報告を受け終えたマーガンは手を叩いて快活に笑い出した。
「随分な問題児じゃないか。そうか、書庫の鍵を隠していたのはラエルだったのか」
「理由をお聞きになったら笑えなくなりますよ」
「いや、いい。大体予想は出来る」
悪鬼に堕ちる兆候はなし。
それだけ分かれば十分だとマーガンは冷めた紅茶を喉に流す。
「それと彼、嘘をついていますよ。記憶がないのは多分違います」
「だろうな。言動があまりにも不一致だ」
「隠す気があるのかないのか。あからさまな過ぎて逆に感心しますよ」
荒々しい動作で書類を机に放ると、シラゼタは足を組んでソファの背もたれによりかかった。
ラエルの身元は相変わらず不明のままだ。魔道士家の出身であることは間違いなさそうだが、それ以外がさっぱりなのである。本人に聞いても下手な演技ですっとぼけるし、あれで誤魔化せてると思うならお気楽なものである。
「頑張れ」
「…はい」
愉しそうに笑いやがって。
二時間と言ったがラエルの実力からしてそろそろ終わる頃だろう。立ち上がったシラゼタに手を振るマーガンへ一礼し、彼はラエルを見送った場所に戻ってきた。
しかし、座学の授業ひとつ分の時間を待っても姿が一向に見えてこない。
訝しんだシラゼタは自ら森の中に入り、聖水の檻までやって来たがそれでもラエルは見当たらなかった。
ぐるりと辺りを見回して目に付いたのはもげた悪鬼の腕一本。
やんちゃのし過ぎで時間を忘れているのかと少々うんざりした気持ちになりながら、茂みをかけ分けて漸く見つけたその姿にシラゼタの目が大きく見開いた。
見上げる程積み重なった悪鬼の死体の山。五十を超えて重なる頂に眠りこけているラエルがいた。
はっと短い笑いがシラゼタから漏れる。怠そうに歩いていた先程までとは別人のような軽快さで死体を段飛ばしに飛び越え、寝息を立てているラエルの額を小気味よく突いた。
「起きろ」
「……はい」
寝起きで乱れている髪を結い直してやり、一纏めにして最後に手櫛で解かすと指の間からサラサラと落ちていく。
自分の巻き毛とは大違いだ。
気付かなかった。どうでも良かった。浅い興味にそれらは含まれていなかったから。
「明日は別のことをしようか」
「その前に頑張った今日のご飯は豪華なやつでお願いします」
生意気め、と笑うシラゼタの声が響いた。