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恋する乙女は最強なんだから☆

 血が滴る。ただの血ではない。

 父を、母を、一族郎党を手にかけた非道で下劣な悪人の血だ。魔物にも劣る畜生に流れている命の火だ。

 轟々と唸りながら燃える屋敷を背に咎人は力無く膝を付き、その首の項を無防備に晒している。

 長い黒髪が地面に垂れ、痩せ細った少年の体はまるで老人のように枯れ果てている。

 たった一年で人はここまで変わるのかと言うほどに、かつての面影は消え失せていた。

「ラルエル」

 剣の切っ先で刺し貫くような声で兄であるシラゼタが双子の弟の名を呼ぶ。

 朝焼けの瞳に涙が浮かんでいた。

「死ね」


 その後三日間、シラゼタはラルエルの首を抱えてその場から動こうとはしなかった。


 大陸全土に戦慄を走らせたグレイアム一族の悲劇は、こうして幕を閉じたのである。



***



 精霊の声は修行を積んだ魔導士にしか聞こえない。

 しかし姿を視認することは可能性だ。

 ウンディーネは透き通った湖に足をつけ、戯れに動かしては水飛沫を上げて待ち人を想っていた。

 ラルエルは不思議な人間だ。時折この森深くへやってきては一方的に喋りかけてきて快活な笑い声を響かせる始末。ウンディーネは人の姿に近い形態をとっているが名のある水の精霊だ。他の高位精霊と等しく傲慢で高圧的だし、他種族への関心も極めて薄い。

 精霊は孤独と誇りを愛する気高い生き物だという意識も変わらずに根付いている。

 そんな彼女の心に割り込み、特別という意味を教えたのがラルエルである。

 恋と自覚してからはまともに顔も合わせられなかったが、大きくなったら一緒にいてという約束をラルエルは快く快諾してくれた。

 だからウンディーネはここで待っている。また明日と言ったきりのラルエルを十六年、ここで待っているのだ。


 しかし、これほど待っているのに迎えに来てくれないのはどうしてだろう。


 ひょっとして彼は自分に飽きてしまったのだろうか。

 群青の瞳に影が落ち、細く吐いた息が痛々しい。

 水辺の風が慰めるかのように彼女の長く艶やかな青髪をそっと一房なびかせた。

 美麗でありながら少女の儚さも兼ね備えた美貌は精霊の中でも群を抜いて美しい。

 それは彼女の暗い心すら逆手に取る程であった。

 どうして迎えに来てくれないのか、不安ばかりが募っていく。

 矜持を傷つけられ、憎しみと恨みの果てに堕ちた精霊が醜い悪鬼となってしまった瞬間も見たことがある。

 なんと愚かでみっともないのだとせせら笑っていたが、今のウンディーネにはその時の精霊の気持ちが分かってしまう。

 ラルエルに裏切られたら、自分は間違いなく悪鬼へと堕ちてしまうから。

 役目を持って生まれた自分はこの地から離れることが出来ない。

 ならば真実など何処へ葬り去り、何事もなかったとここで静かに生きていくことが最良なのではないだろうか。ふわふわと何処からともなくやってきた幾千もの魂が湖の中へ消えていくのをぼーっと眺める。

 その殆どが人間のものというのが気に食わない。

 まあ、精霊は長寿であるし、悪鬼はそもそも輪廻に還ることが出来ず魂ごと消滅するのだから必然といえば必然である。この境界の泉を管理することがウンディーネの使命なのだが、この幻想的な光景を見飽きる位には全うしてきたつもりだ。

 本当は今頃、二人で肩を並べていたのにと女々しく思う。

『こんな美人を放置するなんて酷い人ね』

 それでも嫌いになれないのだから、全く厄介な人間である。

 そうしてまたぼんやりと魂を眺める。

 だが一つ、場違いな魂を見つけてウンディーネは片眉を上げた。

 ひび割れ、今にでも消滅してしまいそうな程傷ついたそれは余程の罪を犯したのか、憎しみと怒りの念に絡め取られ、絶えることのない苦痛に苛まれている。

 不気味な紫煙の隙間から覗く僅かな光が本来の姿なのだろう。酷い有様だ。しかし何故なのか、その魂に見覚えがあるような気がして目を離すことが出来ない。

 自然と伸びた手が触れるか触れないかの距離でびくりと止まり、まるで雷に撃たれたかのような衝撃が体を貫いた。


『ラルエル』


 ウンディーネの記憶はそこからぶつりと途切れている。




***




 人が多い所には邪なものが集まりやすい。

 皇国より悪鬼が数体出現したとの連絡を受け、その地域を管轄しているネフィファネ一族の魔導士達が首都に来ていた。

 俗世から切り離された世界で独自の生活を送っている彼等の雰囲気は、貴族とはまた違った高潔さがあり、近寄りがたいものである。

 男女共に濃紺のローブを羽織り、袖口に向かってゆったりと広がっている。

 彼等は皆首都の出入口である大門に集い、自分達が見聞きしたことを報告し合っていた。

「街の外壁に沿って聖水を重ねてまいてきました。余程強い悪鬼でなければ侵入はできないでしょう」

「昼間でも何体か周辺をうろついていました。住民によればここ数週間のうちに突如として出現したそうです」

「悪鬼へと堕ちた原因は?」

「それはまだ…」

 暫しの沈黙の後、一人の青年が口を開いた。

「まずは悪鬼の討伐を最優先にしよう」

 今は丁度夜であり市民の殆どが寝静まる時刻だ。

 シラゼタの意に賛同し全員が頷く。

 まるで緊張感を感じさせないゆったりとした彼の喋り方や、春の暖かな陽気を彷彿させる穏やかな笑みは人の心を落ち着かせるに十分な効果を発揮するのが本来なのだが、燃えるような朝焼けの瞳に轟々と揺れる得体の知れない感情のせいで、むしろ背筋を凍らせる不気味さを漂わせていた。

 目が笑っていないという言葉をここまで具現化した人間が他にいるだろうか。胡散臭いことこの上ない。しかし彼の過去を思えば、そうなってしまうのも仕方ないだろう。

 

 シラゼタ・グレイアム。グレイアム家の最後の生き残り。


 魔導士界において水のネフィファネ、炎のグレイアムといえば二大勢力として広く知られており、遠く離れた村山にまで名が届いているくらいだ。そしてグレイアム家の当主は各地の魔導士家当主の頂点に立つ総師でもあった。その勢力図が崩れたのだ。

 何百人という使徒と弟子を抱えていた栄華の一族は最早存在しない。グレイアムに属する者は皆、虐殺された。

 

 シラゼタの双子の弟、ラルエルによって。


 生き残ったシラゼタはネフィファネの者に手を差し伸べられ彼等と共に生活しているが、復讐を果たしてもくすぶり続ける炎は消えない。愛憎と虚無の狭間で今日も明日も生きていくのだ。


「いつも通り奴らを誘き寄せてくれ」

 シラゼタの指示に従い近くの森へ移動したのち、二人が水属性の魔法で木の葉を形作り、口元に当てて草笛の要領で音を奏でる。

 一人が低音、もう一人が高音を吹くことで合わさった旋律は悪鬼が仲間を呼ぶときの鳴き声によく似ており、数分もせずに悪鬼が集まりだした。

 瞳孔のない白目は恐ろしいほどつり上がっており、耳まで裂けた口から尖った牙を覗かせてこちらの様子を伺っている。屈強な筋肉で覆われた巨漢な体は背骨が不自然に曲がっていて、だらんと前に垂れた二本の腕も土に触れており、ほぼ四足歩行という獣じみた姿で唸り声を上げ始めた。

 群れのリーダーと思わしき一際体格の大きい悪鬼がシラゼタ目がけ目にも止まらぬ速さで飛びかかってくる。

 シラゼタは余裕さえ感じられる動きで振り翳された腕を躱すと、二、三歩後ろに下がり、性質を変えた水を悪鬼の足元に纏わり付かせる。するとスライムのように変化した水が悪鬼の動きを阻み、大きな隙が生まれた。

 待機していた他の魔導師がすかさず水魔法で攻撃すると全身を切り裂かれた悪鬼が膝を付く。

 それでも歯をガチガチと鳴らし戦意をみせる。

 他の悪鬼は既に事切れ、灰のように崩れて落ちて跡形もなく消滅していた。対峙していた魔道士も自然とシラゼタの元へ集まってくると残っている悪鬼のしぶとさに眉をひそめた。

「不可解ですね。悪鬼にしては自我を持っているような…」

「余程深い恨みがあるのか、はたまた高位の精霊だったのか」

 魔道士達が次から次へと攻撃を放つ。

 事切れる一歩手前まで追い詰めた時、突如として悪鬼の全身が激しく震えだした。

「なんだ?!」

 皆が一様に驚き、身を引いて油断なく構える。

 静かな眼光でじっと見ていたシラゼタの瞳が大きく見開かれた。悪鬼の口からごぽりと何かが零れ落ちたからだ。

 ガラス玉のようにひび割れコロコロと転がるそれは弱々しい輝きではあるものの、無垢で美しい魂だった。

 修行を積んだ魔道士達には分かる。あれは人の魂だ。

 魂を吐き出した途端悪鬼の姿が見る見るうちに変わっていく。ミルクのような白く滑らかな肌、さらりと揺れ流れる艶やかな青い髪が、その美麗な顔立ちを神秘的に彩り、群青色の瞳が静かに開かれる。

 誰かがはっと声をあげた。あれはウンディーネだと。

 本来の姿を取り戻した彼女は蜃気楼のように揺らめいていて、今にも消えてしまいそうだ。

 ウンディーネは先程自分が吐き出した魂を殊更優しくすくい上げ、再びごくりと飲み込んだ。

 変化は実に著しかった。

 髪は漆黒に染まり、縮んだ背丈はシラゼタの腰ほどまでで、骨格から始まり全てが男性のそれへと変貌を遂げた。

「これは…」

 ウンディーネは自らを人柱として魂の持ち主を再び現世に呼び戻したのだ。魔道士達は信じられないという気持ちでその光景に見入っていた。

 ウンディーネに憑依することで蘇った少年の瞳が群青に輝く。地に足をつけた彼は状態を把握するようにぐるりと固まる面々を見渡し、首を傾げた。


「えーと、誕生日おめでとう、俺」


 一気に緊張感が白けた。


 魔道士達は何とも言い難い表情で少年を取り囲むと、気を取り直して穏やかに話しかけた。

「君は誰だい?」

「ラエル。それ以外は何も分からない」

「記憶がないとはまた奇怪な…」

 ざわつき始めた魔道士達を不安げに見上げるラエルの瞳に涙がたまっていき、それに気付いた者からやんわりと庇うような声が上がり始めた。

 異例の事態の中、発言の力を持ったのはシラゼタであった。

「ラエル、君が自分自身のことを調べるためにも、私達が君のことを調べるためにも、一度我が領地に来てくれないか?」

 要は監視である。

 悪鬼に堕ちたウンディーネを人柱に蘇った人間を見逃せるわけがない。またいつこの少年が悪鬼になるとも限らないのだ。

 ラエルはきょとんとシラゼタを見上げた後、何も知らないような純粋な顔で首を縦に振った。

 それににっこりと笑みを浮かべたシラゼタが彼の手を取ろうとした時、後方から悪鬼の雄叫びが聞こえ咄嗟に振り返る。仕留め損なった一匹が飛び上がって襲いかかろうとしていた。

 それに一番早く反応したのはシラゼタだが、動いたのはラエルだった。

 彼は素早く前に躍り出ると右手を前へかざし、そこから轟々と唸る炎を出したかと思うと悪鬼を飲み込み焼失させてみせたのだ。

「あっれ? おれ、体が勝手に…」

 当の本人が一番驚いているため逆に周囲の者達が冷静になった。

 魔道士が使う魔法は炎と水に分かれるが、その多様性をより効率的に発揮させている代表格がネフィファネ家とグレイアム家である。ラエルが炎の魔法を使ったところで、必ずしも彼がグレイアム家とは限らず、何処ぞの炎を使う魔道士家の坊ちゃんと言うのが妥当だ。なにせグレイアム家は数年前に滅んでおり、死んだ人間は魂ごと無に帰したのだから。

 それなりの修行を受けていたのだろうか、一瞬のことであったがラエルの身のこなしは悪くなく、魔法もなかなかの精度であった。

 シラゼタの高い基準を満たしているのだからこの少年のポテンシャルは期待出来るかもしれない。

 なんとなく興味を持ったシラゼタはラエルを自分の弟子にすることに決めた。上手くいかなかった時はすぐ対処すればいいし、特に深い意味もない。

 彼の魔法を見た時に過った面影をかき消すと、シラゼタは常の様に微笑んだ。

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