第三章
第三章
一矢が純子の家を訪問してから一週間が経った。
今日も仕事が終わりまっすぐ家路に向かう一矢。時間は午後7時頃、いつも帰りに寄るスーパーで夕食の買い出しをして、丁度店を出る所で顔にひんやりとした雫が一粒落ちてきた。
「雨が降ってきてたのか」
家までは歩いて5分【全力疾走だと3分】くらいだったので傘を買う事もなく帰る事にした。
まあ、男性は【めんどくさい】というのと【濡れるとかっこいい】という謎の幻想により、雨の中を濡れて帰るのはたいして珍しくもないだろう。そして寧ろそれを【見てくれ】と思い込むほど残念な生き物である。
帰宅路には一か所だけ歩行者しか通れない程の狭い路地を通らなければならなかった。
両脇はコンクリの塀で囲まれており視界が悪く明かりも薄っすらとしていて、反対から誰かが来ても街頭の逆光で顔が見えない様な所であり一矢はあまり好まない場所だった。
買い物袋と仕事の荷物で両手は塞がっており、雨のせいで視界もさらによく見えない。
少しだけ足早に歩きだし狭い路地へと入っていくと、向こうから人影が来るのが見えた。
あまり人とすれ違うことのない道だったので珍しいなと思いながらも、きっとスーパーへ行くのだろうと思い特に気にもとめなかった…。
傘をさしていない事を除いては。
シルエットでしか見えないがフードを被ってる様に見えるので、きっとレインコートを着ているのだろうと考えながらすれ違おうとした時、相手が道を塞ぐ様に立ち塞がった。
「高原一矢さんですか?」
服や地面にとめどなく落ちる雨音の中から聞こえたのは身に覚えのない男の声だった。
「どちら様ですか?」
「娘さん……」
食い気味にそう言いかけると男は体を反転させ路地を来た道へ歩き始めた。
「みあ、娘に何かあったんですか!?」
一矢は慌てて男を呼び止めようと手を伸ばし片足を一歩踏み出したその刹那、後頭部から侵入してきた強い衝撃が全身を走り、視界は眩暈を起こし全てに焦点が合わなくなったまま、まるで【操られない人形】の様にその場に崩れ落ちた。
意識を失ってはいないが何が何だか解らない状態で這いつくばっている。
後頭部の痛みが激しく邪魔をしてきて体が思うように動かない。
「上手くいったな」
「馬鹿っ!まだ安心するな。こいつを運んでからだ」
雨音と衝撃のせいで会話が聞き取れなかった一矢はとにかく命の危険だけは感じ取る事が出来た。
何かをしなければと思い、這いつくばったまま【ゾンビ】の様に必死に手を伸ばし近くにあった男の足を掴む。
「こいつ、離せ!」
男は足を思いっきり振り上げてまさに【空き缶を踏み潰す】勢いで一矢の腕目掛けて振り下ろす。
その攻撃に耐えきれず一矢は思わず手を放してしまう。
「ほら、早く運ぶぞ」
1人が両手、もう1人が両足を掴んで持ち上げようとした時、後ろから雨音を掻き分けながら声が飛び込んできた。
「あんた達!何してるの!……すいません警察ですか……」
声の正体はスーパーで働くパートのおばちゃん(56歳)だった。
いつも一矢が仕事帰りに寄る時、一言会話する程度の間柄であったが今日は傘を持ってない一矢を見て【いらぬお世話】で追いかけてきたのだ。まさにスーパーウーマンである。
これ程【いるお世話】はないなと心の奥で笑いながらも一矢は再び1人の男の足を掴みなおした。
「通報されたじゃねえか!俺は知らないからな!」
焦燥に駆られた男は【犬が吠える様に】そう言うと、1人走って路地から逃げて行った。
「糞っ離せっ!」
一矢に足を掴まれたままの男はもう片方の足で放させようと必死に踏みつける。
すると更なる【いるお世話】によって3人程男性が急いで駆けつけてきた。
「兄ちゃん、そいつ離すなよ!」
体力的には不安なオジサン3人だったが、4対1ならかなりの戦力になるだろう。
そのまま4人で男を抑え込み、彼も観念したのか抵抗しなくなった。
警察が来て色々聞かれたが、まったく知らない相手であったのと誰かに恨まれる覚えもなかったのでその日は病院で検査を受け、そのまま帰宅した。
家に帰るとみあがしょぼしょぼした目でお出迎えしてくれた。いつもよりかなり遅くなったので不安になっていたんだろう。
みあは無事を確認し安心した所で眠りについてしまった。
翌日の午前11時、ソファーに横になりテレビを見ながら【大仏】となっている純子。
テレビを見ていると言っても目に映っているだけで頭には入っていない、もちろん音も右から左で、もはや【家具の一部】である。
そんな時、急に目の焦点がテレビから流れているニュースにぴったり合わさった。
次第にアナウンサーの声も耳に入って来る。
『昨夜未明、○○町の裏路地で会社員の男性が鈍器で後頭部を殴られるという暴行殺人未遂事件がありました。犯人は逮捕に至り事情聴取していますが、動機については現在調査中との事です……』
「これって……」
そう、一矢が襲われた事件だった。
あの時の暴漢2人は純子が復讐代行サイトで依頼した男達だったのだ!
まさか失敗した上にその結果をニュースで知ることになろうとは思いもしなかっただろう首謀者は、咄嗟にスマホを手にしてメールを送ろうとしたが、何かに気づいたように手を止めて机の上にそっと戻した。
どちらが捕まっているかも解らないので下手すると、わざわざ主犯の方から警察に連絡するという【世にも恥ずかしい珍事件スペシャル】という特番に出てしまう所だった。
とにかく残った男から連絡が来るまでこちらからは何も出来ない、袋の中の蛙だ。
更に捕まった方もプロの殺し屋という訳ではなく只の素人だ、口を割ってしまう可能性だってある。
そう考えると急激に純子がこわばり、全身に不安と焦りという波が押し寄せ頭までどっぷり浸かって溺れてしまった。
その中でなんとか【犬かき】の様にもがき、水面へ顔を出す。
「証拠を消さなきゃ」
メールでのやり取り等、まさか失敗するとは思ってもいなかったのでしっかり残っている。
純子も素人であった為、依頼した時点で達成感に満たされ何もしていなかったのである。
「捕まった方にやり取りが残ってたらどうしよう!」
途端に【恋愛初心者】の様なマイナス思考の沼に落ちた純子は何を考えても上手くいかない。
「もうおしまいだわっ!」
そう言った瞬間、玄関のインターホンが鳴る。
音を立てずに忍び足で息を殺しながら画面を覗くと、そこには警察官が2人立っていた。
「すいませーん。ちょっとお伺いしたい事が」
純子は気配を消しながら摺り足ぎみで部屋の奥へと戻っていった。
「留守みたいだな」
警官達は玄関を背にすると一軒隣の家を訪ねた。
「すみません。高原一矢さんの友人関係を調べてるのですが、何か知ってることありませんか?」
彼らはただ町内で聞き込みをしていただけの様だ。
全てがバレて家宅捜査に来たと思った純子は、リビングで座り込み血の気が引いた青白い顔で空に呟いた。
「憲明さん……」
「ただいまー!」
バタバタと慌ただしく玲香が学校から帰って来たのは午後5時半頃。返事がないのはいつも通りなので気にも留めなかった。
おかしいと思ったのはいつも付きっぱなしのテレビが消えていた事だった。
「お母さん?」
呼んだ所で返事がないので探せる訳でもないのだが、とりあえず名を呼ぶ。
耳を澄ますと【無音空間】の中で微かに水の流れる音が聞こえた。
台所をみると蛇口からストローくらいの細さの水がわずかに流れ続けている。
「締め忘れたのかな?」
玲香は蛇口を捻って水を止めた。
しかし、台所を見回しても食器やコップを使ったような形跡は無かった。
不思議に思い台所を離れるとまた水の流れる音が聞こえて来た。
「お風呂入ってるの?」
また意味も無いが問いかける。
浴室へ向かうと磨りガラスの向こうで浴槽に浸かっている純子のシルエットが見えた。
「お母さん?」
戸を開けるとそこには確かに純子は浴槽に浸かっていた……。
「おかあさん!」
玲香は浴室のガラスが振動する程の声で叫んだ。
純子が浸かっていた湯船の色は真っ赤に染まっている……。
溢れ出ている赤い液体は浴槽をまるでカーテンの様に包み込み、流れ落ちていった先の排水溝には何かが詰まっていたせいか、行き場を失った血溜まりがゆらゆらと優雅に波打っていた。
浮かんでいる左手首には切り傷があり下には直前まで持っていたと思われるカミソリが落ちていた。
それを見た玲香は容易に事の顛末を理解した。
声を出したい気持ちを抑えて涙を流しながら電話をとりに走った。
それはまるで流れ続ける純子の涙の様にも見えた……。