第二章
第二章
事件から半年後。大黒柱を失った松嶋家は立ち直れてはいないものの、無理から日常生活を送っていた。特に【憲明依存症】だった純子は何もする気力が無く、玲香にすら心を閉ざしたままでいた。
「お母さん、学校行ってくるね!」
当然返事はない。あれ以来この家で喋っているのは玲香だけだが、決して話しかけることは辞めなかった。純子にとって憲明が全てだったことも玲香には分かっていたからだ。
たまに【呪文の様に】ボソボソ何か言っているがまったく聞こえない、玲香は続けていればそのうち喋ってくれることを信じていた。
玲香が居なくなるとこの家はほんとに【無音】である。家電の音や外の騒音が聞こえてくるくらいで、今までに比べると【都会から田舎に帰ってきた時】みたいな感じである。家中に広がる重い空気さえなければ。
ピンポーン
突然インターホンの音がこの【無音空間】の壁を突き破ってきた。
「……はい」
インターホンのマイクがぎりぎり拾うくらいのか細い声で純子は答えた。
「すみません、警察の者ですが少しよろしいでしょうか」
外の様子をカメラの画像で確認すると、警官姿ではないが【それらしい】コートを着た男と、下を向いて顔はよく見えないが【気の弱そうな男】の二人の姿が見えた。
恐る恐る玄関のドアを開けると警官らしき体育会系の体つきをした男が話かけてきた。
「お忙しいところ突然失礼します。ご主人の事件の担当をしております刑事の早瀬と申します。事件の事でこちらの方がどうしても松嶋さんにお話をしたいと仰っておりまして………」
と言うとその男は後ろの男性へと目を配った。
紹介された男は顔を上げると【教会の懺悔室】に来たような低い口調で話を切り出した。
「事件の時、娘と横断歩道に居た高原と申します」
純子の眉が一瞬上下にピクッと動いた。
「直接の加害ではないとはいえ、あの時私達が渡ろうとしなければあの様な事にはならなかったはずでした。
謝ってもやり直せることではないのですが、私の気持ちは伝えたいと思いお尋ねした次第です。大変申し訳ございませんでした」
一矢は胸の中から込み上げてきた悲しみで顔を曇らせながら深々と頭を下げた。
「ぃぇ」
吐息混じりに小声でそう言うと純子はすぐさま静かにドアを閉めた。
刑事と一矢は顔を見合わせると、仕方ないかという表情で家を後にした…。
「明憲………」
純子が呟くと、【沸騰させたヤカン】の様にゆっくり少しづつ怒りが込み上げてきた。
「あんな人に謝られても……運転してた餓鬼のせいじゃない……。でも、たしかにあいつらが渡ろうとしなければ車が突っ込んでくる事もなかった…………そうよ!……元々あいつらが悪いんじゃない!!あいつらのせいで憲明がぁぁぁぁ……!!!」
両手で激しく机を叩くと感情を向けるべき相手を見つけた純子の熱量は更にリミッターを超える。
「何であいつらが轢かれなかったのよ!!何のうのうと過ごしてんのよ!!……許したらいけない!!!ちゃんと罰しなければ……」
怒りが頂点に達した純子は、痒いわけではない頭を掻きむしりながら乱暴にパソコンの電源をつけ、椅子に勢いよく全体重を預ける。
そしてネットで検索を始める……。検索ワードは【復讐】【方法】。
役に立ちそうな情報がないままスクロールしていると、ある言葉を目にした純子は、全身が快楽に包まれる程の衝撃が走り指が止まった。
【復讐代行サイト】純子は躊躇うことなく、そして必然的にクリックしていた……。
純子に軽く門前払いをされた2人が帰り道を歩いている時、哀感の表情を浮かべていた一矢の足がふと止まった。
「すいません、やっぱりもう一度謝ってきます」
刑事は不安の表情で聞き返す。
「あんまり思い出させるのも彼女にはつらいのでは?」
「いえ、人の気持ちというのはしっかり伝えないと間違った方向へと進んでいってしまうので、ここはきっちりしておきたいんです」
「わかりました。私はやる事があるので署の方へ戻りますが……」
「ええ、一人で大丈夫ですので、ありがとうございました」
「デリケートな事なのでくれぐれも言葉に気を付けて下さいね」
そういうと刑事は何度か一矢の方を振り返りながら角を曲がっていった。一矢は軽く呼吸を整えると重い足取りに逆らいながら松嶋家の方へ引き返していった。
まるで【子供がアニメを見ている時】の様に、例のサイトに釘付けである純子の元へ、再び訪れた一矢がそっとインターホンを押す。
ピンポーン
人間誰しも、人に見られたくない作業中に突然誰かが来ると慌ててしまうものだ。
純子も例外ではなかった。
反射的に立ち上がった時に椅子を倒してしまい、【無音空間】の中で外にまで聞こえる音が響いた。
「すみません、先ほどの高原ですが、大丈夫ですか?」
人が倒れた様な大きな物音に一矢は心配そうに様子を伺う。
急いでドアを開けた純子は少し息を切らしながら、
「大丈夫です。何か?」
と精一杯平静を装った。
一矢への敵意を気づかれないように、一生懸命感情を奥底へ閉じ込める。
「すごい音が聞こえましたが?」
「ええ、あの、椅子に乗って掃除をしていたもので、急いで降りる時に倒れてしまったんです。なにぶん【男手】がいないものですから……」
「ああ、いえすみません」
純子は少し皮肉を入れた嘘で踏み込まれないよう話題を上手く遮断した。
「それで何か?」
「いえ、やはりきちんと気持ちを伝えたくて……」
一矢がそう言うと純子は自分でも思いがけない表情を浮かべていた。
あの日以来失っていた感情【笑顔】が表れていたのだ。
「気持ちは伝わってますよ、わざわざお越しいただいてるだけでもあなたの誠意はわかりました」
「そうですか!解っていただけてよかったです!」
一矢は肩の荷が下りたようにほっとした。
「あの、よろしければ連絡先とかお伺いしてよろしいですか?もし、相談事とか話たいことがあった時に同じ境遇の方と話せた方がいいかと思って……それに【男手】が必要になった時も」
と冗談交じりに【主導権】を取っていく。
「ええ、いいですよ。私もこの事を他に話せる人がいなかったので」
「よかった、今メモ持ってきますね」
家の中へ紙とペンをとりにいく純子の顔はもはや抑えきれないくらいの満面の笑みであった。
その様はまるで【お花畑を走っていく少女】のようだ。
純子にとって都合が良かったのは、一矢からはその表情が【和解の笑顔】に見えた事である。
「では、また何かあったらいつでも連絡して下さい」
一矢は気持ちが通じてすっきりしたのか純子の笑顔が素敵だったのか、満身創痍で帰っていった。
人の心を唯一表す【感情】。それは本当の心なのかは本人しかわからないが、普通の人は笑っている人を見たら心は【喜んでいる】と疑わないだろう……。
たとえ殺意を向けられた相手でも……。