第六章:フランカ七歳Ⅴ
まったく理解は出来ないが、年下の少女から酷い屈辱を受けたはずの第三王子テオは、一か月半の時を置いて再び屋敷へとやって来た。
もちろんその間に、婚約破棄の通達はまったくなく。
まさかまた来るとは思ってなかったため、フランカは鍛錬している所をばっちりと見られてしまった。
居合わせた使用人らは慌てていたし、テオもまさか、位は低くともきちんとした爵位持ちの家の令嬢が騎士のような身なりをして木刀を振っているとは思っていなかったのだろう、目を瞬かせて棒立ちになっていた。
せめてもの救いは、セレスティノが講義のため祖父の部屋に居るということくらいか。ここで病弱と聞かされている兄が居たら、テオはきっと泡を吹いて気絶位していたに違いない。
視線をテオの背後に居る使用人に向け、瞳を一度だけ左側に寄せれば、優秀な彼はその意をきちんと汲み取りすぐにハッセの元へと走って行った。
それを見送って、フランカは口を開く。
「まさか、また屋敷に来られるとは思いませんでした。何かわたしに御用でしょうか」
きっと疑問に思われているだろう自分の行動に触れることなく、フランカは静かな口調でテオに尋ねれば、王子はびくりと身体を震わせた。
―――確かに怖がらせた自覚はあるけど、ここまで怯えなくても。
これ以上恐怖心を煽るのも本心ではないので、数歩近づいた程度の場所で歩みを止め、答えを聞くために沈黙する。
けれど、一向に返事が返ってくる様子はない。
「………婚約破棄にはなっていないようですね。宰相殿に止められましたか。それでなくても、わたしはあなたにそれなりに無礼を働いたはずですが、その咎めもない」
「………宰相にも、父上にも、何も言っていない」
聞こえてきたのは、絞り出したようにか細く消え入りそうな声。
消去法からそれが目の前の、視線をあちらこちらに彷徨わせている少年の声だと理解するのに、少々時間がかかった。いつもあの大きな偉そうな声だけ聴いていただけに意外だ。
純粋な驚きから、
「おや、偉そうな声以外も出るんですね」
という言葉が口について出た。
すると、目の前の少年は顔を赤くさせ悔しそうに口を引き結びはするものの、前回までのように捻くれた言葉は返してこない。
三度の驚きだ。
「フランカ、これ以上弟を追い詰めるのは止めてあげて」
フランカは決して口数が多い方ではなかったし、テオもいつになくしおらしいので、再び会話が止まってしまった。
そんな彼らに割って入ったのは、澄んだ青年の声。
彼が居ること自体は極々普通の事なのでは驚きはしないが、目の前の少年はそうではない。
突然現れた見知った顔に先ほどまでの悔しさを消し去り、純粋な驚きだけをその顔に乗せていた。
「セレスティノ兄上!?」
「やぁ、テオ。数日ぶりだね」
セレスティノは、相も変わらずとても優雅な仕草で歩いてきた。
「な、なぜセレスティノ兄上がこんな所に。というか、お身体の方は」
テオのまるでセレスティノを気遣うような言葉もそうだが、二人に交流があった事もまた意外である。
片や病弱で引き籠ってばかりの病弱王子、片や王子という肩書きだけで威張り散らす我が儘王子。共通点といえば、正妃の息子でないということぐらいか。
「交流があまりないだけで、一応面識はあるよ。実の弟だからね。それにテオはこれでも私を慕ってくれる数少ない子なんだ」
「だからあの我が儘加減が「やんちゃ」で済まされたんですね」
テオ自身思う所があったのか、我が儘のくだりで一度肩が飛び上った。
その様子にフランカは無視を決め込み、セレスティノは声を上げて笑い出した。
「そ、それよりセレスティノ兄上はどうしてここに!」
笑われる自覚のあった末の王子は、恥ずかしさを覚えながら質問に答えてもらおうと声を上げた。弟の催促に、目の端に溜まった雫を拭いながらセレスティノは再び若い二人を向き直った。
「ごめんごめん。アールグレーン家には昔からお世話になっていてね。病弱というのは、私がこの屋敷に来るための嘘。君がよく見舞いに来てくれていたのは知っていたんだけど、会話が出来ない時があったのは、あのベッドの上の私が影武者だったからだ」
「何故、そんなことを」
「私の母上の意向だよ」
笑って言い切るセレスティノを見上げていたテオは、幼いながらそれ以上の何かがある事は、察することが出来た。けれど詮索してはいけないと、どこかが警報を鳴らしているようで、
「そう、でしたか」
と言って引き下がる他なかった。
「セレス兄様が何か吹き込んだんですか」
「せ、セレス兄様だと!お前、畏れ多くも我が国の第一王子であるセレスティノ兄上にそのような呼び方で気安く接するとは何事だ!」
先ほどまでの彼の大人しい様子に驚いていた自分をぶん殴ってやりたいと、フランカは唾を吐きかけんばかりの勢いで怒鳴ってくるテオを無表情で見つめながら思った。
やっぱり我が儘王子は我が儘王子だった。
「あなたにとっては第一王子のお兄様でも、わたしにとってはただのセレス兄様なので、そう呼んでるだけのことですが、何か?」
「くっ、セレスティノ兄上も何か………」
前回と同じく、恐ろしい視線と冷たい言葉が飛んでくるが、今回は一人ではない。
すぐに味方を作ろうとセレスティノの方を見れば、少女を見て嬉しそうに笑う兄が居た。自分の前でも笑顔で穏やかなセレスティノだが、それとは比ではないほど蕩けんばかりの笑みに、同性でありながら目を奪われる。
それは美しくもあり、驚きにもなり。
誰に聞こえることもなく、少年の口から小さく「何故」という疑問が零れ出た。
笑顔のまま、セレスティノは弟を見た。仕方がないので、助け船を出すことにする。
「テオ、君は思う所があってここに彼女を訪ねてきた、違う?」
兄の知らない顔を、見ず知らずの少女が引き出した。それが弟であるテオは悔しくて仕方がない。だが、ここで自分が何を言っても、それはすべて己が「王子」だからだとしか説明ができない。そして今なら痛いほどわかる。
目の前の、無という表情を張り付けた少女の前に、その地位は無意味だということも。
自分を奮い立たせるため、身体の左右で揺れる己の拳をギュッと握りしめ、目の前の少女の紫の瞳を見つめた。
少女と少年とでは成長の速さが違う。一歳年上でも、少年の方が若干背丈が小さい事もあり、それは早速ねめつけているといっても過言ではなかった。
「お前はおれを、『王子』という肩書でしかモノが語れない臆病者だと言った!」
「いや、別にそこまでは………」と小さく訂正しようとするフランカを、「聞いてあげて」とセレスティノが苦笑いで止める。
そんな二人の内緒話に気づかないテオの決意表明は続く。
「そして、おれはそれに返せる言葉がなにもなかった!それは、おれの中で最大の屈辱であり敗北でもあるっ!だから、お前におれという「王子」ではない存在を認めさせるまで、おれはお前のこんやくしゃを止めないからなっ!勝負だ!」
前回のフランカと同様に、テオもまた己の想いの丈を一思いに言い切った。彼も彼で、色々ストレスになっていたようだ。
今まで傅かれ、自分を否定する者などいなかった王宮という云わば小さな箱庭で生きてきた彼にとって、フランカとの会話は初めての挫折でもあったのだ。
「………」
王子の言葉に、フランカは無言を貫くことにする。
まったく反応を示そうとしない少女に、テオは自分の言葉に驚き、言葉を無くしたと思っているのだが、セレスティノは気づいている。フランカの瞳に呆れの色が浮かんでいた事を。
そしてそれは大当たりであった。というのも、無表情の裏でフランカは、
―――この王子、わたしを婚約者にした理由忘れてない?
と、テオ自身が聞いたらまた喚きだしそうな事を考えていたのだから。
その後、テオは何故セレスティノがあそこまでフランカを気にかけるのかと聞いたことがあった。
「彼女はね、何の含みも無く名前を呼んでくれる。いつか君にも、知ってほしいんだ。地位も肩書きも何もない自身という存在を受け入れられたときの感動をね」
そう言って笑った兄を前に、幼い弟はただ首を傾げるだけだった。
テオ王子決意表明をする、の巻。