第二章:フランカ七歳
フランカの朝は早い。
辺りが薄暗い内から目を覚ましすべての身支度を自身で終わらせた頃に、ようやく空が東の方からぼうっと白く輝きだす。
紺色の空が薄く明るく染まりだし、そこにオレンジ色の淡い水滴がぽとりと落とされ広がり始める時には、フランカは屋敷の庭先で素振りを開始しているのだ。
五歳になる頃にはすでに始めた剣術は、元々持っていた才能も手伝って、学び始めて二年ほど経った今ではだいぶ形になってきていた。
もちろん、フランカ自身が死にもの狂いで学んだ事も理由の一つではあるし、師である父の影響もある。
必死にもなるだろう。こうして己を鍛えあげなければ、彼女は七年の後恐ろしい怪物に食い殺される運命なのだから。
五歳を迎えようとしていたある嵐の夜の来客のせいで、フランカの生活は一変した。
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理不尽な理由で孫娘を化け物の生贄に差し出すように言われ、反論の意を唱えていた家族を説き伏せたのはフランカ自身だ。家族達は口を閉じざるを得なかった。
しかしそこは腐ってもアールグレーン家。
今でこそ男爵家としか見てもらえないが、その一族は代々有能な人間として己を磨き上げてきた。
現当主であるハッセは、茫然と孫娘を見つめていた自分に一度喝を入れ直すとすぐに客人である宰相ヘルス・コルテスを向き直った。
先ほどまでの苛立ちや焦燥が消え、爛々と輝き始めた紫の瞳に、ヘルスは若干怖気づいてしまいそうになる。
持ち直した祖父を見て、幼いフランカは思った。
きっと今彼の頭の中では自分達の将来についての算段が整えられているのだろうと。
いくらにが水を飲まされて来ようとも、転ばされ続けようとも、タダでは起きないのがこの家の人間だ。
特にハッセは、この国でも右に出る者は居ないであろうと言われるほど優秀な頭脳の持ち主だ。とはいっても、それを知っているのは彼の本当の能力を知っているごくわずかな人間ではあるが。
彼は常々言っていた。能ある鷹は爪を隠すのだと。
彼は齢52歳。流石に隠し過ぎじゃないかな、と呆れたように言っていたのは、ハッセを師と仰ぐ麗しい少年だ。
ハッセはその場で言霊を取り付けた。
『フランカを生贄をとして船をだし、その身を島の迷宮へと置く。その見届け人もお主らに任せよう。ただ、贄となるその他の人間、そしてその後の我らの行動については口出し無用としていただく』
その裏にどのような思惑があるのか、きっとヘルスは気づきはしなかったのだろう。島にその身を置けば最後、化け物に食い殺されるだけだと思っている彼は、ハッセの言葉に是と答えた。
ヘルスが去り、その場に沈黙が訪れた。
『おじいさま、その後は自由といったその意味は?』
『………フランカ、何故贄になると?』
質問に質問で返された。まだ幼いフランカは、自分に答えを返してくれなかった祖父に少し気分を害しそうなったものの、質問をされたなら返すべきだとすぐに身を持ち直す。
『そうしなければと思ったからです』
彼女の紫の瞳には一瞬の揺らぎもなかった。
『直感からですね。あなたは何かに導かれるようにこの場所へ来た。違いますか?』
いつの間にかカウチに腰を落ち着けていた祖母、フェレシアが孫娘を見つめて、まるで確信めいた声で話しかけてくる。
フランカは小さく頷いた。
『ならば、この出来事はすべて必然。何かが起きる前触れなのでしょう』
穏やかな父、ヒューゴの声が静かな部屋に響き渡る。
と、そこで誰かの足音が聞こえてきた。
最初は小さかったそれが、大きくなるにつれてその足音の主が大急ぎでやってきているのだと分かった。
同時に小さく開けられていた部屋の扉が大きく押し開かれる。
静かな場に似つかわしくない激しい音を立てた扉の前に立っていたのは長身の女性。茶色の長い髪はきっちり後で纏め上げられ、来ている服はこの家のメイド達が着るそれだ。
『フランカ様!皆さま!ご無事ですかっ!』
『エッラ、見ての通り皆無事だよ』
部屋に入るや否や膝をつきフランカの身体に腕を回してオイオイと泣きだしたメイド服の女性、エッラに優しく話しかけるのはヒューゴである。
その声音は、娘に向けるモノとはまた違い、少しの甘さが含まれているようにも感じたフランカだったが、今はそれどころではないと己の意識をエッラに向けた。
『エッラ、わたしはだいじょうぶ』
生みの母であるシーラの直属の世話係だったエッラは、出産直後に亡くなったシーラに代わり、フランカを育ててきた。
彼女のフランカを慈しむ愛は本物で、フランカはエッラを母のように慕っていた。
本当の母になってくれないかとさえ思うのだが、腰の低いエッラは次期男爵夫人という座に恐れ戦いているようである。
エッラ自身も、父ヒューゴと母シーラの幼馴染であるというのに、なぜ彼女がここまで遠慮気味なのかは今だ謎である。
『ハッセ様、コルテス宰相はなんと』
未だフランカに腕を回したまま、エッラはハッセを見上げる。礼儀上これは無礼にあたる筈なのだが、付き合いの長い彼らの間では特に問題はない。
『次の生贄に、宰相の孫娘が選ばれた。だが、宰相は孫娘を可愛がっている。化け物の生贄などにしたくはない。聞けば孫娘とフランカが瓜二つというではないか』
『………まさか』
異常なほどに心配性な性格を除けば、エッラは一応優秀な人間だ。
すぐにハッセの言葉の意味を悟った。驚いたように目を見開き、腕の中の少女を見た。
そのような重苦しい話し合いの場に当事者である少女が居る。時に不思議な勘を発動される聡い彼女が。
『フランカ様、何故、自分から』
『エッラは話が早くて助かる。今はもう決まってしまったものに悩むほどの猶予もない。我らに残されたのはフランカが十七を迎える年まで。つまり今から十二年という年月のみ』
『父上、それは』
自分の娘のように可愛がってきたフランカのあまりに残酷な運命を聞き驚きと哀しみに肩を小さく震わしていたエッラの肩に手を置いていたヒューゴが、穏やかな表情を一変させ、その眉間に皺を寄せた。大凡彼らしくない表情だ。
それほどハッセの言葉の先が読めないのだろう。
『儂がそう簡単にフランカの命を散らせると思うか?アールグレーン家の未来であり、儂の可愛い孫娘だ。愚かなコルテスどもにこれ以上我ら一族を愚弄されて堪るか』
ハッセの紫の瞳に浮かぶのは、怒り激情憤りなどの負の感情。だがそれを一瞬にしてしまい込むと、静けさを伴って彼はフランカに視線を向けた。
『言質は受け取った。フランカを島に贄として差し出した後は好きにして良いと。………フランカ、生き残れ。化け物と戦い、己の身を守り、あの迷宮で生きて待っていろ。我らが必ずやお前を迎えに行く』
いつの間にか、雷の音は止んでいた。雨の音も聞こえない。
嵐は去ったのだ。
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今日も今日とて素振りに精を出す。
最初は百回ほどで息を切らしていたそれも、今は千回を過ぎた所で痛くも痒くもなかった。
なんならもっと回数を増やしてもと思うのだが、この後の走り込みを考えると幼い身体に負担がかかり過ぎるだろうと父に指摘されたので諦めた。
「今日も精が出るね」
斜め後ろから声が掛けられので一度腕を止める。メイド達でさえ起きていないと思われる朝の早い時間だ。しかも聞こえたのは若い男の声。
そこから導き出される答えは一つ。
「セレス兄様」
振り返った先に立っていたのは、一人の青年。
名をセレスティノという彼は、金髪に近い淡い茶色の長髪を後ろで括っていた。
翠の瞳が朝焼けの光を受けて輝けば、男にしては白いその肌の美しさが更に引き立つ。それでなくても美しい顔だというのに、これ以上キラキラして彼は一体どうしたいのだろう、とフランカはお幼心に常々思っていた。
「ごめんね、中断させちゃって。今は何回目だい?」
穏やかな表情を浮かべたセレスティノは申し訳なさそうな声音を発しながら、フランカの隣に並んだ。
彼もまたフランカと同じ裾の長い長袖を腰に巻き付けたベルトでかっちりと絞め、長ズボンの裾は膝下まであるブーツの中に入れ込むという騎士の軽装に身を包んでいる。
男爵令嬢であるフランカには到底手に入れられない服装だが、訓練をするためには必要不可欠なので特別に祖父が彼女のサイズに合わせて特注した。
これは、これからもずっと続くだろう。十七の運命の日まで。
「ちょうど五百回目です」
「じゃあ、そこから一緒にやろう。千回までご一緒するよ」
「わかりました」
急に現れた青年に驚く事なく無表情のまま頷いたフランカは、すぐに素振りを再開する。そのあっさりとした態度は、時に無礼と思われるかもしれないが、慣れているセレスティノは彼女に続くように腕を上下に動かし始めた。
「千回です」
フランカの声が合図となって、二人は同時に動きを止めた。
素振り千回というのは普通であればそれなりの運動量なのだが、それを毎日のようにこなしている彼らからすればどうというものでもない。
「じゃあ次は走り込みだね」
「はい」
セレスティノの言葉と同時に、木刀を端に寄せた二人は同時に走り出す。
ここでは流石に十以上歳の離れた青年、セレスティノに分があったらしい。
小さくもなく、かといって大きいわけでもない、アールグレーン家の庭を十周するという走り込みはセレスティノの方が先に終了した。一周遅れてフランカがその運動を終える。
遠くで、教会の鐘の音が聞こえてきた。
一日の最初に聞こえてくる讃課の鐘はすでに鳴り終わっているので、この音は一時課を知らせる音だろう。
そろそろ働きに出る人々が動き出す時間帯だ。といっても、お気楽な生活が許された貴族達はまだまだ夢の中を彷徨っているのだろうが。
息を切らした二人は、地面に腰を降ろしたまま話を続ける。
「まぁ、フランカはまだ七歳だしね」
「十七歳のセレス兄様にはまだまだかないません」
先に終えたセレスティノから受け取った手拭いで、滝のように流れ落ちる汗を拭きとりながらも、少女は特に表情を変えずに言った。
これはフランカの癖だった。言葉だけ聞けば賞賛されているはずなのに、感情を一切その顔に乗せないものだから、褒められているようには思えないのだ。
それが仕方のない事だと分かっているセレスティノでも、彼女の様子には胸が痛む。事情が事情なだけにやりきれない。
フランカよりも随分と年上のこの青年は、実はこの国の第一王子であった。
しかし、母が弱小貴族出の側妃であり、自分の生まれた四年の後に正妃から第二王子が生まれたものだから、彼はいつの間にか離宮に追いやられてしまったという曰くつきの。
正妃がかの宰相家直系の姫だったというのも大きいだろう。
王位継承を繰り下げられ忘れ去られた王子。
表向きは心労故に体調を崩し、常に床に伏していることになっている彼は、ある人物の意向により、その身をアールグレーン男爵家に寄せていたのだった。フランカが生まれる前から、彼は男爵家に世話になっている。
「フランカさん!」
常であればこれから腕立て伏せなどの体力づくりに移行するのだが、今日は違った。
息を切らしたエッラ―――今は無事正式にアールグレーン家次期男爵夫人に昇格した彼女が走り寄ってくる。
「王室に参られよとの要請が!」
「………なぜ?」
中々表情を崩さないフランカだが、長く傍に居れば彼女の感情が紫の瞳に浮かび上がるのがわかるはずだ。今はそれが疑問で溢れかえっている。
「第三王子の婚約者候補ということです!」
まったくもって予想すらしていなかった言葉を告げられたフランカとセレスティノは、同時に顔を見合わせた。