第六章:テオ十四歳
……実に二年ぶりの更新となってしまいました。どうぞよろしくお願いいたします。
二日間の休みが出来れば、テオは一目散にアールグレーン家を目指して馬を走らせた。
そして五度目の訪問の時、ようやくハッセの冷たい瞳が和らいだ。
「っ、ふ、フランカ!」
なんという愚然か、六回目の訪問でようやく、一度も出会う事の出来なかった婚約者が大きな袋を抱えて裏口から出ていく場面に出くわした。
慌てたテオは婚約者の名を呼ぶが、すぐに違和感を感じた。そして、彼女の名を呼んだのが初めてだったことに思い至る。
自分に名前を呼ばれ、訝しみながらこちらを向いた紫の瞳と目が合って、テオはイチゴジャムの入った桶に顔を突っ込まれたかの如くその顔を赤く染め上げた。
傍に居たセレスティノは、弟のまるでうら若き乙女のような反応に目を瞬かせる。
テーセスはすでに仏の心でテオの乙女化を見守っていたのだが、兄は弟がここまで恋を拗らせているということを知らなかったので、面食らってしまったのだ。
「あ、王子」
少し距離は離れていたものの、テオは婚約者の頬に、小さな切り傷が出来ているのを目敏く発見し秒の速さでその傍に駆け寄って腕を取った。
「お前、怪我してるじゃないか!どうした、何があったっ」
いきなり耳元で声を荒げられ、フランカは無表情の中でほんの少し片眉を上げた。見ているだけでは彼女が何を思っているのかまでは分からないほんの些細な変化だ。
しかし、良く知っているセレスティノにはわかる。彼女が少し不機嫌になったことに。
「別に、ちょっと木の枝で引っ掛けただけです。舐めとけば治ります」
「お前は女なんだから、気をつけないとだめだろうっ」
「別に、王子に迷惑かけてないのですからいいでしょう」
フランカ自身としては、まったく変化のない対応をしているのだが、如何せんテオの心が大きく変化してしまっているので、彼にしてみれば婚約者の反応は面白くないものだった。
「っ、俺が折角心配をしているんだから少しは可愛げのある態度を取ったらどうだ!」
テオがより一層声を大きくして言った。
乾いた音が響き、その一拍の後、テオは自分の腕が振り払われたことに気づいた。後ろで、兄が、あちゃーっと片手を額に当てている。幸か不幸か、当事者二人はそれに気が付かない。
「可愛げのある方がよろしいのでしたら、今すぐ婚約破棄をすることをお勧めします」
冷たい瞳で氷水のような言葉をテオに浴びせかけたフランカは、そのまま足早に裏口から出て行ってしまった。
「………今の言葉は、不味かったね」
フランカの出て行った扉を見つめ苦笑いをしていたセレスティノが視線を向ければ、弟は床とお友達状態で震えていた。
「なんで………なんで………俺は、」
約一年ぶりの再会は、ものの数十秒で終わってしまった。
自分の行いに嫌悪感を抱きつつ、フランカに再び会いたくて震えが止まらない弟を無理やり起き上がらせて、セレスティノは喝を入れるようにテオの背中を一度大きく叩いた。
幼いと思っていた末の弟は腕一本では持ち上がらないほど大きくなっているではないか。身長も、己の肩まであり、後一年や二年すれば越されてしまうだろう。
弟の成長を間近で感じられる事にこそばゆささえを覚えながら、セレスティノは落ち込むテオの背を励ます様に叩いた。
「次、頑張ればいい。これからは、フランカとも会える機会が増えるだろうからね」
「!」
「その前に、君にはやる事が沢山あるよ」
「はい!」
少し、元気が出たようだ。
気を取り直し、セレスティノの後に続くように歩みを進めていたテオは、てっきり当主の職務室に向かうと思っていた行き先が地下に向かっていることに気づき眉を顰めた。
しかも、ただの地下ではなく、その地下にある扉を鍵で開け、螺旋階段を下って行くのだから眉を顰めていただけだった眉間に深い皺が出来るのも仕方がないことだろう。
地下の中にある地下。
「あ、兄上、一体ここは………」
「それを知ることは、お主の疑問に答えることと同義。黙ってついて来んか」
どこに隠れていたのか、背後からハッセが現れた。
螺旋階段を降りた先にあるのはまたしても扉。しかも、先ほど見たものよりも重くて頑丈そうなものだ。木造でないことだけは確かだった。闇から這い出るように現れたハッセは、テオとセレスティノを通り超して扉に手をかける。彼が扉に手をつけると同時に、その背後で鍵の開く音がした。
「え?」
ハッセは鍵を使った様子は無かった。
だというのに、鍵の開く音がするというのはどういうことだろう。
疑問符で脳内を一杯にしているテオを一瞥して、ハッセは扉を押し開き闇に姿を消す。弟の腕を取り、セレスティノもそれに続いた。
真っ暗な闇の中で、ハッセの持つ蝋燭の明かりだけを頼りに一行は足を進める。
地下だというのに、どれほどの広さがあるのだろう。大の大人の足でも、中々の距離を進んできたように思う。
「テオ、先ほどの君の疑問だけどね」
不意にセレスティノがテオを振り返った。
「あの扉は、アールグレーン家の直系の人しか開けられないんだ。フェレシア様ですら、あの扉は開けられない」
「何故ですか」
「神に護られた扉だからだよ」
その瞬間、テオは触れてはいけないモノに触れてしまったと思った。
―――どうして神の意向に逆らったとされる一族の元に、神に護られた扉があるのだ?
気が付けば、ハッセは足を止めていた。
彼の足元に見える、一つの大きな塊。近くに寄れば、それが岩石で出来たなにかであるという事が分かった。
「テオ、お前は古代文字が読めるか」
ハッセの質問に、
「はい。兄上に、学べと言われ、この一年間学んできました」
とテオが頷く。
「オリピス先生は良い先生だっただろう?」
セレスティノがニコニコと笑った。
初めてハッセの元に向かった折、テオは一つの封筒をセレスティノより預かっていた。これを司書オリピスに届け、必要な知識を前もって学んでおくようにと言われたのだ。
その結果、苦笑いをしつつ肩を竦めて「仕方がないですねぇ」と言っていたオリピスの元で、この一年間テオは国でもごく一部の学者しか知る筈のない古代文字を学んでいたのである。その中で、オリピスが実は考古学者であるという事も、その縁もあってアールグレーン家と関わりを持つことになったということも知った。
ちなみに、セレスティノもフランカも彼を師と仰いでいたそうだ。
「まったく、お前には敵わんな」
爽やかなに笑うセレスティノに向けて、ハッセは苦笑を禁じ得ない。
「まぁ、いい。テオ、もっと近くに来んか」
ハッセに言われるがままに岩を覗きこめば、何かが刻まれていることに気づき、テオは息を呑んだ。
「これは、ペトログリフ!?」
書物や授業でしか知らない、遠い昔に消滅したとされる過去からの手紙。紙がない時代、後世に語り継ぎたいモノはすべて岩や石に書いていたという。
神々の伝承や国の始まりは、そこから学んできた。
そこには、古代文字が刻まれていた。
「読んでみろ。そこにお前の疑問の一つが刻まれている」
瞠目するしかないテオの心を置き去りのままに、ハッセは若い王子を急かした。
言葉を紡げず、頷くしかないテオは、彼に言われるがままに文字に目を通していく。
そこにはこう記されていた。
『神々が空を、魔物が地を支配していた時代、非力な人間達はただ逃げ惑い生きていた。
だが、そこに6人の救世主が現れる。男達は、人間が安心して生きていけるよう国を作るために立ち上がった。魔物達と戦い、神々と交渉しながら、彼らの旅は長きに渡り続いた。
その六人の中に、仲の良い兄弟が居た。心優しき頭の良い兄と、そんな兄を慕う弟。神々もまた、兄を好ましく思ったことで、国造りを許した。裏方に徹し五人に知恵を授けし兄は軍師となり、男達はその言葉に従い国を作った。
五つの国々が出来上がったその内の一つ、名をラクノッス王国。
国が出来上がると、兄は王の座を弟に譲り表舞台から姿を消そうとした。しかし、兄を誰よりも慕っていた弟は宰相という座を兄に送り共に国を守ってほしいと願った。
弟が王国の名を取りラクノッスと名乗るようになると、兄はあくまでも宰相だという姿勢を崩すことなく民が混乱するといけないという考えの元、新たな家名を名乗るようになった。
その名は――― アールグレーン。
これは、アールグレーン家の始まりを記すモノなり』
「なっ!?」
石に書かれた文字を読み切ったテオは、ハッセの前であるということも忘れ、声を上げた。
彼の驚きの声が、山彦の原理で地下中に木霊し跳ね返ってくる。
「お前が知りたがっていた最初の質問の答えだ。知りたがっていたであろう?消えた六人目の行方を」
「こ、これが、本物だという証しは………」
テオの震える声に、セレスティノはペトログリフを指さして触ってみるよう促す。
石に向けたテオの指先は、直に触る前に何者かに阻まれるように弾かれた。決して触る事のできない、古代文字を記したペトログリフ。それを作ることが出来るのは、この世に特別な力を持つ唯一のモノ―――神のみである。
「消えた六人目、もしくはもう一人の建国者の一族は、その血を絶やすことなくきちんとこの国に存在していたんだ。今、僕達の目の前にね」
セレスティノの言葉と共に、四つの瞳を一身に受ける中、ハッセはただ黙って目の前の石の手紙を見つめ続けていた。
おまけ:
四度目の訪問を終え、それでもハッセは首を縦には振ってはくれなかった。
学園で学ぶ事を本分とする身の上で、海の近くの領地までくるには最低でも二日は休みが必要だ。それでなくても二日の休みというのは中々手に入らない。それは、彼が王子という立場であるというのも関係してくるだろう。
数少ない二日の休みを使っているものだから、最初の訪問からすでに一年が経とうとしていた。
トボトボと帰っていくテオを屋敷の入り口で見送っていたセレスティノとフェレシアは、その足でハッセが寛いでいるであろう談話室へ向かった。
「ハッセ様、幾らなんでも厳しすぎるのでは?」
弟の落ち込んだ様子と、それでも頑張ると言っていた力ない笑顔を思い出して、黙って見守って居ようと思っていたセレスティノも口を出さずには居られなかった。
「ふん。たかが一年かそこらで諦めてしまうようならそこまでの覚悟だったということだのぉ」
「ですが、彼は学生の身分です。学業や武術で忙しい合間を縫って来ているんですよ」
「そんなもの、儂には関係ないな」
紅茶を優雅に飲むハッセは、取り付く島もない。
「ハッセ様………はぁ」
アールグレーン家当主が、意固地になっているのには気が付いていた。
テオが真っ直ぐ成長しているのを嬉しく思っている反面、あそこまで素直にフランカへの愛を見せつけられると、孫娘を溺愛するハッセとしては面白くはないのだろう。
けれどまだまだ己にはこの切れ者の当主を説得するだけの技量がないと分かっているセレスティノは、頭を抱えることしかできなかった。
紅茶を飲む夫と頭を抱える第一王子を無言で見つめていたフェレシアは、そっと手をセレスティノの肩に乗せた。
「あら、セレスティノ、そんな心配することはありませんわよ」
「………フェレシア様」
あくまでも笑顔を崩さないままで、フェレシアはハッセを見た。
「ハッセ様が、そんな意地の悪いこと、するわけありませんでしょう?」
「え」
いつの間に、自分の心の声が漏れていたのだろうか。セレスティノの考えを、当主夫人は寸分たがわずきっちり読み取っていたらしい。
「まさか、孫娘を取られるかもだなどという馬鹿な理由であんなに素敵に成長したテオ様を苛めようなんて、そんな真似ハッセ様がするわけありませんわ。これでもわたくしが夫にと選んだ方ですのよ?」
ねぇ?、なんて笑顔でフェレシアは優しい笑顔を夫に向けているのだが、妻の笑みを真っ向から受け止めた夫といえば、紅茶のカップを持つ手の震えを隠せてはいなかった。少量の水滴が紅茶の受け皿に散らかっているのが見て取れた。
「………それとも」
フェレシアの纏う空気がすぅと冷たくなる。
「わたくしは、夫になった方の力量を読み間違えていたのかしら」
―――だったら、そんな方に用はありませんわねぇ。
というフェレシアの恐ろしい言葉がその場に居た二人の脳裏に木霊した、気がした。
「………お前の覚悟はよくわかった。よくぞここまで耐えて見せた」
五回目の訪問で、ハッセはテオに『是』と告げた。
嬉しそうに帰っていくテオを見つめながら、セレスティノは呆れた視線をハッセに向けた。
「ハッセ様。日和ましたね?」
「………儂も命は惜しい」