第三章:テオ十三歳
知りたいという気持ちを兄から否定されて早二年。学園に入ってすでに三年が経とうとしていた。
二年前までは伸び悩んでいた身長も、ここ最近ではメキメキと伸び出し、声変わりも始まったため、最近の彼の発する音はまるで擦れるように聞き取りにくいと苦情を言われる。
といっても、その苦情は主にテーセスからのものなので黙殺しているのだが。
可愛らしいと言われていた顔つきも、精悍さが加わってきて、特に女子生徒からの視線が熱い。しかし、テオ自身は自分を鍛えることに夢中でまったくそんな事に気づいてはいなかった。
「今日も精がでるねぇ」
剣術の授業が行われるフィールドで、毎日の日課である素振りと走り込み、そして腹筋などの基礎運動を行っていれば、気が抜けるような軽い口調でテーセスが声をかけてきた。
まだ授業が始まるには早い時間帯だ。
「当たり前だ。一日でも怠れば、腕が鈍ってしまう」
「ほーんと、アレス王子と血が繋がっているとは思えないよねぇ」
国やアールグレーン家に対する違和感とは別に、自身にもその矛先は向かっていた。テーセスが今まさに言った言葉は、学校に入学してから色々な人から言われ続けてきた言葉だ。
言われすぎて逆に不信感すら覚え始めていた。
「お前達にとって、俺やアレス兄上はどう映っているんだ」
城に帰えれば、兄であり次期国王であるアレスと会いまみえる機会は少なからずあった。王族としての堂々とした態度は素直に賞賛に値したし、兄として時々自分の相手をしてくれる彼のことは純粋に好いていた。
テオの質問に、テーセスは大袈裟に手を振って見せた。
「えー嫌だよー。誰かに聞かれたら僕処刑されちゃう」
「………何を大袈裟に」
呆れた顔でそう言ったテオは、遠くない未来に改めて自分が何も知らなかったのだと、突き付けられることになるのだった。
✿ ― ✿ ― ✿
学園は基本八年制だ。
そして二番目の兄アレスとは丁度八つ離れているので、学園で共に学ぶことは出来なかった。
運が良かったのか悪かったのか、そのせいで城内での兄としてのアレスしか見たことが無かったのである。
「………なんだ、この空気」
その日、二つ目の授業を終えて廊下に出たテオは、自然と眉間に皺を寄せていた。
学園の空気が異様だ。
一般生徒は何やら怯えているような様子で身を寄せ合いコソコソと廊下の端を駆け抜けていたし、貴族達はいつにも増して踏ん反り返っている。
隣に居たテーセスはすぐに思い当たったようだ。
「あー、アレス王子が来てるのかな」
「?何故兄上とこの空気が関係ある」
テーセスが苦笑いをした。
兄弟仲が良いのはいいことなのだろう。特に王子達となれば、いがみ合えば国を巻き込んだ戦いになってしまうかもしれないのだから。
でもだからと言って、何も知らないというのも可哀想ではある。
十三歳ともなれば、ある程度の物事を知り受け止められる歳だろうと思い当たったテーセスは、テオを腕を取り歩き出した。
友に言われるがままに向かった先で目にした光景に、テオは息を呑んだ。
兄アレスが、彼の足元で土下座をしている生徒の頭目掛けて今まさにコップの水を傾けている瞬間だったからだ。
アレスの顔には笑みが浮かび、彼を囲むのは貴族の取り巻き達。誰も彼もがニタニタと卑しい表情をしている。
見たことのない異様な空気に呑み込まれて、テオは動けなかった。
どうして、こんなことになっているのか。
しかしその疑問はすぐに解消されることになる。アレスが口を開いたからだ。
「だーかーら。次期国王の靴を汚したんだから綺麗にしろって言ってんだよ。聞こえないのか?お前の耳はお飾りか?今すぐ舐めとれよ。………次期国王のオレを見くびってもらっちゃあ困るよなぁ。お前の一族を消し去る事なんざ朝飯前だぜ?」
聞こえてきた言葉に従ってアレスの靴を見れば、ほんの少しのミルクが零れた形跡があった。
―――それだけで、こんな見世物にされるのか。
理不尽な光景であるはずなのに、誰も何も言わない。教師でさえも、見て見ぬ振りだった。
皮肉なことに、テオはこの場でもって、王子という立場の強さを思い知った。
アレスの足元に土下座をし、頭に水をかけられた生徒は、ふらふらと彼の靴に近づいていく。
きっと、言われた通りに靴の汚れを舐めとるつもりだろう。でなければ、一族もろとも抹消されるのだから。
「っ!」
テオは我慢の限界を悟った。
「止めろっ!」
気が付けば、土下座をする生徒の腕を思いきり掴んでいた。
そしてそのまま腕の力だけで身体全体を持ち上げる。男子生徒は上級生だ。しかし、毎日の鍛錬を欠かさないテオだからこそ年下でも彼を立ち上がらせることが出来た。
「テオか?」
突然の弟の登場に今度はアレスが瞠目する番だった。
「お前はもう行け」
これ以上事を荒げたくなかったテオは、そのまま一般生徒の彼の腕を開放する。
先ほどまで第二王子に理不尽に妨げられていたのだ。第三王子まで参加してきたとなれば自分はもう一族と共に葬り去られるしかない、と絶望した顔をしてた彼は、しかしまったく違う反応の第三王子をしばし凝視した後、慌てて人々の輪を押しのけて逃げ出した。
「おい、勝手に逃がすなよ」
アレスがどこか機嫌を損ねた様子でテオに声をかけた。
男子生徒の後姿を見送っていたテオだったが、兄に声をかけられたことでそちらへと顔を向ける。
いつの間にかテーセスがテオの背後に立って、アレスには見えない位置から本当に小さく手を振っていた。
まるで、僕はここに居るよ、とでも言っているようだ。
緊迫した空気の中、ほんの少しの安堵を含んだ笑みを零した後、真っ直ぐに兄を見つめる。
まだ少し身長差はあるものの、その振る舞いはどちらも王子然とした堂々としたものだ。
そのカリスマ性に加え、二人共美しい顔をしているものだから、あまり居心地が良いとは言えない雰囲気の中で、女子生徒達のみならず男子生徒まで並び立つ美しい顔に溜息をつく始末だった。
「何故あんなことを?彼の人としての矜持に関わるようなことです」
弟の質問に、兄は鼻で笑った。
「貴族でもないあんな奴に人の矜持なんてあるわけねぇだろう。お前こそ何を言ってんだ」
「なっ」
「俺は次期国王だ。この国のすべての人間は俺に仕えてんだぞ。オレに粗相をすれば謝るのは当然。オレに迷惑をかけるようなら教育し直さなきゃいけないだろう?それすら出来ないようなら、そんな人間この国には要らねぇなぁ」
なんでもない事のようにそう言い切った兄アレスに、テオは驚きに言葉を失うしかなかった。
兄のこんな一面、見たことが無かった。しかし、それと同時に、アレスの発する言葉が、幼い頃の自分の発していた言葉と綺麗に合致してしまい、二重に衝撃を受ける。
「むしろ、王子のオレが直々に教えてやってたんだから、あの逃げた男には感謝されなきゃいけないくらいだろ。な?」
そう言ってアレスが取り巻きの貴族達を見やれば、彼らは一様に第二王子に賛同するように頷く。だが、遠くに居る身分の低い貴族達や、一般生徒は怯えた表情を更に強張らせていた。
テオの脳裏に、幼いフランカの冷たい瞳が蘇る。
『あなたが王子なのは、偶然王の元に生まれたからなだけで、別にあなた自身が偉いわけではないでしょう。権力を笠に着ているだけ。まぁ、逆に言えばそれ以外なにもない、とも言えますが』
今目の前にいるアレスはまさに、あの頃のテオが成長した姿だ。
だが、こうして第三者としてみると、それは滑稽で痛々しい以外の何物でもない。
国を作るのは人々だ。決して王だけのものではない。
「お前も、付き合う人間は選べよ。オレの弟なんだから、それらしく振る舞え」
「………それらしく、とは?」
テオの呟きは、低く聞き取りにくい、あまり穏やかなモノではなかった。
「あ?」
アレスがその一言を聞きとがめ眉を上げるが、テオが更に言葉を続ける前に、それまで静かに背後に立っていたテーセスがテオの肩を掴んで止めた。
「テオ、そろそろ次の授業の時間だから、行かないとね」
「なんだお前は」
アレスの注意はテーセスに向けられた。
まるで舐めまわす様な目つきで、テーセスを下から上へ眺め続ける。
彼の失礼にも値する行為になんの感情も見せることなく、テーセスは笑いながら言った。
「お初にお目にかかります、第二王子。私はテーセス・リーゲルド、リーゲルド伯爵家が次男、テオ王子とは仲良くさせて頂いています」
基本的に軽薄な要素が満点のテーセスだが、今はいつもの二倍薄っぺらい。
「ふんっ、伯爵家か。なら、まぁいい。だがテオは王子だからな、自分の態度はきちんと考えろよ」
「あにうっ」
兄の、自分の友に対する失礼な態度にテオが再び声を上げようとするが、それもまた赤髪の友人に止められることになる。
「えぇ、もちろん。きちんと考えて行動していますよ。わざわざのお言葉、痛み入ります」
それだけ言って、テーセスはテオを連れて人混みを抜けた。
彼らはしばらく無言で歩みを続けていた。誰も居ない渡り廊下に差し掛かった時、不意にテオが足を止める。
「………俺は、皆の目にあんな風に映っていたのか」
横暴で、人を人とも思っていない権力に固執した人間。
何も知らない、愚者。
良く兄に似ていると言われ続けていた幼い日々を思いだし、身震いする。それは今のテオにとって、屈辱でしかない。
身分だけで、あんな振る舞いが許されるなど、あってはならないのに。それぞれが必死にこの世の中を生きているというのに。
「あー、まぁほら、王子ってのはそう言うもんでしょ?第一王子はよく知らないけど、僕が会った時のテオは結構ヤンチャだったよね。でも今は違う。それが大事なんじゃない?」
頬を人差し指で掻きつつ、テーセスがフォローを入れるために口を開く。背後に佇むテオはかなり落ち込んでいる様子で、振り返れば項垂れたように肩を落としていた。
「みんなアレス王子とは違うって言ってるじゃん。どんな心境の変化があったかは分からないけどね、今のテオだから、僕は君と友達になりたいと思ったんだよ」
そう言って笑ったテーセスの笑顔はアレスに向けていたモノと全く違う、心からの屈託ない笑顔であった。
「………感謝を、しなければいけないな」
脳裏に浮かぶのは、一つの家族と兄の団欒の様子。彼らが居なければ、今の自分はアレスと同じようになっていただろう。
それは吐き気がするほどおぞましいことだ。
「?」
テオの言葉の意図が分からず首を傾げた友になんでもないと首を振り、テオは顔を上げた。
―――やはり、何かがおかしいの。この国の歴史が語るモノと、テオが目にしてきた事実が違う。アールグレーン家は、決して神を欺き化け物を生み出す様な行いをする家ではない。
いつの間にか、テオは疑問を確信に変えていた。