第九章:フランカ九歳Ⅱ
その日は、朝から生憎の雨だった。
一通りの訓練を終えたフランカは、屋敷の中でも一番高い位置にある屋根裏部屋の窓枠に腰かけぼんやりと外を眺めていた。
訓練と言っても、木刀を振り回すわけにもいかず、屋内でもできる軽い筋肉運動しか出来なかったため気持ちを持て余し気味だ。
正五角形が五等分に分裂した形を持つこの大陸の中に存在する五つの国は、それぞれほぼ同じ大きさで、違いと言えば有する小島の数とそれぞれの位置ぐらいであろうか。その中で、右上に位置するラクノッス王国は雨が比較的少なく、暮らしやすい場所であった。
だから、雨が降ればそれは神々からのお恵みだと感謝しなければいけない。
生憎フランカにとって雨は訓練の邪魔にしかならないので、そんな気持ちは微塵もわかない。もしそれで神々の機嫌を損ねるということならば、喜んで損ねて見せよう。どうせ自分には悲惨な未来しか待っていないのだから。
今日の彼女は珍しく卑屈になっていた。
自分の背丈の優に倍はある大きな窓に額をコツンとぶつけたまま、彼女は想いに耽っていた。その視線は外にこそ向けられてはいるが、何も映してはいない。
だから、部屋にテオが入ってきても気づく事はなかったのである。
「お、ぃ」
テオは屋敷の数少ないメイドに婚約者の居場所を聞き出して、屋根裏部屋の扉を開いた。
最初の頃と変わらず、この屋敷の使用人達は今だにテオを見ると怯える。顔に出る者、瞳に出る者、身体を震わせるものと、反応は様々だ。
自分が王族だからだろうと気にも留めず、聞きたい事だけ聞きだしここまでやって来た。
ノックをする習慣のない第三王子が当たり前のように扉を開き、すぐに視界に入ってきた先客に声をかけようとするが、寸前で何故か自身の声が意志と関係なく窄んでしまった。
窓枠に座っているので、体勢的には部屋に入って来たテオと向き合うような形になっている。
だがその後ろにある大きな窓に額を押し当て外を眺めている目的の少女には、どうやら自分が入って来たことは気づかれていないようだ。
珍しいこともあるものだ、とテオは足を進めた。
彼女に気づかれることなく、彼は隣に身を落ち着かせる。
そこまでして一心不乱に何を見ているのかと思うが、傍に寄ったことで気づいた何も映されていない紫の瞳に一瞬何故か背筋がひんやりとした。
それはまるで城に飾られている剥製の動物だ。温かみを帯びた姿形は確かにそこにあるのに、瞳だけは何を映さない作り物のガラス玉のようで、そのちぐはぐ具合に不気味ささえ覚えてしまう。
「おい」
いつも気丈な婚約者のそんな様子をこれ以上見て居られなくて、テオは窓ガラスを指の背で数度音を立て強制的に注意を己に向けさせた。
「………王子」
そう言ってテオを見たフランカは、先ほどまでのちぐはぐな不気味さなど微塵も感じさせぬ自然な装いに戻る。元々感情があまり表に出ない彼女だ。
もし近くから瞳を見ていなければ気が付かなかったであろうほどの些細な違和感。
「わたしに気づかせずこんなに近くまで来られるとは、少しは成長されたのでは?」
「いちいち勘に触る物言いをするな」
「わたしに感情論の話をするのは時間の無駄だと思いますが」
「だから、お前はどうしてそう………」
いつもの調子で口論になりかけたものの、先ほどのフランカの様子が気になり言葉が続かなかった。
普通ならば、話していた相手が不自然に言葉を切ったら気になるものだろう。「どうした」や「なにか」など一言促す言葉があっても良いはず。
しかも相手は麗しいこの国の王子様だ。
しかしフランカはそのどれにも属さない異質な存在。
すでに興味が失せた様子でテオから視線を離し、外を眺めていた。
昔のテオであれば無礼者だなんだと怒鳴り散らしていた案件ではあるが、二年という年月で、図らずもこの婚約者とそう短くない時を過ごしてきた今の彼には、その反応こそがフランカがフランカである所以なのだと理解できていた。
だからこそ、先ほどのガラスのような瞳が脳裏から離れない。先ほどまで何を想っていたのか共有してみたいと思う。
自分達はこれから先長い年月を共にしていくことになるのだから。
「っ!」
小さな屋根裏に突如として鳴り響く乾いた音。
それは小さな破裂音にも聞こえた。
フランカが訝しみながら顔を上げた先には、自分で自分の頬を張ったのだろう、片頬を赤くさせながら痛がるテオが立っていた。
「なにを?」
さしものフランカも、疑問を浮かべずにはいられなかった。首を傾げて第三王子を見上げている。
「あ、そ、えーと、だな」
先ほどの自分の思考を悟らせまいと、テオは視線を泳がせた。
それ以上に、一瞬でも思い浮かべた気持ちを否定したくて彼は一つの行動に出た。
何故かは分からないが、気持ちをほんの少しでも揺らす行為は、己の恋心をすべて捧げた『贄』となる憐れなアルビナ嬢への裏切りだと思えたのだ。
フランカの隣に同じように窓枠に腰を降ろした彼は口を開いた。
「オレの初恋を語ってやろう」
ほんの一瞬、フランカの目が不機嫌そうに細まった。
「わたしには知る必要のないことだと思いますが」
「いいから!聞いてほしいんだ。どうしてお前だったのか気にはならないか?」
―――そんなもの小麦の粒たりとも気にはならない。
無表情の下でフランカは思う。
しかし、半ば身を乗り出す様にして捲し立てる少年は、きっと話終えるまでどうあっても自分を解放することはないだろうと思わせる気迫を身に纏っていた。
「仕方がありませんね」
感情を無にするという練習には丁度いいだろうとフランカは心を入れ替え彼へと向き直った。
「よ、よし」
自分から話したいと申し出たのにも関わらず、なにやら気合いを入れ直すように拳を握りしめるテオの仕草を眺めながら、フランカは次の言葉を待った。
「アルビナ嬢との出会いは、おれが六歳、そしてアルビナ嬢が五歳の時だった。おれは城の中が退屈でな、護衛の目を盗んでは逃げ回ってたんだ。まぁ、やんちゃ盛りの男にはよくある話だろう」
「はぁ」
すでに話を聞くということが苦痛に思い始めたフランカだが、その苦痛を苦痛と思わなくなった先に、本当の感情の殺し方の真髄があるのだと信じて、適当な相槌を打つと共に背筋を正す。
テオは相槌が返って来たことに満足して話を進めた。
「そこでおれ達は運命の出会いを果たすのだ。忘れもしない、そこは様々な花々が咲き誇る庭先だった。迷子になっていたらしい彼女は、王子であるおれを見ると少し怯えた。心優しいおれは、自分より幼いその少女に花を摘んでもいいと言ったんだ。物欲しそうに花々を見ていたからな。そしたらそれはそれは可憐な笑みで「ありがとう」と言ってくれた。それは、幼い頃から沢山の美しいモノに囲まれて生きてきたおれが、初めて心の底から美しいと思えたモノだった。幼いながらに、衝撃だったんだ。そして、その笑顔を傍でいつまでも見守っていたいと思った」
少年は幼い頃の想いに感化されたのか、熱に浮かされた様子で空を見つめている。お蔭で面倒な相槌は打たずに済みそうだ。
無言のフランカに気づかず、テオは捲し立てるように言葉を続ける。
「おれはすぐに彼女を婚約者にしたいと言った。側近達には決めるのはまだ早すぎると宥められていたのだが、それから少しして、アルビナ嬢の生贄の報が知らされたんだ。十七歳になれば忌まわしき島に送られ、待つは死のみという恐ろしい大役だ。だが、神からの御神託なのだから変更は効かない。俺は失望したよ。死を約束された娘を王子の婚約者に迎えるわけにはいかないからな。そうしたらな、正妃が教えてくれたんだ。アルビナにそっくりなお前の存在を」
「………正妃様が?」
心の平穏を促す訓練中ということも忘れて、フランカの瞳が小さく見開かれる。
テオは不思議そうに首を傾げながら頷いた。
「?………あぁ。アルビナ嬢に似ている娘がいると。もしも、彼女を婚約者にすれば、おれの望みが叶うかもしれないと」
「そして、あなたの望みというのは」
「彼女の美しい笑顔を傍で見ていたい、と」
何を思い出したのか、そう言った少年は少し照れくさそうに頬を染め上げた。
だが、フランカにとってそんな乙女な婚約者などどうでもよかった。
いきなり無言のまま立ち上がり、そのまま一気に扉に向かって足を進めた。
だが立ち上がった時と同じように突然立ち止まると、意味も分からず呆気に取られているテオを振り返って一言確認を取る。
「王子、一つ確認があります。宰相様はわたし達の婚約の件、前もって知っておられましたか」
「い、いいや。宰相なら反対するだろうと思ったから、事後報告だ」
「………そうですか。分かりました。それでは王子、今日はもうお帰りになられた方がよろしいかと」
「お、おい!」
制止の声に耳を貸すこともなく、フランカはそのまま屋根裏を出る。
だが、身体を半分以上退出させたところで、再びテオを振り返った。
「王子には申し訳なく思います。わたしはきっとアルビナ嬢のように美しくは笑えないので」
「………っ」
そう告げた彼女の顔は、本当に申し訳ないと思っているのか疑わしく思うほど無表情で。だがそれでも、彼女の口から零れた思わぬ一言にテオは息を詰めた。
テオの護衛の青年に彼の居場所と今日はもう引き取る様言付けたフランカが一心不乱に向かったのは祖父ハッセの元。
今の時間帯であればセレスティノも居るだろう。来る途中使用人達に父、義母、そして祖母を呼ぶようにお願いもした。
フランカの読み通り、急に部屋を訪れた屋敷の一人娘に驚いたハッセとセレスティノが部屋に散らばった紙を一旦机の端に追いやる頃には、すでに全員が揃っていた。
「フランカ、いきなりどうした。今はテオ王子がいらっしゃっているはずだろう」
それぞれ思い思いの位置に落ち着くのを待って、ハッセが口を開く。
「その王子と話をしていました。何故かは分かりませんが、彼はわたしに初恋の話を聞かせてきたのです。同時にわたしを婚約者にした理由が、正妃様からわたしと初恋の君であるアルビナ嬢が瓜二つだと聞かされたからだとも」
呆れ気味の空気が漂っていた部屋に驚きに息を呑む音が響き渡る。
その中で素直と定評なエッラが、
「なんですって!」
と声を上げれば、穏やかな反面敵に回すと恐ろしいと評判のフェレシアがゆっくりと目を細めた。
「しかし、宰相に対する事後報告は間違いないとも言っていました」
フランカのその一言で、一つの仮定が生まれた。
「この一連の出来事。どうやら宰相ただ一人の采配ではないようですわね」
「それならば納得が行く。ヘスス・コルテスは卑怯な人間だが、神を軽視するような男ではなかった。彼が贄の取り換えを考えついたとはどうしても思えなんだ」
ここで語るのは、今までの宰相家を知る祖父母であった。
他の四人は彼らの見解をひたすら聞く事に徹する。
「………コルテス宰相家は、この国の正しい歴史を知っているはず。どうしてこのラクノッス王国が化け物を手にしてしまったのかわかっていれば、このような暴挙にでるはずがないのです」
「このやり口は、先代の宰相殿を思い出させるものだな」
ハッセは目の前の書斎机に両腕を立て手を組んでいたが、妻の言葉にどこか疲労感を滲ませながら溜息をついてその手に額を預けた。その様子から、先代の宰相があまり良くない人間である事が窺えた。
「しかし先代はもう十年近くも前に亡くなっているはず」
フェレシアの一言に、言葉を交わさずとも部屋に居る全員の心が重なった。
そしてそれを口にしたのは、この部屋で誰よりも振り回されている少女。
「このすべての出来事の裏に、宰相ではない他の黒幕が居るようですね。………嫌な予感が、します」
✿ ― ✿ ― ✿
その後数回の訪問を経て、テオが学園へと入学する日が来た。
アールグレーン家の談話室にて、小さな茶会が行われていた。テオの送別会も兼ねているらしいが、フランカとしてはどうでもいいの一言に限る。
ただ黙って茶を啜っていた。
茶会も終盤に差し掛かって来た頃、ようやくそれぞれがテオに手土産に代わる言葉を贈り始めた。
「それでは、お気をつけて。素敵な殿方になられます様に」
テオにお代わりのお茶を注ぎながら、エッラが笑顔で言った。
「貴方はとても伸びしろのあるお方だ。学ぶことの楽しさを知り、学園生活を楽しんでください」
妻エッラが茶を注ぎ終え自分の隣に座ったのを優しい面差しで見届けた後、その優しさを損なわないままヒューゴがテオに言葉を贈る。
テオは嬉しそうな笑顔で頷いた。
「この屋敷もまた寂しくなりますわね。どうぞ、何かあればいつでも遊びにいらしてくださいな。きっと学園でも沢山の方々に出会い、沢山の事を知っていく事でしょう。寂しかったり、辛かったりした時は、わたくし達と過ごした日々を思い出してくださいませね。この屋敷のテオ様は、とても楽しそうでしたわ」
ファレシアがそう言ってテオを見るその雰囲気や眼差しは、彼女の息子ヒューゴに似ていてとても穏やかだ。
テオは彼らの自分を見る眼差しが好きだった。
まるで、本当の家族になったかのような。
「学園でも元気に過ごすんだよ。何かあれば、兄はいつでもお前の力になるから」
セレスティノの言葉はシンプルでいて、どこまでも頼りになる。
「………」
そんな優しさをかき消す様な威圧的な視線がテオに降り注ぐ。
アールグレーン家現当主、ハッセである。
彼は別にテオを拒否しているわけではない。ただその厳しい雰囲気は気難しい老人そのもので、テオは彼と打ち解けることが出来ずにいた。
「ハッセ様」
妻に促され、ハッセは瞼を一度伏せた後、テオを真っ直ぐに見つめた。
「儂から送る言葉はただ一つ。疑問を疑問として流すことのないようにすること。学び、少しでも疑問があれば答えがでるまで追求せよ。よいな?」
「………はい」
知らず知らず、テオの背筋が伸びた。
お茶を啜っていたフランカがちらりと視線を彼に向ける。最初に出会った時の彼を思いだし感心する。
―――なんとまぁ、変わったことだろう。
「もしその疑問がどうしても解き明かせなければ、儂の元へ来い。この国の事で分からぬことはほとんどない」
「ほぼ、ってことは少しはあるんですね。おじい様でも分からない事」
「こらフランカ、揚げ足を取らないの」
セレスティノに諌められたフランカは、小さく両肩を持ち上げて了解の意を示す。
ハッセは相変わらずな孫娘に溜息を零し、ファレシアは口元に手を当て楽しそうに笑い、ヒューゴとエッラは笑顔でその様子を見守り、セレスティノは頭を振っていた。
そんな様子を意に介した様子もなく、フランカは持っていたティーカップを机に戻し、視線をテオに向けた。
穏やかな家族団欒の雰囲気に呑みこまれ目を瞬かせていたテオは、フランカの視線に一瞬小さく飛び上った。
「な、なんだ」
あの屋根裏の時以来、不自然な気まずさが二人にはあった。それに、今まであまり優しい言葉を掛けられたことのないテオが身構えるのも仕様のない事だろう。
「学園での生活に幸多からんことを、心より願っております」
椅子に座りながら、一礼をしたフランカに、テオは頬を小さく染めた。
「あ、あぁ。………お前より先に学園に居るからな。何か分からない事があればいつでも聞け」
「………お気遣い、痛み入ります」
この時、空気が妙に張りつめたことを、テオは気づく事が出来なかった。
王都内のアールグレーン家の屋敷で皆と語り合うことが出来たのは、これが最後だった。
その一年後、テオは学園にて、アールグレーン家の現当主が孫娘を連れて領地に引っ込んだことを知らされた。