アムネジア ~学園失恋相談室~
一枚の写真を前にして、ソファーに座った彼女が問いかけた。
「保科先生。――――神様は、どうしてこんなに残酷なルールを作ったんですか?」
「それは僕に聞かれても困っちゃうな。どちらかと言えば、物理の香坂先生の専門だと思うよ?」
『どうしてこんな』、女子高校生にそう口にさせるほど残酷なルール。
一つ、誰かの『特別』でない人間の存在は消えてしまう。
一つ、消えてしまった誰かに関する記憶も消えてしまう。
一つ、消えてしまった誰かに関する記録は残ってしまう。
アムネジア、人体及び情報消失現象。
人間が誰かにとっての『特別』で無くなった瞬間、世界から記憶とともに消失する新たな物理現象。
世界に新しく追加された物理学的とは思えない物理現象について、世界はそれほど大きな悲しみを覚えられなかった。なにせ相手が『特別』ではない人間なのだから、実感としての消失感が存在しなかったのだ。
代わりに訪れたのは、恐怖。
自分が、誰かにとって『代えの利かない人間』で無くなってしまえば消えてしまうという恐怖の嵐が前世紀を席捲してから凡そ百年。まぁ、それなりに人類社会は上手く回っていた。
残酷なのは最後の一つ。
自分にとって『特別』だった誰かの記録や持ち物だけが残されている事実。
スクールカウンセラーの『保科もちか』は職業柄もあって、沢山の残酷と出会ってきた。
『どうせ掃除をしていくのなら、持ち物ごと消し去ってくれれば良かったのにね?』
いつも口に出したくて、それでも出さないだけの分別くらいは弁えていた。
彼と彼女が仲睦まじく手を繋ぎ、頬を寄せあっている愛らしい姿。
レトロ流行で撮影された写真を一枚残して、彼は彼女のもとを去っていった。
どうやら彼女にとって、彼は生涯を共にする運命の王子様では無かったらしい。
『特別』だった。過去形で表される王子様の名前は翔くん。
彼女達の話は、雨の日の公園から終わる。
◆ ◆
傘を差していなかった。一人で立っていた。二人分の鞄を持って雨の公園で一人きり。
頬がやけにヒリヒリとしていたけど、その原因が解らなかった。足元に目をやるまでは。
男の子一人分。同じ高校の学生服。
大きめな男ものの傘が風にあおられコロコロと転がり、濡れた地面に丸の線を描いていた。
聞いてはいた。だけど、出会うのは初めてだった。アムネジア現象と言う名前が頭をかすめるに至って、ようやく自分の置かれた立場を理解した。
あぁ、私が――――。
女子高校生の語彙力では表現できない感情が渦巻き、ペタンと落とした腰。冷たい物理現象。雨粒の浸食は、スカートを通り抜けて下着までをも冷たく濡らした。
スマートフォン。前世紀からの名残でそう呼ばれる端末機械を操作して、私と彼の歴史に触れた。
告白は私からだったらしい。ずいぶんと可愛い乙女心の葛藤が半年続き、ハートマークの乱舞が自分の乙女らしさを表現していた。
恋をした私って……かな~りお馬鹿な文章を書くんだね?
自分に対する評価は厳しめ。――――だって、それが自分だと思えなかったし。
濡らしたままにして置くのも良くないと思い、雨をしのげる場所まで二人分の荷物を運んでから読み続けた。
私は半年間、同じクラスの男の子に片想いを続けた。親友のミッキーも応援してくれた。
三日月と美月。二人ともミッキー。紛らわしい事この上ないけど、ありがたいことにそれが出会いになった。
翔くんは学業優秀、スポーツ万能。でも球技と英語は苦手な男の子。
私は、そんな所が好きだったらしい。出来る子なのに、出来ない子。なんだかそれが可愛いと感じたみたい。
顔は……中の上。イケメンってほどじゃないけど、嫌って程でもない。どちらかと言えば、タイプかな?
過去の私の中では相当に美化されていたらしく、国民的アイドルの坂崎くんよりもイケメンに見えていたそうだ。
恋は盲目って言うけど、盲目よりも乱視なんじゃないの?
どうして恋に落ちたのかは、我ながら支離滅裂のハート乱舞で理解できなかった。
可愛い。ハート。好き。ハート。ラブリー。ハート。プリティ。ハート。はぁぁぁ~~~~っと。
こんなに毎日ハートが大活躍していたら、きっと心臓が病気でどうにかなっちゃうよ?
私が告白を決意したのは恋をしてから半年後。
進級と共にクラス替えがあって、運悪く離れ離れになるのが怖くなって、明日は告白するぞと決意してから半月後。
おいおい私さん。ちょっと度胸が無さ過ぎですよ?
結局、美月のミッキーが告白の舞台を用意してくれなければ告白することは無かったと思う。
本当は、その方が良かったのかもしれないんだけど――――。
過去の私の恋人。翔くんは、いつでも楽しくて優しい男の子だった。
冗談が上手で、褒め上手で、いつも笑顔が可愛くて、とっても尽くしてくれて……。
彼に愛されてるんだと私は舞い上がっていた。やっぱり恋は盲目だ。私には何も見えてなかった。
ほんとの彼は、いつも、怯えていた。
ほんとの彼は、いつも、媚びていた。
球技が苦手だったのは、小さい頃にお父さんとキャッチボールをしなかったから。
英語が苦手だったのは、小さい頃に英会話のレッスンを受けていなかったから。
そんな彼のか弱い部分を、私は『可愛い』の一言に集約して、ハートマークで埋め尽くしていた。
付き合い始めてから三ヶ月、彼のお婆ちゃんが亡くなった。天命、寿命による安らかな終わり。
アムネジアが世界を覆いつくしてから、誰かに見取られながら死ねるということは幸せだった。
多くの人は、それ以前に消えてしまうことが多い世の中だから……。
翔くんを王子さまだと想っていた私は、ただのよくあるお姫様。
恋愛で目がハートの形をした、我慢知らずのお姫様。我侭盛りのお姫様だった。
デートの履歴をちゃんと見れば解るよ。――――翔くん、お金、無かったんだね?
なのに、私はラブに踊り狂ったまま、翔くんとの楽しい時間を精一杯に満喫していた。
週末の度にデートに誘われエスコートされた。ハートマークがいい加減に鬱陶しいよ?
昼は学校、夜はバイト、それでも彼は私に愛されようと必死になってもがいてた。
もがいて、もがいて、もがいて。
でも、軽薄な冷たいメールが一つ。
『なんだか最近、翔ったら付き合い悪いぞ~? ブーブー顔文字』
こんな薄っぺらい私は、彼へ最後に何を言ってしまったんだろう?
頬のジンジンとした疼きが熱を持ち始めてる。きっと、赤く染まってる。
雨に濡れた頬に手を当てると、少しだけ冷たくて気持ちが良い。
犯罪捜査用に残される、端末記録の最後の映像。
私が、『今年のクリスマスは二人きりで豪勢に? ロマンティックな夜景を二人で朝まで?』なんて、馬鹿なことを口にしていた。
次の瞬間、映像が乱れた。
きっと、無意識のうちに手が出てしまったんだろう。
自分の手と、私の顔を見て、一言、『違うんだ!!』――――彼が消えた。
この世から。私の思い出と一緒に消えた。そして、今の私にようやく繋がった。
やっぱり、恋は盲目だ。何にも見えていなかった。何にも解っていなかった。
ただ、甘やかされることを愛されることだと勘違いして、彼の何も理解しようとしていなかった。
ねぇ、翔くん? ――――こんなビンタ一発で良かったの? もっと叩いても良かったんだよ?
彼の荷物を返しに行って、彼の家を見て全てを理解した。
子供にとって親は『特別』でも、親にとって子供は『特別』じゃないこともある。
彼の制服と鞄を返し、男物の傘は迷惑料として貰って帰った。
――――お願い。私が帰る前に、彼の財布を開けないでよ!!
◆ ◆
「写真なんて無料なのに……わざわざ昔のカメラで撮ってもらった、二人の記念の写真なんです」
「写真は過去の結晶だよね。どうしたい? 破く? 燃やす? この部屋で預かっておこうか?」
「保科先生。……どうして神様は、もう一度『特別』になっても返してはくれないんですか?」
「それは、物理の香坂先生が専門のお話だね。……じゃあ、この写真は預かっておくよ」
「お願いします――――」
彼女はソファーから立ち上がり、頬の涙を隠さずにカウンセリングルームから去っていった。
また、女泣かせの異名が噂になるのかもしれないな。保科もちかはそんな事を考えながら、一枚の幸せだった残酷を、アルバムに収めた。
恋は盲目か――――確かに、その通りなのかもしれないね。
彼にとって『保険』は誰でも良かったことに、彼女は未だ気付いていないんだから。
キミにとっては愛する『特別』でも、彼にとって愛する『特別』だったのかは解らないんだよ?
と、口に出来てしまう冷めた大人の年頃になれば、きっと、罪の意識も薄れていることだろうさ。
今は、ただそっと、アルバムの中で眠らせておけば良いお話だよ。お休み、可愛い恋人達。