親睦
俺は二メートル近くの高さにある木の枝に右手だけでぶらさがり、懸垂を繰り返していた。
体の感覚は元通りとはいえ、筋力の底上げをしなくてはならないと焦り始めていたのだ。
単純なトレーニングだし、すぐに効果が出るとも限らない。でも何かしていないと落ち着かなかった。
イリスが水たまりで遊んでいるが、声をかける余裕なんてない。目に汗が入りそうになり、右目を閉じる。
二十回近く上下運度をしたところで、右手の感覚がなくなり指が枝からはがれた。背中から地面に叩きつけられる。受け身は取ったものの、少し遅れて痛みが火のように背中に広がる。
俺の顔の上に、白いタオルがかけられた。それは情けない呻き声を押さえる役割を果たしてくれた。
「付け焼き刃の訓練なんか何の役にも立たないぞ」
ヒロコの遠慮のない指摘に、俺は粋がって答える。
「わかってるよ。でもやらないよりましだ」
「殊勝な心がけだな」
跳ね起きた時、タオルが湿った地面に落ちた。
ヒロコが俺にやさしい言葉をかけてくれるなんて考えられない。皮肉じゃないとしたら、雨でも降るんじゃないか。勘弁して欲しい。それが悩みの種だったんだから。
「川を越える。すぐ出発だ」
ヒロコはしゃがみこみ、俺を見下ろす。嬉しそうにしろとは言わないが、歯医者に行きたくない子供みたいな顔をしている。最近のこいつはいつもこんな感じだ。
泉の一件以来、俺たちは一週間、村に足止めされていた。天候が安定せず、川が氾濫していたのだ。タマの居住地に向かうには川を渡る必要があるらしい。たとえ王女でも自然の成り行きには逆らえない。ようやく前進できることでヒロコも急ぎ伝えに来たのかもしれない。
泥遊びを投げ出したイリスが駆けてきて、ヒロコの背中に飛びつく。ヒロコも愛情を込めて応じるかと思ったのだが、違った。
「おろ?」
ヒロコはイリスに気づかなかったように立ち上がり、イリスは勢いのまま泥の上に膝をつくことになった。状況が飲み込めず、イリスは憮然としていた。
「あ、おい!」
突き放した態度を見かねた俺が注意しようとした時には、既にヒロコは石垣の向こうに姿を消していた。
イリスを連れて、近くの小川に汚れを落としに行く。
「ママ、イリスのこときらいになったのかな」
イリスは小川に足首を浸して、不安を露わにした。ここ数日のヒロコは俺だけでなく、イリスにもよそよそしくなっている。必要な事しか話さないし、目も合わせないこともしばしばだ。だが、イリスを無視したのはさっきが初めてだったから、俺もまだ考えが整理できずにいる。子供のイリスならなおさら混乱するだろう。
イリスが俺にこの質問をする時はいつも二人きりの時に限られていた。子供なりに気を遣っているんだろう。
はぐらかしちゃいけない話題だし、フォローするのにも限度がある。一度きちんと話し合った方がいいとは思うんだが、あいつも俺と話すのを避けている節がある。
「タロ?」
拠り所にするようにイリスが俺の腕に触れている。イリスの爪が少し伸びて泥が詰まっていた。これまでヒロコが切っていたが、それもしなくなったということか。
「ああ、ごめん。ママはな、これからの旅が怖いのかもしれないな。俺が弱いし、頼りないし」
愚痴でごまかすのも苦しくなってきた。だが俺はイリスにヒロコを嫌いになって欲しくない。たとえ血が繋がらなくても、ヒロコはイリスの母親だったし、あいつもそう自認していたはずなのに、どうしてこんなことになっちまうんだ。
「タロ、イリスもこわい」
イリスを抱きしめて宥める。俺だけが頑張っても意味がない。ヒロコもそれはわかっていると思う。イリスが真に恐れているのは三人の関係が壊れることなんだから。
俺とイリスが村長から借りている家に戻ると、ヒロコは椅子に座り、宙を見つめていた。イリスの摘んできた花が、テーブルの上のコップの中で萎れている。イリスが脱いだ服がそこらに散乱しており、旅支度をしていた形跡もない。
「ちょっと大事な話があるんだけど、いいか」
俺は真顔で外を示したが、ヒロコは上の空で返事にも時間がかかった。
「ん、ああ」
家の裏手に切り株がある。そこにヒロコを座らせた。
ヒロコは未だに心ここにあらず、といった風情で石壁を眺めている。歩いてた最中は咳をしていた。
「ノーラと何があったか知らないけどさ、せめてイリスにはやさしくしできないか」
ヒロコは叱られた生徒のように顔を伏せたりはしない。俺をまっすぐ見つめ返してくる。
「僕は精一杯やっている。非難される謂われはない」
「説明になってない。これだから箱入りは」
あえて挑発してみた。怒って殴りかかってくるかと思ったが、ヒロコは急に反省したようにうつむいた。
「そうだな……、気をつける。慣れない旅で気が立っているのかもしれない。自分ではよくわからないものだな」
髪が重たくヒロコの顔にかかる。乱れ髪に色気が……、今は関係ない。
気が散ったが、今日の俺は引き下がらない。イリスに俺たちの事情は関係ないのだ。
「マテリア硬化症ってやばい病気なんだろ。イリスはまだ大丈夫なのか」
俺は先日記憶を取り戻し、所長から聞いたイリスの病気のことも思い出している。ヒロコはそれを治すために今回の旅に俺を連れだしたに違いないのだ。その割にヒロコはイリスを労る素振りを見せないのは何故なのか。
「僕は専門家ではないから確かなことは言えない。ただし、時間がないことは確かだ」
「そうか。ならタマって人の所に急がないとな」
本当なら気になることはまだあった。ヒロコは俺が記憶を無くしている間、イリスの病気を黙っていたし、向こうの世界に帰すとだけしか言わなかった。向こうに帰れば病気は治るのか? タマさんに訊けばわかるだろうから、この場では口にしなかった。
決意を新たにした所で、ヒロコはふらりと前のめりに倒れた。わけがわからない。そこまで体調が弱っていたなんて。
「……、!? どうした」
抱き起こしてみると薄い。体が細いとかいうんじゃなくて、ヒロコの気配が薄くなっている。顎を上げて苦しげに息をしているこの少女はまるで今にも溶けてなくなりそうだ。俺の風邪が伝染って悪化したのかもしれない。
「僕の、ことなら、心配いらない。行こう」
あえぎあえぎ言っても説得力はない。こんなになるまで気づかなかった俺自身にも腹が立った。
「旅を続けられる体調に見えねえよ。こんなこと言いたくねえけど」
こんな病人みたいに青白い顔した奴をこれ以上連れて歩けない。俺は自分の決断をヒロコに伝える。
「お前、ハテナイに戻れよ。タマって人がイリスを治せるんだろ。俺がイリスを連れていく」
ヒロコは俺の首にしがみついた。見捨てられたくないと迫る幼子のように。
「僕が女だからか……?」
「男とか女とか関係ねえよ。これから何があるかわからない。そんな所に行ける体調じゃないってお前が一番わかってるだろ」
力説する俺の首筋に冷たいものが当たる。ヒロコがナイフの腹を押し当てていたのだ。何てことしやがる。少しでも動けば肌に食い込みそうだった。
「これでお前は一度死んだ。次はないぞ」
ヒロコは俺にもたれたまま陰気な笑い声を立てた。背筋が寒くなる。
「なあ、ヒロコ、無理すんなよ。俺を信じて任せてくれないか」
訊くまでもないことだが、ヒロコの答えは予想通りだった。
「悪いがそれはできない。僕が行かなければならないんだ」
「……、そんなにイリスが大事か」
「当然だ」
「イリスのママだもんな、一応」
俺はやっぱりヒロコをイリスのママでいさせてやりたかった。育児放棄はさせたくない。
「ママか……、この年でそう呼ばれるようになるとは。人生何があるかわからんな」
「俺も思わなかったよ。でもそう呼ばれるからには、わかってるよな? ママ」
「そうだな。無理をしてでもあの子を救わなくては。どこまででも行ってやるさ」
こいつを説得するのは不可能だ。一度決めたらてこでも動かない。頑固者なんだから。前からわかっていたことだ。かえって焚き付けてしまったかもしれない。
ヒロコはナイフを下ろして、俺に身を預けきっている。黒髪が俺の視野をほぼ占領していた。
「ランカ=リーがこの光景を見たらどう思うかな」
俺はギクリとして、ヒロコから体を剥がそうしたがそうさせてくれない。
「う、浮気には当たらないよ。親睦をふかまてるだけだから」
「ふーん。叔父上みたいなことを言うんだな。ならこうしよう」
ヒロコの赤みがかった顔が俺の額にぶつかる。息が出来ない。ナイフよりも恐ろしい接触だ。
ヒロコはこれまで聞いたことのないようなやさしい声音で囁く。
「親睦を深めているだけだから。もう少しこのままでいさせろ」
額と額が一つに解け合い、感覚が馬鹿になった。かゆいのか熱いのかわからない。
ヒロコの熱が俺にも伝わってくる。俺の熱もヒロコに伝わってると思うと、少し怖くなった。




