おてんとうさまが見てる
雨は完全に上がり、神殿のある台地には灰色の光が差していた。
雨に打たれてへたった地面が、しばしの休息を味わうやさしい時間が流れている。
「思いの外早かったな。して回答は」
クロヴィスは、折れそうなほど細長い足で大地に立っていた。言い換えれば今にも飛び立てそうな軽さも持ち合わせている。雨に打たれたわけでもないだろうに唇まで真っ青で、敵でなかったら同情してしまいそうなほど病弱そうに見えた。
「交渉の余地なんかねえよ。それが俺の答えだ」
クロヴィスは、ヒロコと引き替えにイリスを渡せと言ってきた。そんな駆け引きに耳を貸すつもりはない。今の俺は、冒険者でもお兄ちゃんでもない。しいていうなら単なる竜忌士なんだから、あの女がどうなろうと知ったことじゃない。イリスには悪いけど、これが今の俺の気持ちだ。
「では失せろ。時間が惜しいのでな」
急に辺りが夜のように暗くなった。何のことはない。山一つを軽く押しつぶすような大きさの岩が空から降ってきただけだ。
俺は左手をゆるく頭上にかざし、落下してきた岩を支える。超重量を含めた落下エネルギーの衝撃が、俺の五体を揺さぶった。足腰に力を入れつつ、大地に力を流していると、岩が重さをなくしたように弾んだ。バレーボールのトスの要領だ。
岩には弾性制御のエンチャントを張った。矢倉で強化しても、手首はおろか尺骨まで折れたが、良しとしないといけない。重さはあるが、岩は単なる岩に過ぎない。右手を使っていたら、追撃された時に困る。蛇の脱皮を使われることも予想していたが、それもなかった。
ここまで読み通りだ。外したら即詰みの厳しい戦いは始まったばかり。長期戦に持ち込めばあるいは戦えるのではないかと俺は考えていた。
ふと、体の重みを感じなくなり、下から風を受けて目を細める。天地がひっくり返ったように意識が揺さぶられた。
広大無辺な山々が眼下にそびえる。大岩が、さっきまで俺がいた神殿を押しつぶし、粉塵を巻き上げていた。
俺は空に引っ張られるように宙を浮いていた。岩に働いていた弾性が俺に作用している。つまり岩と俺の位置が入れ替わっていたのだ。
俺がはね飛ばされる軌道に、クロヴィスが足を組んで座っている。空だから椅子なんかない。それでも余裕ぶって俺を待ちかまえている。
「路傍の石」
クロヴィスの女みたいなほっそりした指が俺の背中を撫でる。触れられた箇所から俺の生命の鼓動が根絶させられていくのがわかる。
「お前を初めて見た時そう思った。宝石にする価値もない。さらばだ」
俺は結局、なんでもなかった。お兄ちゃんですらない。S級になったからってなんでもできるわけじゃない。そんなのタマさんの試練を経たから知っている。
お日様が、俺の頬を掠めた。俺を見てくれてる。右手を広げ、天に向かってかざす。指の間から光りがあふれた。
「俺の国ではさ、おてんとうさまが見てるって言葉があるんだよ」
俺の腿から下が崩れ、コンクリートみたい 色になって地面に落下していった。
「空気を読めってことだろうし、あんまり好きじゃなかった。でも今なら言える。おてんとうさまが見てる」
「見ていようがいまいが、私が万物を支配することに変わりはない。負け惜しみか」
そうとは限らない。干支矢倉を起動する。干支矢倉はエンチャントの総量で、効果が変わる。今の絵柄は亥。干支の最後尾に当たる。ヤギたちが、タマさんの敵を討つためにその身を捧げてくれたのだ。
そればかりか、周囲には雲母のような光が飛び交い、矢倉に吸い込まれていく。
「マテリアって空気みたいにそこらにあるんだよ。八百万の神みたいにな。一神教の神さまにはわからんだろうが、みんな、あんたに復讐したいってさ」
初めは蛍の光ほどだったマテリアも、今では銀河のような流れを形成し、俺たちを取り巻いている。
俺は蚕が繭を作るように光を束ね、先ほどの岩にも負けない巨大な球を作り出した。マテリアをエネルギーに変えて撃ち出す。
これが干支矢倉最終奥義、”竜殺し”だ。
二
「そんなに世界を救いたいか」
クロヴィスは、竜殺しを片手で止めようとしたが、押され始め、両手を使って押さえ込もうと足掻いている。
「ババアと、リク君の敵が討ちたかっただけだよ。悪かったな俗で」
俺はそれらしい大義を持ち出してみたが、本当はそれほど二人の死に心を動かされているわけではない。自棄を起こしていただけだ。結局、誰が悪いんだ。ぶつける相手がいない暴力ほど虚しいものはない。今まで俺のやってきたことは何だったんだろう。
「私が滅びることはない。この器が壊れようが、必ず復活してみせる」
額に青筋を浮かべ、必死の形相で抵抗するこの男が哀れになってきた。
「そうかよ。勝手にしろ。そのたびに別のお兄ちゃんがお前の野望を阻むぞ」
虚を突かれたようにクロヴィスは真顔になった。それが彼の素の表情だとわかるまで時間を要した。
「それは……、楽しみだ」
「妹のいないお兄ちゃんは無敵だからな」
俺が自虐を込めて笑うと、クロヴィスも同調するように笑った。この時の彼は宝石の竜でもなんでもなく、同じ悲しみを共有するお兄ちゃんに過ぎないのだった。
クロヴィスの両手は光に飲まれ、分解された。光に押し包まれるように、俺たちはゆっくりと神殿のあった場所まで降下していく。
命を糧に廻るやさしい世界。
孤独な魂。
卒業証書を渡せないお兄ちゃん。
こんな矛盾はもうたくさんだ。
その日、VAFから二人のお兄ちゃんが消えた。それだけだった。