邂逅するお兄ちゃん
「ランカ、まだ怒ってるかな」
神殿に足を踏み入れた時、唐突に思い出した。
FGのメッセージはいつまでも未読のままだ。俺の送ったメッセージは読まれてさえいないということになる。
薄暗い神殿は稲光が走るたび、わずかな空間が照らされる。神殿を支える太い柱の陰に何かの気配を感じ、目をこらす。
丸いテーブルが倒れている。映像で観た奴に似ていた。カップや皿が、砕けている。
足を踏み出すと床が塗れていた。触ってみると、生ぬるい。雨風が神殿まで飛んできたかと思ったが、粘りがある。
今すぐ神殿から離れないと危険だ。わかってはいるけど、俺には守らなきゃいけないものが多すぎる。
よくない想像を裏書きするように、何者かの影が、立ち現れる。
「神殿は血のぬかるみから生まれた」
男は詩でも詠ずるように独り言をつぶやいている。
「奴隷に石を運ばせ、神への祭壇を作った。その血は供物へ。肉は柱に」
男の姿が稲光で洗い出される。紫色の長い髪に、背がべらぼうに高く、中性的な顔立ちで美しいと表現できそうだったが、虫が好かない顔をしている。
「あんた、誰だ」
神殿に俺の知らない人間がいないとは聞いていない。それでも不躾な訊き方をしてしまったのは、男の醸し出す空気が不吉だったからに他ならない。
「おや、会ったことがあるだろう。お兄ちゃん。もう忘れたかい」
古い引き出しを開けた時に、忘れていた品を発見した時のように俺は男のことを思い出した。
男は俺がハテナイで出会った初めての人間だった。道を教えてもらえたのだ。お兄ちゃんのよしみで。今まで完全に記憶から消えていた。
「失礼。その節はどうも。でもどうしてここに? あんたももしかして神官だったりする?」
男は耳触りな含み笑いで応える。俺は飲まれないように咳払いでごまかすしかない。
「神官は、私の子供だ。子供の家に親がいても何ら不思議はあるまい。ふふ……」
超然とした態度に納得はできずとも、鵜呑みにさせられてしまう。男の声はラジオのチューニングのようにするりと耳に入り込んでくる。
「……、タマさんたちが、今どこにいるか知ってますか」
男の指が闇の中で閃いた。指輪の宝石だというのがわかると、嫌悪感はさらに増した。
男の背後に朱色の壁があった。壁なんかあったかなと考えているうちに、それが壁ではないことがわかる。慄然とした。
壁は生臭い臭気を発しながら、せり出してくる。呼吸をするように収縮し、血管が浮き出ている。有機的で生々しい肉の壁のようだった。
「あ……」
俺は肉の壁の中に見知った顔を見つけていた。
タマさんの顔の傷に似た痣に加え、唇がうっすら盛り上がっている。
「親が子供の家にいるのが自然なように、親が子供をどう扱おうが自由なわけだ」
自制心を忘れ、俺は男に殴りかかっていた。男の指輪に守られた細指はたやすく俺の暴力をいなした。逆に首を掴まれて、持ち上げられた。わずかに動く舌で抵抗する。
「……、そんな道理はない。タマさんを解放しろ」
「道理とは大きく出たな。だが、タマは私との約束を破った。これは罰なのだよ。父親の与える罰は愛なのだ。それがわからないのはお前が父親ではないからだ」
「俺も一応父親なんですけどねっ!」
俺は矢倉を起動し、wheelいう付箋を取り出した。摩擦係数をいじるエンチャントだ。男に捕まれている腕からすり抜けることに成功する。
「お前は父親になれんよ。生んだこともないくせに」
「げほっ……、じゃああんたは生んだことがあるのかよ」
まるで水掛け論だ。神官を生んだって比喩じゃないとしたら、こいつは一体何者だ。あのタマさんが手も足も出ないなんてただ者じゃない。
「さっきからそう言ってるだろう。わからん奴だな」
男の話はますます俺を困惑させた。埒が明かない。ひとまずここは腕ずくで解決する。
殺気を漲らせた途端に、大事なことに気づいた。頭に血が上って肝心なことを忘れていたらしい。
「お兄ちゃん、一つ訊きたいけど、イリスたちはどこいった。その肉の壁の中か」
「いや、逆にこっちが訊きたい。神子はどこだ。お前なら知ってると思ってな。探す手間が省けると思ってここで待っていた」
お兄ちゃんは、肉の壁についているタマさんとおぼしき唇を撫でた。
こいつの狙いがイリスだとしたら、最悪の事態は回避されたことになるのか。ランカが連れて逃げたと思いたい。
「イリスをどうするつもりだ。前に殺そうとしてきた奴もいるが、今のあいつは、もう人に危害を加えないんだ。見逃してくんねえか」
「そんなことはどうでもいい。お前と一緒ではないということはもう一人の方を捕まえるしかないか。煩わしい」
お兄ちゃんは俺の脇を素通りして、神殿の入り口に歩こうとしていた。足音はせず、雨音だけが大きく聞こえる。
「おい! 待てよ」
「待てんよ」
お兄ちゃんの肩を掴んで制止させようとした俺の手が燃え上がる。デジャブに似た現象に思考が凍る。
「脱皮したての蛇は宝石のように美しい。そうは思わないか」
お兄ちゃんは薬指にはめた琥珀色の宝石に口づけた。間違いない。付箋の色が赤に変わった。あれはリク君のエンチャントを変化させるスキルだ。どうしてこの男が。
俺の腕の火を消すのを忘れ、呆然とした。考えがまとまらない。
「神威 宝世詩歌。私は冒険者を宝石に変えることができるんだ。中指は、ライアス、薬指は、シエル、小指は、シンゾー。人差し指の彼とはさっき出会った。運命だった」
「ふっ、ざけんなよ。元に戻せ」
「一度宝石になった者は永遠の美と引き替えに、私の僕となる。できない相談だ」
俺は男の青白い頬を殴りつけた。大理石のように冷たく、弾力のかけらもない肌だ。
「器風情が。お前、邪魔だな」
鋭い低音の声が、俺の体の自由を奪う。俺も宝石にされるのか。まだ何もしてないのに。
「おい!」
聞き覚えのある声が、俺の遠のいた意識を呪縛から解きはなってくれた。
タマさんの唇が肉の壁の中で蠢いている。
「なんであたしを助けに来ない。今一番ピンチなのあたしだろうが!」
俺は唾を飲み込む。冷静に考えればそうなんだけど、あのしぶといババアが簡単にくたばるとは思えなかった。自分本位な所も頂けない。
「あんた、こいつを怒らせるようなことやったんじゃねえの。ヒロコたちは無事なのか」
「あはん☆ バレた。でも今じゃなきゃだめだ。消化されかかってる。ヒロコたちは今のところ大丈夫。あたしのところにキテキテ」
確かにタマさんの形跡が肉の壁に埋まり、見えにくくなっていた。気が進まないけど助けるしかないのか。
どういうわけか謎の男は神殿を出ようとしている。あくまでイリスが目的か。俺は眼中にないようだ。それなら、ババアを超速で救出してから、リク君の仇を取ることも可能か。
俺は肉の壁に突進した。肉の壁は俺をはじくどころか、底なし沼のようにいとも容易く俺の全身を飲み込んだ。