保険
ヒロコは明日、ハテナイに向けて出発すると言った。俺の予想よりだいぶ早い。
「イリスはどうすんの」
「お前に任せる。老師もその方がいいだろうと」
ハテナイはイリスを兵器として使うつもりだった。ヒロコはそれに反発して今回の旅に出た。イリスのママとして理解出来る行動でも、王女としては限りなく赤点に近い。心配になる。
「戻って大丈夫なのか?」
「今度は花嫁修業じゃ済まなくなるかもな。覚悟はしているが少し怖い」
ヒロコは文字どおり人生に命を懸けている。俺には真似できない生き方だ。
「とはいえ、イリスにしてやれることは全部やったからな。悔いはないよ」
ヒロコは無理して明るく振る舞う。強がるならもっと上手くやって欲しい。
「全部なんておこがましい事よく言えるな」
俺が揚げ足を取るとヒロコの声が震えた。
「本当は、全然足りない……、イリスともっと一緒にいたい。でも僕は国を捨てられない。イリスに誓いを立てたのに、破ることになってしまった。責められて当然だ」
ヒロコと俺とでは立場が違う。それはイリスに対する今回の旅でも明らかだった。何も知らないイリスや俺をヒロコは引っ張り回したし、今もそうしようとしている。だから、怒った。
俺は声を和らげる。
「今のうちから満足してんじゃねえよ。イリスも俺らもまだまだこれからなんだからな」
「これから……?」
頭の固い王女はだいぶ視野が狭くなっている。悪知恵をつけて差し上げる。
「今生の別れとか決めつけんなよ。イリスとはまた会えるだろうが」
ヒロコの最大の懸念を俺は払拭出来るのだろうか。もし出来なかったらイリスのパパ失格だ。
「あいつが成人して、結婚して、ガキこさえるとこ見たくないのか?」
「待て待て、話が飛躍し過ぎている」
興奮して先走り過ぎたらしい。ヒロコに止められた。でも明るい想像はヒロコに影響を与えたらしい。微笑みが見られた。
「その時は僕らも年寄りか。お前のオムツを替えてる頃だろうな」
「いつも済まないねえ……、って、何で俺が介護されてる設定なんですか!」
「今回の旅での経験を生かそうと思って」
そういえば、ヒロコに身の回りの世話をされていた時期もあった。あんな老後を想像しても罰は当たらないか。
「僕が王女でなくなったら、お前はどうする?」
たらればついでに訊いたのかもしれないけど、何やら剣吞だ。ヒロコは俺の目を覗き込んでくる。
それってつまり……
「なんてな。そんなのありっこない。保険をかけただけだ。忘れてくれ」
すぐさま発言を撤回し、ヒロコは俺に背中を向けてしまった。
なんだぁ、不安を紛らわせるための王女流のジョークか。少し焦ったじゃねえか。ドッキリか。ランカに見られてたら絶対ヤバい。
結局、王女の保険になれたら、身にあまる光栄って事ですかね。心配すんな。お前の王女マインドは死ぬまで治んねえよ。
二
いつの間にか眠ってしまったみたいだ。時間を確認したら五時間は寝ていた計算になる。ヒロコの姿はベッドになかった。
台所の花瓶の側に、メモが残されている。
「老師にお茶に誘われた。行ってくる。お前はゆっくり休め」
ヒロコの字を初めて読んだ。流麗な日本語の文字だ。ヒロコの母はやはり日本人だったんだ。ヒロコも日本語の教育を受けてそれを忘れなかった。
FGにも通知があった。動画が添付されている。再生すると、タマさんとヒロコ、リク君とランカが丸テーブルを囲んで談笑している。イリスがいないと思ったら、テーブルの下から飛び出てきて、カメラの前ではしゃいでいる。
皆、親睦の時間を楽しんでいる。垣根を感じさせない彼らの様子に、俺も無性に人恋しくなった。撮影された時間は二時間も前だ。俺も呼んでくれればよかったのに。
「おーい、映ってるのか、これは」
ヒロコが落ち着かない様子でカメラの前に現れた。
「イリスもいるぞ。タロ、元気か」
口元にクリームをつけたイリスが、人なつこい笑みを浮かべている。
「色々あったが、こうしてイリスと仲直りできた。一度しか言わないからな」
ヒロコが深呼吸している。力の入れようが尋常じゃない。俺まで緊張してきた。
「ありが……」
「ママはタロのことが大好きだってー!」
イリスが大声を出すと、カメラの映像が急に真っ黒くなった。しばらくして、タマさんの鼻が大写しになった。カメラが倒れたのを直しているようだ。
動画の最後に、タマさんが俺にメッセージを寄せてくれた。
「よく頑張ったな。面と向かって言うのは恥ずかしいから今言っておく。あと、大事な話があるからな。お前の妹のことだ。少し長くなるから、体調が良くなったら神殿に来てくれ」
散々遠回りしたが、ようやく俺の旅が前進しようとしていた。
はやる気持ちを抑えつつも、外に出る。神殿の真上には重苦しい雲がたちこめ、周囲は宵の始まりのように暗い。
稲光が走り、轟音が山を貫く。やだな、一雨きそうだ。
イリスは椅子で一人、本を読んでいた。足は床につかず、ぶらぶらさせている。
脇に小さな本棚があり、豪華な装丁の本が一部の隙もなく収まっている。本棚には不思議な魔法がかけられているのかイリスが本を取り出すと、すぐに本棚の隙間は埋まり、余白を消してしまう。
当初、文字が読めなかったイリスだったが、数をこなすうち言語の法則を見いだそうとしていた。
五百年に一度、眠りから覚める宝石の竜に人間は苦しめられている。そればかりか死んだ人間たちまでが怪物となって蘇り、人々を襲う。
終末の世界に一筋の光が差す。船に乗った神子が、人々を乗せ、苦しみのない世界に連れていく。
「この世界の成り立ちを学んでいるんだね」
見知らぬ腕が、イリスのテーブルに乗せられる。エメラルド、オパール、ダイヤ、色とりどりの指輪がその指にはまっていた。大ぶりなデザインが嫌味に映る。
「しかし肝心な箇所が抜けている。神子の隣にはもう一人、男がいたのだよ。神子の兄で、彼の名をクロヴィスといった」
イリスが分厚い本を閉じると、大いにほこりが舞った。神殿は元の静寂に包まれる。
「おーい、イリス!」
タマは興奮を押さえられない様子で、イリスのいる椅子の側に駆け寄ってきた。
「タロウにメッセージ送っといたぞ。こっち来てお茶飲んだらどうだ。お菓子もあるぞ」
「おばば」
イリスは目を上げ、唇を開きかけたが、何を言おうとしたのか既に忘れていた。
雷の音が神殿の奥にまで、轟いた。イリスは先ほどまで読んでいた本に出てきた竜の咆哮を想像し、震え上がった。