神威
角の曲がったヤギが、タマさんの眼前を横切ろうとしていた。
「タロウ、あたしがこの世で最も嫌いなものはなんだか知ってるか」
タマさんの嗄れ声を聞いているだけで、背筋に震えがきた。さっきまで晴れていたのに、気づけば黒い雲が空を埋め尽くしている。
「遅刻ですか。すみません、ゴタゴタしてて」
「遅刻は三番目だ。あたしが嫌いなのはラブコメだよ。何だよ、ラブをコメディってよ。ふざけてんのか。浮ついた感じが気に入らねえ」
タマさんはご機嫌斜めだ。俺たちに対する当てつけだろう。ランカとヒロコにはコテージに避難してもらっている。危害を加えられることはないはずだ。
「俺もあんたが気に入らねえです。あんた、嘘ついただろ。ヒロコは健康そのものだ。俺の力なんか必要ない。何で嘘をついた」
「別にお前の力でヒロコを救ってもらうかどうかは決めてなかったはずだ。短期間に成果を出すのに利用させてもらったまでよ」
「何のための成果だ?」
「決まってるだろ。来るべき脅威への備えさ。イリスへのな」
そう言われると弱い。俺はこの問題を蒸し返すのを諦めた。
タマさんはヤギを杖でつついてどかし、俺の前に立った。杖の先端には青い巻き貝の装飾がついていた。
「可愛いだろ。これでも昔はアイドル神官とか呼ばれて人気だったんだぜ。当時はロリ声でよ。今は枯れちまったが」
「あんた一体いくつなん?」
タマさんは死十朗と同じ年代から生きていることになる。最低でも三百年。そんなことがありうるのか。
「この丘にはな、かつて都市があった。バラルカっていう国の首都。ハテナイの五代前の王朝だ。あたしはその時代から神官を任された」
正確な年代は本人も忘れてしまったらしい。わかったのは神官は規格外に長命だということだけだ。
「さて、昔話はこれくらいでよそうか。これよりS級最終試練を行う。本来なら担当神官であるアテナの仕事なんだが、あたしが代わりにやらせてもらうってことで異存はないな? 試練の内容は二十四時間、あたしから生き延びること」
単純な力試しというわけではなさそうだ。死十朗は勝とうとするなと言っていたし、タマさんも勝敗は想定してない口振りだ。
「質問はあるか」
「もしあんたを倒しちゃったらどうなる」
「ほっぺにチューしてやる。他には? トイレは行ったか。休憩はなしだぞ」
「うんこしたくなってきました」
「待ってられない。好きな女は抱いたか」
「全部搾り取られました( ̄^ ̄)ゞ」
「じゃあ心残りはないな。いくぜ!」
タマさんは身の丈より長い杖を大地に突き立てた。先端の巻き貝が鋭く尖り、天に伸びる。
「神威 巻目曼陀羅」
初めは何も起こらなかった。
俺の頭は沸騰していたので、タマさんのむき出しの脇をくすぐるべく勢い、足を前に出した。
「死十朗から聞いてないか。神官は次元が違うって」
「聞いてるけどやってみなくちゃわかんねえ」
俺は足を前に出した。膝を曲げている。汗がまぶたの上に貯まる。水滴になってふわふわと漂っているようだ。
足を前に出した。右足だ。大腿部を高く上げ、力強く大地を踏みしめるための動きが。
「どうした? まだ三十六億分の一秒しか経ってないぞ」
動きが、
身動きが出来ない。
時間が止まっているわけじゃなさそうだ。息は出来てる。俺は左足一本だけで立っているが、疲労は感じない。ほとんど見た目では判別できないレベルで、足が下がっている。こぎざみというにはあまりに微細なナノレベルの振動に過ぎないと思うが。
まぶたの汗はまだ落ちないどころかそのまま目の上にある。
「あたしの神威は、実存の処理を久遠の彼方に飛ばす」
「ぉ、ぉ、ぉ」
俺の舌の機能はむなしい動きを試みる。他にできることは何もない。
「待ち合わせに遅れるとどうなる? 相手は怒るか、いなくなるか。いずれにしろ、そこに本来のお前はいない。遅れるとどうなる。どうなる。存在自体が完了しないと、どうなっちまう? わかるか。お前がお前自身に到達しないんだよ。それがどういう 意 味か 」
タマさんの声が遠のく。もはや音声として意味をなしていなかった。
タマさんの声はおろか俺の足は永遠に地面に到達しない。そうなったら俺はどうなる。俺という行為が完遂しないと存在自体がなくなるってことだ。ある意味死ぬことより恐ろしい。もう無理。ギブアップだ。誰か、誰でもいい、助けてくれ。
底のない暗闇に落ち続けるのは、もう耐えられないんだ。