最低で最高の相手
俺はヒロコの手首をいきなり掴んだ。
「な、何をする……、無礼な」
「何って。釣りに行くんだろ。行こうぜ」
手に力を込めると、ヒロコは逃げようともがく。それでも力を緩めなかった。
「やっぱり、い、行かない。ランカを探すのだろう? 手伝うから。そうしよう」
取って付けたような理由は逃げ場にならない。ランカのことは半ば忘れかけていた。
「ふざけんなよ、お前。何でそんなに可愛いんだよ」
「はあ? か、可愛い?」
うっかり本音を口にしてしまった。もう一気にたたみかけるしかない。
「あんなことされたらな、どんな男だっておかしくなるっつーの。俺がS級予備軍で童貞じゃなかったから無事で済んでるだぞ、感謝しろ」
ヒロコは唖然と俺を見ていた。ちゃんと聞いてるのか不安になる。俺は説教しているつもりだったから咳払いして反応を伺う。
「……、悪かった。もぅしない」
消え入りそうな声で、ヒロコは反省を口にした。わかってもらえてよかった。王女は対人関係が希薄だから距離感が掴めないんだろう。誰かが注意しておかないと変な男に捕まらないとも限らない。
「二人は深い仲だったのだな」
ヒロコがやけに重々しく言うのを聞いていたら、俺も照れてきた。童貞じゃないとか、王女の前で軽々しく口に出すべきじゃなかった。
気まずい沈黙は、それほど長く続かずに済んだ。
俺のFGが激しい振動と共に音を奏でたのである。軽快なチャイム音に俺たちは心底驚き、互いに距離を取った。
「あ……」
ランカからの短いメッセージだ。意味はすぐ飲み込めた。
「話があります。神殿前にきて」
俺は神殿へと急いだ。ヒロコが少し遅れて着いてくる。
日が照りつける丘に、ランカが待っていた。タンクトップに腰にシャツを巻き付け、背中にはリュックを背負っている。まるで今にも旅立ちそうな格好だ。
「早かったすね」
「今までどこにいたんだよ。探してたんだぞ」
嘘をついた。ずっとヒロコと一緒だったから探す暇もなかったのだ。
「私、ユミルに行きます。長期休暇は肩身が狭いですから」
俺は流れ出る汗を拭ったが、いくら拭っても汗は止まることはなかった。
「なあ、本当に行くのか」
「はい。だってタロウさんには私が邪魔みたいですし」
さん付けに戻って、態度もそっけなくなった。彼女にとってはもう俺は他人扱いなのかもしれない。
行かないでくれの一言がどうしても出ない。俺が悪いのはわかってる。未練がましいのは格好悪いとか、見栄ばかりが俺の動きを鈍らせた。
「お世話になりました。短い間でしたけど楽しかったです」
ランカの影と足音が遠ざかる。俺は耐えられなくなり、後を追って呼び止めた。
「あのさあ! 言いたいことあるならはっきり言えよ」
俺が大声を出すと、ランカが足を止めた。
「言いたいことなんかもうないですよ。さよなら」
「あるだろ。俺が腹立つのはそこなんだよ。いつも俺が決めていいって言ってるけど不満そうな顔してさ」
「そんな顔したことない」
「してるよ。わかるんだよ、一緒にいたから」
今もランカは我慢している。どうせ別れるなら、お互いすっきりして終わるべきだと思った。
ランカは気持ち落ち着けるためか、大きく息を吸い込んだ。と思いきや、俺の両耳を引っ張ってきた。激痛。
「だったら言わせてもらうけど、なに他所でガキこさえてんだよ。ああ? パパママとか呼びあって見せつけられてる方の気持ち考えたことあんのかよ。私はお前の何なんだよ!」
聞いたことのない汚い言葉で罵倒され、少し冷静になる。
「なんつーか、イリスとかのことは不可抗力というか、申し訳ないと思ってる。それを言うならやっぱりランカだって俺をはめたわけだし」
ランカとの関係は常にどこか宙に浮いた感じだった。告白はして受け入れてもらったけど事後承諾みたいでしっくりいってなかったし、これが俺の偽らざる本音である。
「騙される方が悪いんだよ。タロウはお人好しだから」
「気をつけないとな、お前みたいな女ともう出会わないことを祈るよ」
「私も、タロウみたいな男に貢がないようにする」
「いるのかな俺みたいな男」
「いるのかな私みたいな女」
きっともう出会わないに違いない。これ以上最低で最高の相手には。
気づけば、ランカの手は耳から離れており、俺の片頬にやさしく触れていた。
「もう、会えないね。私みたいに尽くしてくれる子他にいないよ。手放しちゃって本当にいいの?」
俺はランカの震える手を死にものぐるいで掴んでいた。
「尽くしてくれるのはありがたいけど、ランカが疲れちゃったら元も子もないって言ってるんだよ。例をあげるとするなら、その髪型似合ってない。可愛いのは確かだけど」
「はあ? 今それ言う? タロウが好きそうだからがんばってたのに」
俺はそんなことを頼んだ覚えはない。似合っていれば長くても短くてもどっちでもいい。
「無理してがんばらなくていいんだよ。こっちも疲れるしさ」
ふと視線を感じ振り返ると、王女が離れた場所から口パクで合図を送っている。キスしろと指示しているらしい。するかよ。
「ずるいね、タロウは。でもわかった」
ランカが俺の手を払いのける。わかったって何を?
「髪切るわ。ヒロコさんに頼んでみる」
真意を訊ねる前に、ランカはヒロコに近寄って話し込んでいる。
この関係を続けるには虫が良すぎるのか。ランカの言う通り俺はずるいのかもしれない。でもあの子に未練があるのも確かだ。何とかしたい。
タマさんが神殿から降りてくる。いつかアテナが被っていた月桂冠を被り、黄金の杖を携え、これから儀式でも行うような厳粛な顔つきをしてやってきた。
最終試練がいよいよ始まろうとしていた。