だが、断る
目を覚ました時、やけにベッドが広く感じた。肌寒くて急いで服を着た。
ランカはまだ帰っていなかった。居心地が半端なく悪くて、玄関に急いだ。
外はまだ薄暗くて、タマさんが現れる雰囲気ではなかった。どうせなら早く試練を終わらせて俺はここを立ち去りたい。
薄紫色の風景の中で蠢くものがあった。ヤギが食事をしているようだ。またイリスが食事の世話をしているのか。俺はフラフラと群れに近寄った。
ヤギに餌をやっているのはイリスだと思いこんでいたが、違った。
長袖のシャツにロングスカート少女だ。小ぶりな顔の輪郭、長い手足、暗がりでも容姿が整っているのがわかる。長い黒髪を垂らし、おっかなびっくり餌をやっている。ヤギが葉っぱに食らいつくたび、大げさに手をひっこめていた。
ヒロコが俺の方に顔を向けた。辺りが暗いから、目を細めないと見えないらしい。
俺はできるだけ怒っているように見えるように肩をそびやかしたが、効果的だったかどうか。
「やっ……、ちょっと、なんだ、やめろこら」
ヒロコが体を反らして慌てている。背後からヤギが髪を引っ張っているらしい。
俺がヤギを追い散らすと、ヒロコは髪の具合を確かめ、また餌やりに戻った。
「おい、無視か」
俺からすると、非情な別れ方をしたというのに、ヒロコに後ろめたい様子はない。所詮、俺のことなど眼中にないということか。
「ありがとう」
ふっと差し込んだ木漏れ日のような言葉に、俺は固まる。いや、これまでも同じ手でやられてきたのだ。飴と鞭がこの女の武器だ。だまされないぞ。
「体は大丈夫なのか」
「おかげさまで。完治とはいかないが」
「強がるなよ。本当はしんどいんだろ」
ヒロコはヤギに餌を与える手を止め、俺に目を向けた。青く光るような眼光に怯みそうになる。
「僕の体の具合とお前に何か関係があるのか?」
「大ありなんだな、これが」
ヒロコはきょとんとしている。俺の意図が飲み込めないらしい。
「もう俺は前の俺とは違う。お前のことを救ってやれる。どうだ、助かりたいか」
命に関わる事柄でからかうのは悪趣味だろう。でもヒロコの澄まし顔に対していたら言わずにいられない。
「随分大きく出たな。救ってやる、か。
だが、断る」
気持ちいいくらいの即断だった。
ヒロコはヤギの群れを引き連れ、俺から離れていく。併走するようについていく。
「お、俺、S級になれそうなんだよ。すげえだろ、ショータと同じなんだぜ」
「そうか、偉いな、よかったな」
俺の武勇伝を聞き流し、ヒロコはさらに足を早める。俺は前に回り込み、ヒロコの肩を掴んだ。
「しつこい。捨てられた子犬の方がまだ可愛げがある」
ヒロコは媚びない。俺に助けられるくらいなら死んだ方がいいとか本気で考えている。こうなったら実力行使だ。
「お前の体、ぜっ、たい! 治してやる。俺に任せろ」
ヒロコは迷惑そうに肩を引く。気づけば俺がお願いする立場になっている。
「そう言われてもな。お前の力を僕はよく知らない。試させてもらっていいのなら」
ようやくこっちの土俵の引きずりこめて満足した。わがままな王女をひいひい言わせてやる。覚悟しろ。
「ひーい……、ひいー、すんません、すんません、もう無理です無理ですぅ!」
「口ほどにもない。これなら我が国の兵の方がまだ精強だな」
俺はあっさりヒロコに腕をひねられ、地面に転がされた。まったく歯が立たず涙が出てきた。何でこの王女こんなに腕っぷしが強いんだろう。
「これで気は済んだか。僕は忙しい。ヤギを小屋に戻さなくては」
「ヒロコ、イリスと会ったか?」
ヒロコは目をそらし、いじけたように背を丸めた。
「会えると思うか? 僕はイリスのママ失格だ」
ヒロコは俺の知らない間にもイリスの秘密をずっと抱えこんでいたのだ。それでもママを続けてきたのは意味があるんじゃないのか。
「親に資格なんかいらねえだろ。逃げるな」
「逃げてなんかいない!」
素早く俺に怒声をぶつけてくる。少し安心した。感情が冷えきっているわけじゃないんだ。
「俺、あいつと会ったんだ。ママを救うんだって、頑張ってた」
「やめろ……、やめてくれ」
つぶれそうな声で、ヒロコは嘆願した。俺はどれだけ自分が残酷なことをしているのか気づいてさえいなかった。
「これ以上、僕にどうしろというんだ。やるべきことは全部やったんだ……、頼むから、もう」
俺は大きな勘違いをしていた。ヒロコは一国の王女で俺より精神的に成熟していると思いこんでいた。たとえどんなに強い人間だとしても、打たれてへこまない奴なんかいない。俺は今まで何を見ていたんだ? ヒロコが俺を遠ざけたのも、当然の防衛反応だったのかもしれない。イリスで一杯だったのに、俺の世話なんか焼いていられないだろう。
「お前も辛かったんだな」
ヒロコが責めるような目で俺を見上げる。
「一言で片づけるな。僕の背負っているものがお前にわかるはずがない」
「ああ、わかんねえ」
わかんねえことだらけだ。イリスの事も、ランカの事も。相手が女だからとか関係なしに、他人の気持ちなんかわからないのかもしれない。
「わかんねえから話してくれよ。今の俺なら力になれる。ならせてくれ」
俺の方から頭を下げた。こうでもしないとプライド高い王女様を動かすことはできそうもなかった。
俺の頭に何かが置かれた。触ってみると葉っぱの入ったザルだった。
「それならヤギの面倒はお前が見てくれ。僕はこういった雑事に向いていない」
ヒロコはあくびをしながらヤギから離れていく。ヤギが目を光らせ、波濤のように俺に殺到した。
「うわーっ! おい、ヒロコ、待てよ! こんなの許さねえからな。絶対、絶対、お前とイリスを助けてみせる」
ヒロコは一度も俺を振り返ることなく、どこかに行ってしまった。角突きが背骨に当たって痛い。俺は興奮したヤギの群れから脱出するために、葉っぱをばらまいた。
ヤギは俺に目もくれず、地面の葉にかぶりつく。助かった。
「大口叩いた割に、ヤギにすら勝てないのか、お前は」
ヒロコが数メートル離れた場所で、腕を組んで立っている。輪郭もぼやけてわからないが、笑っているように見えた。
「俺の力は、冒険者にしか使えねえんだよ。今度見せてやるから」
「結局、僕の役に立たないのか? 口だけか」
「いや、だから、違う……、違わないけど」
威張ってはみたものの、俺はまだS級でもなく、タマさんの言葉を鵜呑みにしていただけた。ヒロコを救う具体的な方法は全く知らない。
俺が説明に苦慮していると、ヒロコが歩み寄ってきた。
「そんなに僕のために働きたいのなら、好きにすればいい。変な奴」
ヒロコは口笛を吹き、ヤギをひとまとめにすると崖の方に向かった。
「ほら! 早く来い、タロウ」
透き通るような声で俺は呼ばれた。ヤギのように従順に王女の後に付き従う他なかった。