第二の試練 最強の冒険者 椿死十郎
男は顔を川面につけ、死んだように動かない。心配になって声をかけようか迷った。
「ぷはっ!」
一分近く経過してから水面から顔を上げ、水気を切るように掌で乱暴にこすっていた。
挙動がいちいち大仰なものの、野卑とはまた違う風格みたいなものを感じる。名前を訊いても思い出せないというから便宜上ヤギさんと呼ぶことにする。
「この川の水はうまい。お前もどうだ」
俺が丁重に断ると、ヤギさんは機嫌を損ねたように口の端を曲げ岩の上に腰掛けた。
ピュウイの葉を拾い、噛むのかと思ったら、むき出しの股間に張り付けた。そして不敵な笑みを見せる。
「これでよし」
ピュウイの葉 防御力+2
「あのー、どうしてヤギから変身したんですか」
「俺は……、冒険者だった。神官の課す試練に失敗し、動物に変えられていたのだ」
つまり、タマさんは試練に失敗した冒険者をヤギに変えて飼っていたってことか。本当だとしたら、恐ろしいなんてものじゃない。
「だが、俺が元の姿に戻れたということは時が来たということか」
ヤギさんは意味深なことをつぶやき、山の方に足を向けた。
「あの、どこへ?」
「決まっている。神官の所だ。俺は行かねばならない」
二人で元来た道を遡り、丘に戻る。渓流に向かう時より気分は楽だったし、息も切れなかった。
丘ではランカ一人がぽつんと立っていた。足を揺すって、今か今かと結果を待っている。早く安心させてあげなきゃ。
向こうの方から俺たちに気づいた。足音でわかったのかもしれない。
俺の顔から良い結果だと知れたのだろう。腕を広げて走ってきた。俺も受け入れようと待っていたのだが、ランカの視線は俺の背後に向いていた。
「ちょっと、あれなんなんですか」
ランカが声を落とし、ヤギさんのことを訊いてきた。
「俺にもよくわからん。ヤギが変身して人間になった」
「はあ? もしかしてピュウイ噛んだ? 絶対おかしい。なんかある」
ランカが俺を執拗に問いただす。やましいことは何もないが、気分のいいものではない。揉めているように見えたのかヤギさんが話に入ってきた。
「まあまあ、娘。そういきり立つな。頭ぽんぽんしてやるから」
ランカだけではなく、俺もぎょっとした。冗談かと思っていたら、本当に手を伸ばしてきたのでランカは俺の後ろに隠れ、不快感を露わにした。
「あ、すみません。嫌がってるんでやめてもらっていいですか」
俺がやんわりやめるように促すと、ヤギさんは素直に手を引っ込めた。そして驚きを込めてランカを見つめる。
「馬鹿な……、俺がぽんぽんして喜ばない娘はいなかった。その娘、さてはやんごとなき身分か。失礼した。許してくれ」
俺とランカは顔を見合わせ戸惑うばかりだ。見知らぬ人間に頭を触られるのは誰だって不快だろう。俺だって警戒する。なのにヤギさんは、その逆の行動を取り、それが無条件で受け入れられると信じていたのだ。
「まるで”ちーれむ”の主人公みたいですね」
ランカが俺にだけ聞こえる小声で言った。
「ちーれむ?」
「VAFにも昔いたらしいですよ。何かの間違いで、すさまじい力を持っちゃって、女の子を囲って自分だけの王国を作ろうとしちゃう人。女の子を物か何かだと思ってるんですよ」
ランカが毒づくのも無理はないけど、俺は内心、そのような存在にあこがれる気持ちはある。口に出したら軽蔑されそうだから言わないだけだ。
「おーい、タマさーん」
埒があかないので、神官の名を呼ぶ。あの人が混乱の元凶なのだ。出てきてもらわないと困る。
呼んだらすぐタマさんが神殿から降りてきた。
「おせえよ。もうヒロコ死んだ」
軽い調子で生き死にを茶化され、俺の心臓は激しくきしんだ。ランカが腕を掴んでてくれたおかけで、踏みとどまることができた。
「うっそーん。まだ生きてるよ。あたしの神威のおかげ」
「あんたふざけてんだろ。次やったら許さねえからな」
俺の警告を聞き流し、タマさんはヤギさんと顔を見合わせた。それだけで全て通じたようだ。
「じゃ、第二試練いってみっか」
タマさんは軽く仕切り直し、神殿に体を向ける。これじゃ前とまるっきり同じだ。
「いいかげんにしてくれよ! 神官だかなんだか知らねえけど、同じことの繰り返しじゃねえか」
「手取り足取りしてやんねえとわかんねえ奴なんか初めからいらねえ。嫌なら帰れ。どうせてめえじゃ無理だ」
こんな調子で本当に間に合うのか。ヒロコはとっくに死んでいて、俺とイリスは踊らされてるだけなんじゃないのか。そして失敗したらヤギにされる。馬鹿げてる。
「言い忘れてたが、相手は三百年前最強だった冒険者だ。椿死十郎、こいつを越えてみな」
「えっ……!?」
タマさんの言葉に緊張が走る。ゆっくり後ろを振り返る。ヤギさんと目が合った。
「三百年、か……」
ヤギさんはいつの間にか黒い着流しを纏って帯を巻いている所だった。足には草履。刀を差していれば完全に侍の風貌だったが、腰には下げていたのは木の棒だった。
「自分の名前も、姿も、思い出すのに時間を要したわけだ。そうか……、もうそれだけの時が」
悠久の時に思いを馳せるように、ヤギさんは目を閉じる。その感傷に当てられ、俺とランカも口を開くのをためらった。
「お前、名前は?」
ヤギさんに不意に訊ねられ、俺は口を開くのをためらった。ランカにせっつかれなかったらずっと石のように動けなかったかもしれない。
「タロウ=オオツダ」
「俺は椿死十郎。ようやくこれで準備が整った。名乗らないと落ち着かなくてな。流儀に付き合ってくれて感謝する」
死十郎は、俺から数十歩離れた所まで歩き立ち止まる。
「では参ろう。覚悟はいいな? 勝った方が”竜忌士”を名乗れる」
俺が構える前に、死十郎はゆらゆらと走り出していた。あまり速いとは言えない動きで、しかし確実に俺を殺そうという意志を感じさせる動きだった。