眠りを覚ます口付けを
マッチを売り歩く少女は、決まった時間から街に繰り出し、そのマッチを売る事を日課としていた。
しかし、今はそんな余裕などなかった。
ベッドに寝ている大人でも子供でもない青年と、猫の青年。
友達である彼らを心配そうに見つめ、おどおどしながら部屋を行ったり来たりとしていた。
とくにレイルの方は、重症そうに見えた。
怪しげな暗い文字が、体のほとんどを蝕んでいる。
最初は左頬だけだった筈が、日が過ぎていくにつれ、彼の体にまるで生き物のようにジワジワと広がっていく。
大量の汗を流しながら、苦しそうに唸っている。
たまに暴れる時だってあった。
ドロシー「レイル...」
苦しそうな声に、耳を塞ぎたくなる。
こんな状況に泣き出しそうになった。
ドロシーは、彼の顔から吹き出す汗を丁寧に拭いてあげた。
今頃、アマキは何をしているだろうか。
家の近くまで、既に帰って来ているかもしれない。
彼女の事も、とても心配だった。
近くまで、様子を見に行っても良いかもしれない。
と、そんな事を考えていた時だった。
コンコンっ....
突然、玄関のドアを叩く音がした。
体がビクリと反応する。
しばらくすると、もう一度同じ音がした。
??「どなたか、いらっしゃいませんか?」
海希ではない女性の声。
ドロシーは、恐る恐る玄関に近付いた。
ゆっくりとドアを開ける。
その向こうに立っていたのは、ローブで身を包んだ女性だった。
ドロシー「...どちら様ですか?」
フードを深くかぶり、口元を覗かせている。
スラリとした綺麗な輪郭を持つ女性は、ドロシーに軽く頭を下げた。
女性「ここに、レイル・チェシャ・キャットがいると伺いました。少し、会わせていただけませんか?」
その瞬間、ドロシーの顔が青ざめた。
どうしてここがバレたのか。
この女性は誰なのか。
疑問に思う事はたくさんあったが、口に出したのはそんな言葉ではない。
ドロシー「チェシャ猫はここにいません...どなたから聞いたのか分かりませんが、勘違いですよ?」
嘘をつく事は得意ではなかった。
バレないか心配になり、自然に声が震えてしまう。
女性「警戒しなくても、私は彼を捕まえに来たのではありません」
体が飛び上がった。
ドロシーは、すかさず扉を閉めようとした。
が、女性に足を入れられ、上手くドアが閉まらない。
女性「信じてください!私は彼を助けに来ました!お願いです、中に入れて下さい!」
ガタガタと体を震わせながら、ドロシーはパニックになっていた。
じわじわと溢れてくる恐怖に、視界が涙で滲んだ。
女性「私は魔女です!私なら彼を助けられる!」
ドロシー「!」
その言葉に、ドロシーの動きがピタリと止まった。
緩んでいく腕の力。
彼女は、自分が魔女だと言った。
少なくとも、呪いの事を知っている。
女性「...彼の所へ、案内して下さい」
ドロシーは、ゆっくりと扉を開け、彼女を見つめた。
何処の誰かも分からない人間を、信じて良いものなのか迷った。
女性「急がなければ間に合いません!早く案内を!」
また、体が跳ねる。
言われるがままに、ドロシーは寝室に彼女を案内した。
ベッドの上で、苦しそうにもがいている猫の姿。
ローブの女性は、彼の前にしゃがみ込むと優しくその頬を撫でた。
女性「とても苦しそう...」
憂いの含んだ眼差しだった。
一言そう言うと、彼女はレイルに顔を近付ける。
気味の悪い黒い文字が並んだその頬に、そっと唇を落とした。
その瞬間、浮かび上がっていた黒い文字が一斉に光を放つ。
一文字ずつ、レイルの体から剥がれていくように宙を舞った。
長くなった文字の列は、輪を描きながらグルグルと回り、音符のようにリズム良く弾む。
やがて、ローブの女性の周りを囲み、風に吹かれた砂のように、サラサラと流れて消えてしまった。
一瞬の出来事だった。
今の出来事を見ていたドロシーは目を丸くし、呆然としていた。
何が起きたのか分からない。
けれど、猫の青年の体なら黒い文字が消えてしまった事は確かだった。
彼女は魔女。
魔女の生き残りだと確信出来た。
レイル「.....っ」
レイルが、ゆっくりと目を開ける。
綺麗になった表情は、とてもすっきりしているように見えた。
レイル「あれ...ここ、どこだ...?」
虚ろげに天井を見つめている。
まだ、本調子ではなさそうだ。
ドロシー「レイル!!!」
女性が立ち上がり、レイルから離れる代わりにドロシーが駆け寄った。
ちらりとドロシーを見たレイルは、目を細める。
レイル「...ドロシー?なんでお前が....」
ドロシー「ここはあたしの家よ。目が覚めて良かった。体はどう?大丈夫?痛い所はない?」
レイル「別に平気だけど....?」
何度もしつこく訊いてくるドロシーに、レイルは面倒臭そうに答える。
いつものレイルだ。
ドロシーはホッとして、胸を撫で下ろした。
安心したせいか、また涙が出そうになった。
レイル「...俺、ずっと寝てたのか?」
天井を見つめたまま、彼が静かに言った。
なんだか弱々しい声だった。
やはり、本調子ではない事が分かる。
ドロシー「そうよ。今、飲み物を持ってくるわね」
レイル「...アマキは?」
彼の事を思い、ドロシーが立ち上がろうとした時だ。
彼女の名前を聞き、ドロシーの表情が曇る。
返事のない彼女に向かい、レイルはドロシーに視線を変えた。
レイル「アマキはどこだよ?」
ドロシー「アマキは...その...」
そわそわする彼女に、レイルは眉をひそめる。
上半身を起こし、ドロシーの手首を掴んだ。
その手に力がこもっていた。
左右の色が違う目が、鋭く彼女を睨む。
レイル「...アマキに何かあったのか?」
何かあったのかもしれないし、そうでないかもしれない。
なんて答えて良いものかドロシーが悩んでいると、後ろで見ていたローブ姿の女性が口を挟んだ。
女性「貴方の為に鏡の城へ向かいました...いえ、もう到着しているようです」
その瞬間、レイルは素早く立ち上がった。
そばに置いてあった拳銃を掴むと、一瞬の内に銃口が女性に向けられていた。
レイル「あんたは誰だ?」
低い声でレイルが言った。
ドロシーが、慌てて止めに入る。
ドロシー「レイル、やめて!この人がレイルを助けてくれたのよ!?」
レイル「俺が頼んだ訳じゃない」
尻尾と耳の毛を少し逆立てながら、彼は冷たい口調で言った。
銃を降ろそうとしない彼に、女性は更に続ける。
女性「...彼女は今、鏡の世界に居ます。そこで抜け出せずに過去の中で彷徨っている...助けられるのは、どうやら貴方だけです」
レイル「なんでアマキがそんな所にいるんだ!!!」
レイルの怒声が飛んだ。
瞳孔が丸くなり、口元からは鋭い牙が光る。
今にも撃ってしまいそうな勢いだった。
ドロシーが思わず叫ぶ。
ドロシー「あなたの為よ、レイル!あなたを助ける為に、アマキは1人で向かったの!」
レイル「ドロシー!!!なんで止めなかったんだ!!!!しかもたった1人で行かせるなんて...!!!」
レイルにキッと睨まれ、ドロシーは押し黙り体を震わせた。
女性「彼女が選んだ事です。全て、貴方の為にと...それが、どうやら姉の餌となったようですね」
シーンと静まり返る部屋。
銃を突き付けるレイルと、突き付けられる女性。
2人の表情も態度も、何一つ変わらない。
そして、その光景を見てハラハラしているドロシー。
沈黙の中、先に切り出したのはレイルだった。
レイル「姉?あんたの姉さんかなんだか知らないが、アマキに変なちょっかいかけたら俺がそいつを殺す」
女性「私に止める事は出来ない...彼女の名前はアリス。人に幻覚見せ、自分が許した人間以外は拒み、あの城からも出てこない。どうか、姉さんを止めて欲しいのです」
彼女の肩は震えていた。
拳銃を向けられ、恐怖しているからではない。
彼女の瞳に、うっすらと涙の膜が張った。
レイル「俺はアマキを助けに行くんだ。あんたの姉さんなんかどうでもいい」
冷たくそう言い、レイルは目だけを動かし近くを見回した。
もちろん、銃は女性に向けられたままだ。
レイル「ドロシー、俺のもう一丁の銃はどこやったんだ!?」
ハッと我に返り、ドロシーもキョロキョロと辺りを見回す。
そして、ふと思い出した。
ドロシー「そう言えば、アマキが持っていたような...」
最後に見たのは、海希がピノキオを脅した時だった。
確かに彼女は、レイルの拳銃を持っていた。
レイル「...なら、そっちの方が手っ取り早いな」
銃の向きを、女性からレイル自身に変える。
自分のこめかみに銃口を当てると、レイルは躊躇なく引き金を引いた。
ドンッ!っと大きな音と淡い光に包まれ、彼はその姿を消した。
まるで、嵐が過ぎ去ったような感覚だった。
静かになった部屋に、ドロシーは力なくその場に座り込んだ。
寝込んでいた事が嘘のようだった。
彼は自分が心配する程でもなく、むしろ本調子過ぎた。
女性「...急に押し掛けてごめんなさい。私は、これで失礼します」
頭を下げ、スタスタと部屋を出て行く女性。
ドロシーは素早く立ち上がり、彼女の後を追った。
ドロシー「待って下さい!」
彼女の背中を呼び止める。
相手は、玄関扉の前で立ち止まった。
ドロシー「あなたは誰なんですか?どうして、アマキの事が分かるの?」
女性「全てはユグトラシルから教えて貰った事です。私には、そんな事くらいしかしてあげられないから...」
とても悲しそうに、彼女は笑った。
結局、ローブの女性は名前も告げずに出て行ってしまった。
静まり返った家の中に、ドロシーはただ立ち尽くすしかなかった。




