堕ちた穴
自然に溢れ出る涙。
頬を伝って流れる涙は、床に開いままの絵本にポタポタと落ちた。
真っ白なページに、大きな染みを残していく。
涙で濡れてしまった絵本は、表面に水溜りを作り、やがて膜を張る。
それが溢れ出し、小さな道筋を作った。
まるで、この絵本も悲しげに泣いているかのように、その涙はゆっくりと流れていく。
私が住んでいた場所。
通っていた学校も、信頼していた友達も、心配を掛けていた両親も。
全てが嘘で、偽りのもの。
あれは私。
私自身なのだ。
エマと言う少女は、稲川海希の記憶を借りた偽りの私。
今でも信じられないのに、涙が止まらない。
その場に崩れ落ちるように、私はひたすら泣いていた。
ずっと帰りたいと思っていた場所。
その筈だったのに...
私の現実世界は、向こうではない。
ずっと昔から、ここにあったのだ。
海希「私は....私は....」
まともに呼吸が出来なかった。
なにも考えたくない筈なのに、先程見た映像が、頭の中で何度もリプレイされる。
今まで、たまに私が見ていたおかしな夢。
屋敷で見たものは、霊感だと思っていた。
そうじゃない。
これは、覚えているのだ。
記憶はなくても、身体が覚えている。
なのに、思い出せない。
涙は止まらないのに、何も思い出せない。
胸が痛くてたまらない。
レオナード・ライディングの事も、男爵夫人のマリアの事も。
それに、レイルやピーター、ドロシーの事も。
この世界の事。
何一つ覚えていない。
こんな自分に、吐きそうになる。
おかしな世界にやって来て、帰らなければと思っていた。
けれど、私に帰る場所なんてない。
そんなもの、最初からなかったのだ。
少女「お前は逃げたんだ。全てを捨てて、逃げた...そして、私を裏切った」
いつの間にか、私はどこかの部屋の中にいた。
上下が逆さまの部屋。
床であるはずの天井に、テーブルやベッドがくっついている。
私が跪く天井には、お洒落なシャンデリアがぶら下がっていた。
どの家具も、私なんかより遥かに大きい。
高いビルのようにそびえ立つ本棚や、巨大なクマの縫いぐるみ。
重力の仕組みと、物のサイズ感覚がおかしな空間。
私もおかしくなっている。
体が震え、声が出ない。
全身に力が入らず、呼吸の仕方さえ分からなくなっていた。
私の元へ歩いて来る少女。
目の前で足音が止まり、震える私を刺すような視線。
彼女の冷たい言葉が、上から降ってくる。
少女「もう、お前はここから出られない。居場所のないお前が楽になれるように、永遠の迷宮へ招待してやろう」
少女が言った瞬間だった。
不思議な空間だった部屋が、真っ暗になる。
急に照明を落とされたように、何も見えなくなる。
そして、私の体は落ちていく。
押し寄せる暗い気持ちで重くなった身体が、暗闇の中に沈んでいく。
深い深い闇の中。
背負っていたリュックの肩紐が切れ、荷物がバラバラになって消えていく。
私の涙は、飴玉のようにコロコロと宙を転がった。
これは夢....?
だとしたら、私はいつから夢を見ているのだろう。
この世界にやって来た時から?
エマとして、向こうの世界に行った時から?
それとも、見ている全てが夢なの?
いつから私は、この長い夢を見ているのだろう。
永い眠りについているような感覚。
この眠りから目覚めさせてくれる王子様はいない。
いたとしても、そのキスの持ち主にきっと幻滅されている筈だ。
私の物語は、ここで終わる。
たくさんあるおとぎ話。
どれもこれも憧れていたが、私は可愛いお姫様でも、心優しいお姫様でもない。
逃げる事、忘れる事しか出来ない弱くて卑怯な女。
頭が真っ白になっていく
私の目の前に舞う真っ白な絵本
ページが引きちぎれ、バラバラになって消えていく
タイトルのない、名前のなかった絵本
全てを捨ててしまった可哀想な絵本
それが、闇に溶けていく
私も同じように、この闇に呑まれてしまう
...もう、どうでもいい
あの少女が言ったように、また逃げれば良い
自分からも、現実世界からも
...いや、もう逃げる場所なんてない
何が現実で、何が夢なのかも分からない
私に残されたのは、この闇に堕ちいく事だけ
夢に落ちていく時の感覚
これが夢であっても夢でなくても、永遠に堕ちていきたいと思った
永遠に続く深い穴
確か、どこかのおとぎ話にもこんな穴が出てきた話があった気がする
私が堕ちるこの深い穴は、一体どこに繋がっているんだろう
いや、繋がっている場所なんてない
真っ暗な世界は怖くて寂しくて
結局、私は1人きり
居場所のない私には、お似合いの場所
誰の声も届かない
私の声すら響かない
存在すら、消してしまったのだから
...私は、"私"じゃない
もう、誰でもないのだから
微かに入る小さな音
何処かで聞いたことのある音だった
あぁ、そうだ
忘れもしない、あの日
家に帰ろうとした私に、助けを呼ぶように鳴いていた小さな声
あの時の声が、微かに聞こえてくる
瞼の裏に、猫の姿が浮かんだ
黒と白の毛並みに、黄色と青色の綺麗な瞳
とても不思議で、魅力的な猫
尻尾をゆっくりと揺らしながら、私に甘えるように擦り寄ってくる
そして、私に鳴いている
なに?聞こえないよ?
私に何か言っている
小さな口をパクパクとさせて、まるで人間のように私に何か伝えてくる
そして、姿を変える
猫耳を生やした青年は、明るい笑顔を向けている
そして、私を呼ぶのだ
それは、私の名前じゃない
もう、私の名前ではない
だから、その名前で呼ばないで
それは、私が捨ててしまった名前
そして、偽りの名前なのだから
それでも、青年は嬉しそうに呼んでいる
こんな私を
この世界から逃げた私の手を、優しく引いてくれる
どんなに抵抗しても
どんなに文句を言っても
決して、握ったその手を離そうとはしない
ただ私に、悪戯に笑い掛けてくる
いつものように、導いてくれる
安心させてくれる温かい声と、温かい彼の手
こんな私を、迎えに来てくれる
暗闇の中で迷い、立ち止まってしまった私を
どんな時だろうと、どんな場所だろうと見つけてくれる
どこかへ案内するかのように、彼は私の行く道を教えてくれる
とても遠回りな道
弱い私には、とても歩き辛い道
けれど、彼の教えてくれる道は、いつだって明るい
彼と歩くこの道だけは、不思議と笑みが溢れてしまう道だった
海希「....!?」
私の胸元辺りが、激しく光り始めた。
堕ち続ける暗闇の中を照らす、青白い光。
優しい光だった。
眩しい筈なのに、目を開けていられる。
私はそっと、光るそれを懐から取り出した。
黒と白でデザインされた拳銃。
その温もりが、弱り切った私の体に伝わってくる。
未だに玩具のように見える拳銃。
もう、怖くは感じない。
それが、優しい光を放つ。
海希「...なに?」
不思議な出来事に、自然に涙は止まっていた。
突如、その銃口から魔法陣が現れる。
もちろん、私は引き金などひいていない。
まるで、映写機のように宙に映し出した。
私の真上に現れた魔法陣。
私を見下ろすかのように、クルクルと回っている。
その光景に目をぱちくりさせていると、そこから何かが飛び出して来た。




